日本財団 図書館


十二 発祥地となった大村
 いろいろな苦難の道をたどって県競走会より大村での開催地を決定されたのが、二十六年八月初旬であったが、それと合わせて考えられることは選手の養成であった。いくら競走場が出来上がっても、いくら実施の許可を得ても艇をあやつり競走を行なう選手がいなければどうにもならないことであった。当初は八隻建てでレースを実施したこともあったけれども最終的には六隻建て一本で実施されることになった。ところがそれで実施するとして一人が一日に二回出場とすれば最小限五十名は必要と判断された。一日も早く選手の養成を始め、レースを実施せしめるべく、松永辰三郎、山下勇の両氏は事の重要性を力説し事業課へ訴えた。彼等の熱意に動かされて話は急進し選手養成会も出来上がった。五十八名の希望者をA、B、C、の三班に分けて機関、操縦教練等をみっちり指導し内二十六名を選手候補者として採用したが教官、受講生共文字通り苦闘の連続であった。費用に至っては訓練生同志が互いに話合い正月の門松建てを請負ってその金額を充てる等、互いに一日も早く正式な登録選手としての資格を取り、本レースに望み度い気持で一杯であった。全連の厳しいテストが行なわれ予定した人員の合格を見ることが出来たが、依然として開催ははかどらなかった。手をやいたあげく二十七年一月九日長崎における競走会役員会に於て一日も早くレースが決行される様、繰り返し要請した結果、会長は代表者二名を飛行機で上京させ、全連に懇請させたが会談は中々はかどらなかった。この様な中で全連の確答を待たずして、キヌタ社よりエンジン四十機を購入し、体制をととのえたところ、このエンジンの使用について全連の許しが得られず、かなりてまどったが、手を尽して交渉した結果、キヌタ、エビンルート、マーキュリー、この三種のエンジンを墨田川で試走して、キヌタが他のエンジンに遜色が無ければ、キヌタエンジンの使用差支えなし、同時に四月初旬に開催すると回答を得た。試走の結果合格したものとみえて「二月六日レース場登録のため会長外数名行く、開催四月決定」と市長宛の電信が入った。骨が折れた後だけに関係者は互いに手を取り合って計画の成功を喜び合った。待望の施行市指定並びに競走場の登録も二十七年三月三十一日付をもってとどこおりなく終了し、決定された四月六日も取込みの中に刻々と迫り、連合会関係者が大村へ乗り込み、連夜の準備の下に、レースは数千の観衆の見守る中でかろうじて実施されたのであったが、ろくに準備も整わないままによくもこの様な大胆なことを進めたものだとあきれかえらざるを得なかった、とは全連関係者のいつわらざる声であったが、このレースこそが日本に於ける競艇の始まりであり、発祥地と呼ばれる所以もここにあると思われる。
 
十三 苦難のボートもやがては大人に成長
 昭和二十六年六月十八日競走法が制定されて以来、市においては早くも特設モーターボート競走準備事務所を設置し競走場設置議案の議決を受けるや、七月二十五日を期して競艇場の鍬入れ式を行ない、十月三十日には突貫工事を以って施設を完成したのである。この間において選手養成も計画通りこぎつけ、競走実施市の指定を待たずして、十一月二十五日には早くもアマチュア大会を実施し、明けて二十七年四月六日待望の第一回レースを実施したのであるが、初日第一レースの売上票数五九六票当日の売上金額弐百六拾四万壱千七百円、入場人員九、一四九人で予測出来なかった売上額だけにお互いの考えも悲喜こもごもであったが、売上金額に対し、入場人員が、いちじるしく多かったことは、競艇の物珍しさに見る客が多かったことを物語っている。翌二十八年四月四日開設一周年記念特別レースを開催し、一日平均売上高五百弐拾五万六千九百弐拾五円、入場人員二、七八九人で初回に比較して、いちじるしく上昇したことは、レースに対するファンの関心度が高まったものと考えられる。愈々八月十六日恒例の盆行事を期して開催した結果六百七拾五万五千六百円、入場者四、三四七人と記録が更新された。明けて二十九年四月二日開設二周年記念特別レースにおいては、一日平均参百六拾七万八千六百弐拾五円、入場者二、六四一人と予想に反し減じたことは関係者をして落胆させた。八月二十一日全国初のオール女子ダービー戦を開催したが、一日平均売上参百九拾万六千参百円、入場者一、二四四人と、これまた期待外れであった。三十年四月一日開設三周年記念特別レースを開催した処、一日平均売上弐百五拾八万八千五百弐拾五円、入場者八三五人、依然として下降の線をたどり、競艇の将来に暗雲が漂い始めた。その後記念競艇が実施される処となり、同年八月二十日第一回記念競艇レースが開催されたが、一日平均参百拾壱万八千七百円、入場者九四三人で、更に期待が裏切られた。
 翌三十一年一月十七日第五レースにおいて、拾万六千四百弐拾円の超高配当が出て、ファンをアッとうならせた。同年四月九日開設四周年記念特別レースにおいても一日平均売上弐百七拾九万九千円、入場者七四一人と思う様に伸びず、前途は更に憂慮された。三十二年四月九日開設五周年記念特別レースに於いて、一日平均売上参百弐拾壱万七千弐百弐拾五円、入場者一、〇四七人と余り伸びる様子でもなかったが、三十三年四月五日の開設六周年記念特別レースにおいても依然として売上が伸びず一部には競艇廃止の声も出始めたのであった。昭和三十四年四月七日開設七周年記念特別レースを開催したが、一日平均売上弐百五拾弐万六千参百円、入場者七五〇人、依然として売上低調で競艇返上の瀬戸ぎわまで追い込まれるところとなった。同年九月九日第三レースに於いても超高配当拾弐万六千壱百五拾円(的中券一枚)が出、つづいて十一月十七日第十一レースに於いて更に上廻る拾六万八拾円の最高配当(的中券三枚)が出て、競艇の魅力感がいくらか高まり始めた。翌三十五年四月八日開設八周年記念特別レースに於いていくらか持ち直しの気配が見られた。同年十二月二十三日キヌタ十五馬力エンジンを廃止し、ヤマト三十型、十八馬力新エンジンに更新され同月三十日発走用二重針大時計が設置された。三十六年四月十四日開設九周年記念特別レース開催により一日平均売上四百八拾六万壱千弐百五拾円入場者一、一〇八人と徐々に増加する傾向が見え、同年十二月二十一日第十レースに於いて拾万六千五百円(的中券三枚)の高配当が出た。翌三十七年三月二十一日、開催において一日売上六百七拾万参千九百円、入場者一、二七五人とのび、開設十周年記念特別レースを待たずして九年振りに一日当り六百万円の声を聞き、当日第十二レースで八、七九八票これは開設以来のレース売上新記録となった。三十七年四月二十日開設十周年記念特別レース一日平均売上五百七拾六万五百円、入場人員一、四四四人、四月度開催計六千拾九万四千円一日平均五百九万九千五百円となり、本月のみ全国モーターボート競走会連合会に対し法第十九条交付金を交付することとなった。
 同二十日モーターボート競走法の恒久法化を機に同年十一月孟宗竹三、五七〇本(四二〇m)による波浪対策を実施した。三十八年一月から月間売上六千万円を突破(一月計六千九百弐拾五万参千円)し以降日本船舶振興会に対しても交付金を交付することとなった。同年四月一日施行規則の改正により、水曜日をギャンブルホリデーとすることとなった。同年八月三日当競艇場において第一回少年少女ゴムボート大会を開催、出場者三百名の多きに達した。四月十九日開設十一周年記念特別レースを開催、一日平均売上五百参拾七万参千弐百弐拾円、入場者一、一五二人であったが、翌三十九年四月十六日開設十二周年記念特別レースに於いて六百万台を更に上回る七百八拾万九千百円と伸び苦闘の連続で頑張った効果が漸く見え始めた。
 八月十八日、第二回少年少女ゴムボート大会を開催し海事思想の普及と併せて競艇への認識を高めた。明けて四十年四月八日開設十三周年記念特別レースを開催し一日平均売上八百六拾四万六千五百円、入場者一、五九〇人と更に伸び始めた。七月二十五日第三回少年少女ゴムボート大会を開催し回を重ねる毎に出場者、観覧者も増加して来た。同年九月三十日第十二回九州地区選手権競走を当市において初めて実施した処、一日平均売上九百拾四万弐千四百円と上昇し、同節四日目(十月三日)壱千百参拾九万五百円の売上新記録を樹立し更に同節最終日(十月五日)壱千百九拾参万七千円と記録を更新し全国最下位ながらも漸く壱千万円台の声を聞くことが出来る様になり、関係係員の励みが高まった。
 四十一年四月二十八日開設十四年記念特別レース開催により、一日平均売上壱千五百参拾壱万四千四百五拾円、入場者一、九三三人と、いちじるしく伸び同節最終日(五月四日)おいて、弐千九拾万五千参百円と驚異的な新記録を樹立し、競艇の有難味をいまさらの如く感じさせられた。同年七月二十三日、第四回少年少女ゴムボート大会を開催し益々盛況さが加わり、関係者も張り合いが出た。八月三十日国道より競艇場へ通ずる道路の舗装と入場門前の駐車場の舗装も実施し、更に四十二年三月三十一日多年の懸案であった防波堤工事総延長六六〇米が完成して安定したレースが出来る様になった。同年五月三日全国初の古豪選抜戦を開催、弐千百四万壱千百円と記録を更新、更に最終日(五月七日)弐千弐百七拾万四百円と更新し、順調な延び率を示す様になった。四十二年五月十一日待望の開設十五周年記念特別レースを開催した処レースの安定感も更に認められて返還を含む参千弐拾万弐千九百円の売上げを上げることが出来たことは先ずもって軌道に乗った順調な伸びを示したものと思われ、生まれてここに十五歳の誕生を迎えた競艇児も良く苦難に耐えて数々の歴史を残し、今日に及んだことは努力の結晶ともいうべきで正に賞賛すべきであり、このままで行くと大人の仲間入りが出来る日も遠いことではなかろう。
 
十四 競艇は健全娯楽の殿堂である
 競輪の創設者であり競艇の先覚者である倉茂貞助氏の著書“賭けごと”によれば「人間は生まれてきたら欲望というエネルギーによって活動する。そのエネルギーが賭けごとに働き一つの娯楽が成立つための条件として偶然の事情の成否について財物その他の得失を約束する」とある。金や物をかけ、楽しみとして勝負をすることを賭けごとといい、お互い自分の人生の進路さえも賭けて、その勝負に泣き、笑い、喜び、悲しみ、しみじみと生きる苦楽を味わっているのが人間である。もっとも賭けごとにはその数も数限りなく多いが我が国における公認の主なるものは競艇、競馬、オート、競輪等があげられる。昭和二十三年新競馬法の制定と同時に中央競馬(国営競馬)として競馬を実施したのを皮切りに同年競輪法に基づく競輪(小倉市)又昭和二十五年小型自動車競走法に基づくオートレース(船橋)がそれぞれ実施され、その後昭和二十六年競艇法の制定と同時に大村市が先鞭を切って競艇を実施し、既に十五年の歴史を刻み今日に至ったのであるが、特に競艇は島国に住むわが日本国民にとっては正に打ってつけの事業であり、国民の大方が健全娯楽として家族ぐるみで競艇を楽しみ親しんでいることは、総てのファンの知る処であろう。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION