三 苦難の開設準備
このような経緯で、正式認可まではこぎつけたものの、開設に至るまでには、なお相当の日時と苦労が続いたもので、昭和二十七年七月二十二日唐津市議会は、モーターボート特別委員会をもうけ、あわせて競輪特別委員会も設立(後に本省の方針をみて解散)し、執行部に協力することとなった。当時、一般市民の間には、なじみの薄いモーターボートに比べ競輪の方が事業運営がうまくいくという意見が強く、唐津市および周辺の鬼塚村、久里村、鏡村(後に唐津市に合併)、浜崎町の五市町村組合によって、鬼塚村大土井の旧玄海興業跡に競輪場を建設しようと計画されていたために、競輪特別委員会が設けられたものである。
モーターボート特別委員会の委員名は、次のとおりである。(敬称略)
委員長 森次源太郎 副委員長 正野好助
委員 亀井直人 前川義春 谷口三治 矢野 栄 中尾茂雄 林 薫誉 増本嘉市 花田繁二 宗田義見 辻 豊 久我万吉 堀川芳雄
やがて、昭和二十七年も去り、昭和二十八年と年が変わっても、競艇場の建設は、施工費の財源調達と、その後の経営を慎重に検討していたため、遅々として進まず、一向に進展しなかった。新年早々、旅館組合や料亭および食堂組合等の観光開係接客業者で、これが期成促進の同盟を結成し、市当局と市議会に建設促進を申し入れることとなりまた、一方では競走場の設置は非教育的だとし、経営の見透しも危険であるとして、反対する革新同盟があったこと等で、清水市長としては何時までもこれが実施を遷延することは、中央方面や市議会等の関係もあり、また、政治的にも許されない実状にせまられてきた。そこで市長は、池田庶務課長に既設都市である津、大津、尼崎各市の競艇場の視察を命じ、あわせて中島庶務主任を芦屋、若松の各競艇場へ派遣し、設備の内容や運営の実態等を調査させ、競走場建設を最終的に市議会にはかることとしたのである。
一方、市議会側においては、昭和二十八年一月二十一日モーターボート建設特別委員会を開き、競艇場の敷地を牡丹江造船所跡(市有地、現在の体育館)に決めることを協議したのである。これは、敷地が市有地であるところから経費をいくらかでも少なくしようとすることで、この事業に対する議会側の積極性を伺い知ることができるものである。しかし、市議会では、二十一日の議会休会後、全体協議会を開き、森次委員長から同委員会の経過につき報告を受けた後、さきに関西方面の競走場を視察した池田庶務課長から各地の施設内容、運営状況、地元に対する影響など詳細に聴取し、これらの資料を基礎に慎重検討を重ねた結果市議会としては、咋年夏、決議した建設方針を再確認することに決定した。このような状勢のなかで、昭和二十八年一月二十三日市議会全体協議会が開かれ、次のとおり競走場建設についての市長の意志表示がなされた。
一 競走場の建設は既定方針どおり実施する。
二 競走場の位置も既定計画どおり栄町裏水面を適当と認める。
三 施工までは埋立事業との関連性もあるので研究したい。
という内容で、詳しくは次のとおりであった。
一 競走場の建設については、私がいかにも手を拱(こまね)いているようにいわれているが、私としては、埋立事業などとの関連性が強いので、充分研究のうえ決定すべく、慎重な態度をとってきたにすぎない。
二 先日、九州海運局から「競走場の建設は昨年六月決定し、既に半ヵ年を経過しているにも拘らず、今なお着工されないが、建設するつもりかどうか、建設するならモーターボート競走の好季節である六月までには完成するように運んでもらいたい。」という公文書もきておるのでこちらとしては関連する埋立事業等について報告し、これが決定をまって建設する旨を直ちに回答しておった。
三 栄町裏に建設するということは、東高等学校としても相当離れているから教育に支障はないので、別に意見はないということであった。この種の建設は、公共建物への影響を考慮されて、栄町裏に許可されたものであるから、それによって進めていただきたい。
四 これには、松富旅館裏の船溜りの埋立と川岸の埋立が不可分となっているので、これに対し、上流地方の意見はともかくとして、県当局がどんな考えをもっているかを確かめたいと思っているので、明日県の河港課と打合わせたうえで、慎重に研究して対処したい。
この日の清水市長の競走場建設方針表明を契機として、公式の協議会はもとより非公式の打合わせ会は、連日連夜の如く続けられ、海運局から指示された昭和二十八年六月開催を目途として、積極的に建設に歩み出した次第である。
昭和二十八年二月十七日、臨時市議会が開かれ、モーターボート建設関係議案が次のとおり提出された。
一 特別会計競艇事業費設置について
二 競艇用発動機購入について
三 モーターボート購入について
四 一時借入金について
五 競艇事業費予算について
以上の議案は、一括審議され原案どおり即決、可決したが、その予算の内容は次のとおりであった。
一 需用費 三二〇、〇〇一円
二 整備費 九、六七六、四〇〇円
(競走用モーター及びボート購入費)
三 公債費 四一、七〇〇円
合計 一〇、〇三八、一〇一円
この議案の可決によって、従来のモーターボート特別委員会の使命も終り、いよいよ競艇場建設と施設整備の新しい段階にはいったので、同委員会を解散し、新たに競艇と競艇場設立の両委員会を設け、本事業の設立推進に拍車をかけることになった。
新委員会の委員名は、次のとおりである。(敬称略)
競艇部委員
亀井直人 前川義春 矢野 栄 谷口三治 田中忠治 野崎和一郎 宗田義見 高田安一 安藤大三郎 浦田喜市 花田繁二 増本嘉市
競艇場設立部委員
中尾茂雄 香月良弘 堀川芳雄 吉永常太郎 宮崎喜重 村山錠吉 勝山銀太郎 森口猛一 花田繁二 吉田善太郎 増本嘉市
このことによって、執行部と議会側の体勢が完全に整い競艇場建設は急テンポで進捗していった。即ち、懸案になっていた松富旅館裏の船溜りの埋立と川岸の埋立認可は、四月八日渕上助役が県に出頭し、交渉を行なった結果認可されることとなり、四月十七日には競走場の起工式が渕上市長代理、宮副県経済部長、金子県競走会長、宮崎市議会議長、上滝組社長の出席によって挙行され、渕上市長代理の手により、サンドポンプ船への送電スイッチを行ない、競走場の建設が開始された。
市当局が、このような情勢下にあるとき、佐賀県モーターボート競走会では、昭和二十八年三月二十六日及び二十七日の両日、競走会の最も緊急な要務の一つであるモーターボート選手の募集がなされたのである。応募者は女子三名を含み一一五名で、唐津小学校を試験場として試験を行ない、この内の合格者(約四十名)は四月十四日から七十五日間、芦屋競艇場で訓練を受けることになったのである。
昭和二十八年四月一日、唐津市競艇課が誕生し、初代課長代理に野中光二氏(元唐津警察署長)が任命され、これを補佐するため、江副庶務主任と大島宣伝主任が発令されたのである。
辞令を手にした野中課長代理外二名は「モーターボートの競技がいかなるものか、全然知らず、何から手をつけてよいか雲をつかむようなことであった」と述懐されていたが、まず庶務課で現在まで集めていた資料をもとに勉強しそれから実地に競技を知ろうということになり、三名で四月初旬に先進地である大村競艇に出向き、実際の競技面のほか事業全般について勉強し、ある程度の自信をもつことができたということであった。
陸上施設工事関係は、昭和二十八年六月に上滝組と第一次工事(投票所工事)および第二次工事(本部、スタンド、艇庫等)を契約し、七月二十日完成を条件に突貫工事を始めた。
当時の考えとして、モーターボート競走を実施するからには、夏のシーズンを逃さないため、七月二十四日に初開催をすべく、懸命の努力を続けたが、競走水面の浚渫および埋立工事は遅々として進まず、関係者をはらはらさせたが、大型浚渫船(一、〇〇〇馬力)による操業開始とともに、昨日までとはうって変わり、驚異的な進行ぶりを見せたことに対し、関係者をホットさせ、陸上施設も種々の問題はあったが、ともかく上滝組との間に契約が成立し、前述のとおり七月二十日完成を目標に着工し、関係者を安堵させたものであった。
施設の目鼻がつくと同時に、競艇場要員の採用も急を要することであり、職員の増員はしないままで、投票所の要員約三〇〇名と整備員数名の採用を六月中旬に、唐津職業安定所に相談し、投票所要員を主体に採用した。しかし、この中には、投票所の経験者は、まったくなく、この従事員の訓練がまた大仕事であった。この後、六月十七日に中島投票主任以下職員五名が競艇場勤務として発令され、一応の陣容が整えられた次第である。
新任の職員五名は、まず大村競艇場に出向き、投票所業務のほか事業全般にわたる研修をした後、長松小学校を一時借り受け、従業員とともに、投票業務の訓練をし、ある程度の自信を持つことが出来た。
このようにして、競艇課が七月二十四日開催を目標に大車輪の活動を始めてまもなく、六月二十五日、二十六日と荒れ狂った台風が建設途上の競艇場施設に大きな被害をもたらし、特に水面の浚渫工事は、この暴風雨のため停電し一週間の作業中止のやむなきに至り、かてて加えて工事再開のはじめに、川床に埋められていた旧陸軍の機銃弾の爆発により、浚渫船の機関部が損傷を受け、また川床にある岩石の除去に予想外の手間と日時を要したなど、この工事は非常な難工事で二十四日開催が危ぶまれるに至った。一方緊急事項の一つである整備要員の確保については、採用試験の後、草場整備長以下七名を新しく採用することができた。艇、モーターを整備するに場所なく、炎天下に学校からテントを借り、現在の体育館敷地である広場で(以下体育館)朝早くから夜は暗くなるまで作業を続け、作業が終了するのはいつも午後九時をまわっていた。これらの整備員も競走用モーターの整備については、未知の点が多く研修のため大村や芦屋の競艇場にたびたび出向き勉強したが、艇庫は、七月末日になっても完成をみぬままであった。
このようにして、関係者は、一日も早く開催すべく懸命の努力を重ねたが、さきに開催予定日としていた七月二十四日は、六月の大水害の関係もあって施設が完成しなかったので、やむなく初開催を八月七日に延期せざるを得なかった。
一方、競艇事業の成否を左右する宣伝工作は、大島宣伝主任のもとに着々進み、基本方針も唐津地区だけでなく、広く佐賀県下一円および福岡、長崎の両県を対象とし宣伝していたが、
八月五日 入場式、模擬レース
八月六日 模擬レース
八月七日 初開催
と公表してからは、早朝より夜遅くまで宣伝に努め、ファン獲得に全力を傾注していった。
七月末日になっても、艇庫は未完成、前面広場はバラスだらけの状態であったが、開催日が目前に迫ってきたので水面での調節も必要と考え、草場整備長以下七名の整備員は、七十五日間の訓練を受けて帰唐していた選手達の協力を得て、体育館から艇庫へ、艇およびモーターを搬入し、早速全員で水面での調整を行ない、艇およびモーターに関しては実施できるという自信を持った次第である。
さきにも述べたとおり、投票所要員の訓練は、長松小学校で実習を重ね、また、主任級を大村で実地に研修させていたが、これでよいという自信を持つに至らず、模擬レースで完全にマスターしようという考えであった。
昭和二十八年八月五日、ついに開場式の日がやってきた。
式は、官民多数出席のもとに、和田九州海運局長の運輸大臣の祝辞を始め、鍋島知事、安永県議会議長、大村大村市長、長崎県モーターボート競走会会長、地元代表諸岡左次郎氏等、多数来賓の祝辞をいただき、式を終わった後、午後三時から開場式祝賀の模擬レースを行なった。この模擬レースは、無料で舟券を買わせ、的中者に対し賞品を贈るという方法をとった。モーターボート競走は、どういうものか物珍しさもあり、見物客は続々と押しかけ、観衆推定は約三、〇〇〇名を数えた。
この模擬レースは翌日も行なったので、投票所要員にとっては、またとない貴重な実務研修となり、自信と安心感を与えたものであった。
競艇場設置が本市財政救済策のキメ手として、その誘致が論議され始めてから、約二年間を経過し、種々の紆余曲折を経ながら、遂に開場するまで到達したが、この日までいかに多くの人々の涙ぐましい努力があったかはかり知れず、これらの人々のご労苦に対して、ここに改めて深甚な敬意を表する次第である。
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