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大村市
一 知っていただきたい大村
 観光の旅の宿の一室で女中から旦那はどちらですかと聞かれ九州の大村だと答えると、日露戦争がはじまった時、外国人が日本の国がどこにあるのかわからなかった様に大村を知らずにとぼける女中に出くわすことが度々あって悪い印象を受けることがままある。
 そもそも、いにしえにさかのぼって大村をひもといて見ると、大村藩は二万七千石の城下町として約一千年の永い歴史と伝統を有し、後ろには雄大な多良の秀峰をいただき前には波静かな大村湾をのぞみ、実に風光明媚到る処に名所旧蹟が多く、市街地には連隊、航空隊、或いは師範学校等が設置され、軍隊と学生の町として古くから知られて来た。大東亜戦争のぼっ発と共に東洋一を誇る航空廠が建設され人口も一時に膨張し、併せて一町六ヵ村が合併して、十万以上の都市として発足したのであったが、終戦と同時に軍関係諸施設が閉鎖され人口も一時に激減して六万を割るにいたった。その後にいたり広大なる土地を利用して工場或いは民間航空等が進出して、次第に活気も取戻し、その存在も年々高まりつつあった折柄、昭和二十七年にいたり、全国に先がけて競艇を実施しボート発祥の地となったことは余りにも有名で大村の誇りとするところであり、全国のファンはもとより、関係者全員に等しく知っていただきたいところである。
 
二 玖島崎のよさ
 競艇法の成立を待って早くも長崎県モーターボート競走会が設立されたのであるが、そのねらいは全国に先がけて一日も早く本県で競艇を実施させることにあったので競走場の選定は寸刻を争う緊急の問題であった。処が第一番目に名乗りを上げた処は会長の膝元である長崎市内竹之久保の浦上川下流で以後は会長を取りまく有志方と密接なつながりを持つ時津村、早岐の大塔、大村の玖島崎、矢上村の綱場等がお互いの適格性をとなえ先を争って猛運動を展開したので競走会としては何れを選ぶか実にまよわざるを得なかった。
 当時わが大村市では早くも競艇場建設事務所を開設し準備を進めていたので、あらゆる手段を講じて玖島崎のよさを力説し誘致に努めた結果、漸く認められる処となったのであるが、その玖島崎こそ湾内に長く突き出て奇岩起伏し老木はうつ蒼と繁り、城の石垣はこけむして大村藩一千年の栄枯の跡をしのばせ、参道の桜と、お堀の菖蒲は観光名所の一つとして広く親しまれ、海はあくまでも澄み、眞珠(タマ)を抱いたアコヤ貝が波間にきらめく光景はオトギの国を思わせ、まさしく日本屈指のユートピアであることは訪れる方のすべてが異口同音に絶賛する処である。
 
三 県競走会ついに誕生
 長崎県選出代議士坪内八郎氏は競走法施行当時運輸委員の要職に在り鹿児島県選出前田委員長等と共にこの法の制定について色々と検討苦心をなされた一人であるが、この坪内八郎氏こそ競艇発足の第一の功労者であり、且つ又、大村競艇の先覚者でもある。その頃同氏は運輸委員の立場で色々と自分が今迄検討をして来た競艇を全国に先がけて本県内で実施すべく、義兄に当る三浦孝治氏、その他有志数名と相計り夜を徹して内密に計画を練ったが、極秘であるべきその計画が次第に外部に洩れるところとなり、予期せざる障害にぶつかったことも度々あったが、昭和二十六年六月法律が制定されて間もない、翌七月には早くも全国に先がけて第一号の長崎県モーターボート競走会が設立され、同氏が初代会長として名声をとどろかし、茲に名実共に日本最初の県競走会が誕生したのであった。
 
四 思い切った大英断
 大村市は昭和十七年一町五ヵ村が合併して市制が施行され戦争の拡大に伴い、軍関係施設等が次々に建設され、人口も急激に増加して一大発展を遂げたが終戦と同時に廃きょと化し市の財政も次第にひっ迫するに至った。
 その後昭和二十四年にいたり、松原地区と福重地区より大村市に見切りをつけ分村問題が持ち上がり、手を尽した結果松原地区だけは食い止めたが、その中間地区に挟まれた福重地区は分村派が勝ちを占めるに至った。
 処が戦争終結後、マッカーサー司令部より、分村はその住民の意志にまかせる旨通達が出ていることでもあり、結果をそのまま報告することになると、福重地区は分村され市はその支柱を失うことになるので、これを食い止めるために先ず上級官庁である県及び県議会に強力に働きかけたが話は中々はか取らなかった。手を焼いた市長は直ちに上京し、マッカーサー司令部の民生部長官に対し、実状をつぶさに説明して分村取り消し方を地区代表に命令する様懇請した結果、聞き入れられ所轄の長崎駐屯地司令部を通じ分村取止めの命令が出されて、漸くケリがついたのであった。
 そこで市長は、この際これ等の諸問題も併せて財政建て直しの為に思い切った一大施策を考えざるを得なかった。たまたま中国の上海在住当時、ドッグレースで相当の収入を上げていることを知り、引揚後内地に於てもこれ等類競技を始めることが出来たならばと心ひそかにその機を伺っていた。ところがその後モーターボート競走法が制定施行されることをいち早くキャッチし、当事業について興味あるものとして取り上げ真剣に検討すると共に議会にも諮ることとなったが、議会に於ても直ちに各部会より二名宛の委員を選出し研究することとなって協議を重ねた結果、モーターボート競走誘致特別委員会を設けることになり委員長に西謙太郎議員、副委員長に大村純之議員が選ばれた。一方市に於ては法案の通過を待たずして、モーターボート競走場設置事務所が新設され私がその主任を命ぜられた。法案の通過と共に官報を取り寄せ、丹念に検討にかかったが、一方議会に於ても特別委員長を中心にそれぞれ研究にとりかかった。短時日で纒め上げた案を議会全協に諮り説明する中で、エンジン、艇等初めての専門用語が使われて、熱心に質疑が交されたが再三にわたる委員長の説明にもかかわらず要領を得ない議員もあって、そのために委員長が短気を出し失言取消しの一幕もある等、真剣に討議され一部には反対の声もあったが市の全予算規模、僅か二億一千万円の中から、実施して見なければ全くわからないこの大事業に対し、千数百万円もの巨費を借り入れ投入し、競艇事業をはじめようとする市長の心境は考えてもあまりあるものがあったが全くの大英断といわざるを得まい。
 
五 難産の競艇場
 そうこうしている内に県競走会は坪内会長を中心として候補に上った長崎の竹之久保、南高の小浜、佐世保の大塔、時津、大村の五ヵ市町村のいずれに競走場の設置を決定するか、あらゆる角度から検討されたのであるが、その内次第に候補地もしぼられ佐世保、時津、大村の三ヵ所となった。ところが一時随分強硬に申込んでいた佐世保市は地元選出の或る代議士の帰郷を機に内容を打あけた処それは止めて大村に譲ってやるべきだといわれ涙をのんで引込めざるを得なかったが、それは佐世保市が競輪を始める時に自治省の許可に対する同氏の骨折り等の事情もあって同氏の言に従わざるを得なかったともいわれている。残りは愈々大村市と時津村の二ヵ所となったが、いずれも大村湾内の波静かな入江で好条件どうしで誘致について激しい争いとなったわけで、時津に於ては大東亜戦前に県営綜合競技場を作ることになっており、それが戦争の為に中止となったともいわれており、又、長崎市電の時津延長を策し、いっきょに時津の発展を計ろうと地元有志の方々がほん走され競艇実施についても村会において既に議決され、県競走会にしつこく迫ったのであった。それもその筈、会長が時津の線をほのめかし、関係者に暗示を与える様な発言をしたためこれに意を強うしたのが時津村で、競走会に対する寄附金にしても、はるかに大村を上回る線を出すなど相手かまわずの振舞いで猛運動を展開したのであるが、大村側はその裏をかき、内部精通者を通じ相手方のすべてを手に取る如く、キャッチしてかかったのであった。その中で時津は特に水面が優れていることを取り上げて決定へ持ち込もうとする気配が判った。ときの誘致委員長西謙太郎氏は、すかさず副委員長の大村純之議員と相計り、同議員所有の舟で魚釣りを装い、時津海岸にこぎ出し水中にもぐって、つぶさに海底の状況等を調べ時津の強さをくつがえすに足る資料を整え、追い打ちをかけたのに対し、時津は、又さらに優れたことを取り上げて対抗し、互いに一歩も譲らざる意気込みのせり合いが見られたが、思い余った大村側はもはやこうなっては尋常の手段では手ぬるいと考え密議をこらしたあげく、会長のおびき出しを企て某所への誘導に成功したのであった。ここでは会長が日頃本件で随分苦しめられて疲労して居られるので元気恢復を図られる意味でゆっくり静養していただきはしたものの本人にとって見ればしてやられたという正によろこばざる滞在の期間であったと思う。その様な中でもあの手、この手を使ってしつように交渉を続けた結果、八月初旬に至り、ようやく大村市に競艇場決定の回答を得るにいたったのであるが、これにたずさわった地元関係者の血のにじむ苦労こそ、将に賞賛すべきであると思う。
 
六 玖島魂の芽生え
 昭和二十六年七月二十五日の日を期して競艇場の鍬入れ式を始めてから海面の埋立工事を担当した光部組は来る日も来る日も徹夜の連続であったが、それと並行して選手の養成も重要な仕事の一つであり一刻もゆるがせに出来なかった。全連並びに競走会とも協議を重ね県内で選手の募集を行なったのは七月中旬であったが、一日十二レースとして、一人で二回走るとすれば最少限五十名は必要となるので、それ等を念頭において希望者を綿密にテストした結果三十二名の内六名は選にもれて二十六名が一応訓練の対象となった。一方三重県の津市に於ても大村と並行して二十四〜二十五名の訓練を始められて居たので全員が無事合格となれば両方でかろうじて間に会う人員であった。早速、競艇場隣の建物、水明荘に合宿し、訓練を開始したのであるが、えりすぐった二十六名の訓練生は江田島の兵学校をしのぶ厳しい訓練によく堪えて見事な成果を収めることが出来た。一方エンジン及び艇の構造、取扱いについても、キヌタ社杉浦氏親子の講義を熱心に受け技術の収得に努めた。
 乗艇訓練については佐世保市より受講中の小泉氏が二十馬力余りの旧陸軍上陸用舟艇を斡旋してくれたので指導員の立場にあられた松永辰三郎氏がそれを購入し、乗艇、航走の訓練は当時のアマチュア選手権保持者杉浦氏子息が当り厳格な指導が行なわれたが、訓練生の中には自動車、三輪車の運転整備にも熟練者が多く、且つ又、熱心であったため、のみ込みが意外に早かったが、水上訓練だけはいささか指導員も骨が折れた。やがて東京から艇、エンジンが到着するや、これ等になじむため、さらに厳しい訓練が続けられたのであったが、エンストを起すと艇が浅瀬に打上げられ損傷を蒙るので冷たい冬の海中にそのまま飛込み艇をかばう等江田島魂ならぬ玖島崎魂がいかんなく発揮されて大村選手ありて大村競艇場ありと日本で初めて羽ばたく玖島育ちの選手の将来に大きな期待がかけられるに至ったのである。


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