六 事蹟の一部概要
1 初開催準備
準備作業は九州海運局の指示監督並びに全連の指導その他関連各分野との緊密な連繋協力の下に競走会、施行者一体となって十一月初旬開催を目標に全力を傾注して諸般の準備に邁進したのであります。先ず競走場施設を競走場登録規格に合せて施工及び諸器材の完備、更に競走運営の方法と人的要素の確立並びに技能向上の演練等、委任契約に関する業務は勿論その他開催業務全般に対しても万全を期すべく施行者及び競走会一体となって研究を推し進めて参りました。競走会としては当初は皆無に等しい乏しい財源を以て出発する大事業であるので聊かの失敗をも許されないものであり全く背水の布陣と申しても過言ではなかったと追憶されるのであります。又施設の建設と並行して競走会としては県内選手の養成をも必要とし、これの募集から取組む事となったのであります。これは当時全国で施行地は大村のみであり従って登録選手数の少い時でもあり、又若松市、芦屋町の地元よりも選手を養成の上初開催に出場せしめることにより盛大な開催を期する意図をも含め五十名を選抜の上、長崎県競走会に委嘱して養成開始の運びとなりました。(養成に関する詳細は省略)
養成員採用と経過並びに成績
(1)養成期間 二ヵ月(合宿制)
(2)養成員数 五十名(男女)
(3)経費 若松市、芦屋町、競走会、養成員各々分担
(4)養成開始 昭和二十七年九月三日(大村市)
養成終了 昭和二十七年十一月二日(芦屋町)
(5)登録試験 昭和二十七年十一月三日、四日(芦屋)
(6)登録 昭和二十七年十一月五日
(7)登録者数 四十二名(男三七名女五名)九名の不合格者がありましたが身体欠格者一名を除き次回試験に全員合格
注=養成員応募受験者数
若松地区三九五名、芦屋地区一四四名。なお養成期間中の退所者なし
本養成の登録選手は第二三四号田中淳選手が筆頭で新登録選手は全員芦屋町、若松市の開催の何れかに初出場しました。特に芦屋競走場の出場者は登録の翌日が前々検日といった具合のあわただしいものでした。
なお選手の養成は翌二十八年に第二回を実施致しましたが、この時の指導育成は福岡県競走会が独力で行い、福岡県、佐賀県選抜の合同養成となりましたが教育等の基本方針は第一回と同じで期間は昭和二十八年四月十五日開始、六月三十日の終了でありました。
採用員数、福岡県三十名、佐賀県二十三名、訓練の場所は主として芦屋競走場とし合宿所も芦屋に定め、合宿制度は総て第一回養成に準じ実施しました。
本養成開始前当会実務者の採用と、これの育成訓練を一月より三月にかけて行い登録審判員十名が生れましたのでその一部は養成に専従させることが出来、一方施行者より施設、教材その他諸器材も貸与され、総てに好条件を備えて第一回よりも順調な養成効果をあげることが出来ました。
成果と致しましては養成中の脱落者がなく登録試験合格者数五十一名(次回二名)であり、第一回、第二回の養成を通じて登録試験不合格者は身体検査欠格者一名だけでありました。
附記=第二回養成期間中同年六月二十八日の豪雨による遠賀川流域の氾濫時には全養成員は消防団に協力し徹夜の防災に活躍しました。
2 初開催と実績について
競走場登録も慌しい日程の中に無事終了し、監督官庁を始め全連、其他関係各方面の指導と協力により無事盛大裡に終了基礎固めの第一歩を印したわけであります。
芦屋、若松の初開催には実務者多数が各地より馳せ参じ非常な熱意で御支援を頂き、その御苦労がみのり成果を収めたのでありましてお骨折も一入であったことと茲に深く感謝の意を表する次第であります。その諸賢が今日尚幾人業界に停って居られるか感慨無量のものがあります。
売上成績は入場者が多かった割に今日と較べて低調な成績であったかと感じられます。
各競走場の初開催第一日目の売上額
芦屋町 二、五九〇、五〇〇円
若松市 三、八〇六、四〇〇円
福岡市 九、〇九五、六〇〇円
でありましたが、全国的な経済成長の影響を受け、更に福岡競輪、八幡、福間の両競馬場の廃止等もあり、観衆はモーターボートに次第に集り従って売上げも順調な伸展を示し特に福岡競走場の売上げは今日九州の公営競技で年間最高の線を保持しています。
尤もここ迄参りました過程は決して順風満帆といった調子ではなく絶えざる努力と忍耐の連続であったと申せましょう。
3 第一回全日本モーターボート選手権大会の開催
右は業界最高の権威あるモーターボート競走として一年の成果を大衆に披露し、最優秀選手を決定する大企画であり、その実施計画に就きましては慎重に慎重を重ね、海運局の指示監督と全連の万般の指導に基き競走会、施行者、其他関係各方面と共に十数次に亘る事前協議会を開き完全なる協力体制を以て実施準備に着手した次第であります。開催の時期は十一月と決定されましたが、この月は当若松競走場の開設一周年にも当り、大村競走場でモーターボート競走が呱々の声をあげて未だ一年有半に過ぎず揺籃期とでも申す時期で、施設はもとより選手、実務者の技能向上運営の方法等研究の過渡期であり諸般の一つ一つが決して満足といった状態ではなかったと記憶して居ります。それでも予め成功の決意は堅く監督官庁、並びに全連の指揮に従い、更に競走会、施行者の独特の地方色を活かし総力をここに結集して寸刻の足踏もゆるされない諸準備を整え以て大会に臨んだわけであります。
本大会は業界初めての最高の水の祭典であり、斯界の権威を確立し且つ模範的運営を顕現して伝統の第一歩を築かねばならないもので関係者のこの目標の下に結集した水も洩らさぬ協力精神に依り予期以上の成果を挙げることが出来、第一回大会の栄誉を辱しめることなく恙なく終了した次第であり、全日本選手権大会の基盤も茲に本第一回大会にて樹立されたものと信ずるものであります。又この成果の裏には本大会に従事された総ての人々の持っている力を出し尽くす努力のあったことを特筆するものであります。
成果主要事項
(1)開催期間 昭和二十八年十一月七日より十日迄(四日間)
(2)参加選手
(3)優勝選手 登録第五二号友永慶近(長崎県)
(4)総売上金額 五九、四八九、六〇〇円
(5)一日平均額 一四、八七二、四〇〇円
(6)一日最高額 一八、五四七、一〇〇円(最終日)
附記
ボート及びモーターは福岡市、若松市、芦屋町より各二十隻、二十基宛出場せしめました。
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