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五 躍進する唐津競艇
 当初、唐津競艇では、一日の売上額が三、〇〇〇、〇〇〇円ないと収益金が出てこないという計算で予算をたてていたが、第一回第二節の三日目(八月十六日、日曜日)にして、早くも売上額三、〇一四、八〇〇円を示し、関係者を驚喜させたが、以後順調な発展を見せ、初年度にして早くも一般会計に繰出し可能な線を見出すことができた。
 開催初年度の売上額は、次のとおり。
 
開催回 日数 総売上額 一日平均額

第一回(八月)

一二日
(千円)
二八、五二五
(千円)
二、三七七
第二回(九月) 一一日 三八、七二四 三、五二〇
第三回(十月) 一二日 六六、〇〇五 五、五〇〇
第四回(十一月) 一〇日 五七、八三三 五、七八三
第五回(十二月) 一〇日 五七、五七八 五、七五七
第一回(二十九年一月) 一二日 八三、八九四 六、九九一
第二回(二月) 一二日 七二、八五五 六、〇七一
第三回(三月) 一二日 七四、八一五 六、二三四
合計 七九日 四八〇、二三一 五、二七七
 
で、当初の予定額一日当り売上額三〇〇万円を遥かにオーバーし、五二七万七千円を示し、一般会計への繰出金も、三〇〇万円を生じ、僅かではあるが、市財政に幾らかでも寄与することができた。
 競艇を開設するか、しないかで、市民の賛否両論ごうごうたる中で開設された唐津競艇は、関係機関および市民注視の中で前述のとおり好調の波に乗り、舟券売上額も回を重ねる毎に順調に伸びを示してきて、第三回(昭和三十八年十月)には、ついに全国一七の競艇場で、第六位に入るという輝かしい実績を挙げることができた。
 全国競艇場の上位六位までの一日当り売上高は、次のとおり。(一日当り売上額)
第一位 福岡 一一、一一一千円
第二位 若松 九、七八一千円
第三位 芦屋 八、六九〇千円
第四位 尼崎 六、九五六千円
第五位 児島 六、五六六千円
第六位 唐津 五、五〇〇千円
 この頃から、県内はもちろん県外にもファンの獲得に努めた結果、売上も次第に上昇し、第四回(十一月)には、全国第五位に躍進した。
第一位 若松 一一、〇四〇千円
第二位 福岡 一一、〇二〇千円
第三位 芦屋 七、五二〇千円
第四位 児島 六、五七〇千円
第五位 唐津 五、七八〇千円
第六位 尼崎 五、六三〇千円
第七位 浜名湖 五、五〇〇千円
第八位 徳山 五、三六〇千円
第九位 半田 四、九八〇千円
第十位 鳴門 四、二〇〇千円
 開設半年にも足らずして唐津競艇は、全国上位の売上実績を示し、確固たる地位を築くことができた。
 ついで、昭和二十九年の新年レースは正月休みを利用したファンがどっと押し寄せ、場内は満員の盛況で、入場者は初日の二日(土曜日)には、三、三〇四名、二日目の三日(日曜日)には、三、五八四名を数え、舟券の売上も初日八、六六二、九〇〇円、二日目一〇、二二〇、〇〇〇円と、ついに待望の一千万円台を突破することができたのである。
 この偉大な数字について、地元、唐津新聞は「新春最大の贈り物」と題して、何回も掲載し、競艇事業の成功を市民とともに喜んだものであった。
 昭和二十八年度、二十九年度と開催を重ねるにつれて、漸く唐津競艇も基礎が固まり、安定した実績を示してきたが、この年(昭和三十年)の四月に清水市長が三選を辞退され、変って金子道雄氏(佐賀県モーターボート競走会会長、昭和自動車株式会社社長)が市長に当選された。
 新市長が就任された当時の唐津市は、道路、橋梁、港湾、漁港等の整備および六・三制実施による中学校校舎の新築その他都市施設の基盤整備事業のための市債に加えて、競艇場設置に伴う市債などで、財政は極度に窮迫し、新規事業を施行することなどまったく不可能な状態であった。
 しかしながら、早急にしなければならぬ事業は、山ほどあるところから、是非、財政再建のための一大手術をする必要に迫られていた。そこで市長は、就任第一年目にして財政再建団体の指定を受けるべく決意し、市議会の承諾を得て、自治省あて財政再建団体の指定申請をすることとなったのである。
 昭和三十一年四月一日、財政再建団体の指定を受け、再建債一四八、〇〇〇千円、再建期間を九年間(昭和三十一年度から三十九年度まで)とすることの承認を六月三十日に受け、いよいよ緊縮財政の市政を行なっていくことになったわけである。
 このような市財政の危機に際して、競艇事業を行なっていることは、誠に意義深く、また頼もしい限りであって、再建期間中に年間平均約五千万円を一般会計に繰出し、再建期間九ヵ年の当初予定を一年間短縮することができ、市民および関係者は、改めて競艇事業の成果が如何に大きなものであるかを痛感した。
 競艇をはじめてから、初年度、二年度と売上も順調に伸び、前述のとおり市財政に寄与するところは誠に大きなものがあったが、その後再建期間の三十八年度頃までは、売上成績も遅々として伸びず、ほとんど横ばいの状況であった。その理由は、燃料革命によって石炭の需要が大幅に減少したため、県内の炭鉱が相次いで閉山し、顧客が減ったこと。また、近郊の産業不振のため人口の流出が大きかったことなどがあげられる。このため、新規ファン獲得のための宣伝の在り方を再検討するとともに、昭和三十六年度から特に福岡競艇との開催日程の調整等を行なうこととした。
 その結果、昭和三十六年度、三十七年度と徐々に効果を表わし、事故の多かった従来のキヌタエンジンをヤマトエンジンに切り替えた(昭和三十九年度から)ことや、福岡、唐津間の国道二〇二号線の全線舗装が完成したこと等により、昭和四十年度には、売上上昇率全国第一位(五七・五%)になり、全国モーターボート競走会連合会会長の表彰を受けることができた。
 開催当初から現在(昭和四十二年度)までの一日当り売上金額および一般会計への繰出金は、次のとおりである。
 
年度 一日当り売上額 一般会計繰出金
昭和
二十八年度
(千円)
五、二七七
(千円)
三、〇〇〇
二十九年度 五、三〇四 六一、一五二
三十年度 四、四〇五 三九、〇〇〇
三十一年度 四、九一〇 六〇、〇〇〇
三十二年度 四、六四二 五六、三〇〇
三十三年度 四、二三五 四〇、〇〇〇
三十四年度 三、九〇五 四二、〇〇〇
三十五年度 四、二〇〇 二一、五〇〇
三十六年度 五、三八〇 六〇、〇〇〇
三十七年度 六、一五四 五七、五〇〇
三十八年度 六、一七四 五五、〇〇〇
三十九年度 九、二九七 一五、〇〇〇
四十年度 一四、六四六 一〇〇、〇〇〇
四十一年度 二一、三七二 四九〇、〇〇〇
四十二年度 二七、三七四 四六六、〇〇〇
 
 以上のとおり、三十九年度から急激に売上高の上昇を示し、その上昇率は、
三十九年度 五〇・六%
四十年度 五七・五%(全国第一位)
四十一年度 四五・九%
四十二年度 二八・〇%
となっており、全国的に時勢が上昇気運にあるとはいいながら、宣伝方法をはじめ事業の施策方針が完全に成功したといえよう。
 一方、施設面では三十九年度から四十一年度までの三ヵ年間に事業費五五、九三〇千円を投じ、スタンドを改築しいささかでもファンの要望に応えることができた。その後厳しくなってきた時勢の要望に応ずるべく規定された運輸省令に適合させるため、昭和四十三年度に工費約四億円を投じ、従来の木造投票所を鉄筋コンクリート造り、二階建(一部三階建)に改築することをはじめ、特別観覧席の改善、競技部の全面改築等に着工し、面目を一新する予定である。
 しかしながら、駐車場の拡張、場内の娯楽施設の整備、緑化等、健全娯楽場として、施行者がするべきことは数多い。近時、日曜日ともなると、子供連れの夫婦同伴者が多く見受けられるようになってきたが、ほんとうに喜ばしいことである。
 唐津競艇もこれらファンとともにあって成長し、地域社会の発展および船舶事業の振興のため、出来得る限りの貢献をしていきたいものと念願してやまないものである。


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