日本財団 図書館


八 印刷物について
 又、肩身の狭い間借りから、ようやく出来上った事務所へ引越した男子職員は、ほとんど泊まりこみで、手の空いた者はだれかれ無く、印刷されてきた舟券の検収をする毎日でした。
 ところが、印刷会社も始めての事とて一包みの中で合格する舟券は、わずか。
「あんまり、もうからなかったのではないか。」
 と、同情する程の不合格品の山という有様でした。
 納入の舟券が、全部合格するこのごろを思うと、月日の流れをしみじみ感じさせますが、当時は、とにもかくにも転手古舞いの日々でした。
 初開催の案内状も無事、全部発送し、競艇場内の建物も最少必要限度だけは完成して(別表2)そして遂に、昭和二八年八月二七日、開会式を挙行、引き続いて模擬レースを行ないました。この様にして、翌二八日、金曜日に第一回第一節第一日を無事迎える事が出来ました。
 
九 初開催の日を迎えて
 芦屋競艇場から、出張していただいた方々に手伝ってもらって、職員も従業員も緊張の内に、発売開始のベルが鳴り響きました。
 第一レースの舟券発売枚数は単勝式十一枚、複勝式三一枚連勝式三九四枚、計四三六枚、金額にして四三、六〇〇円。
 着順は五〜二となって、配当金は、単勝式八二〇円、複勝式が一七〇円と一一〇円、連勝式八二〇円。
 当日の天候は曇り後雨。入場者は四、七五二名。舟券の発売高は二、三二〇、二〇〇円。返還高は六二、六〇〇円で、売上高は二、二五七、六〇〇円。
 翌二九日は朝から小雨のためか、入場者も二、七三一名と減って、売上高も一、八〇四、六〇〇円と、いまだに変らぬ最低記録。
 翌三十日は、快晴の日曜日。前日の六レースの時、二〜六で、七、八六〇円の配当があった事も手伝ってか、入場者のすごいこと。一一、九八二名で、これは、いまだに破れぬ最高記録。ただし売上は四、五六一、三〇〇円で、一人当りの売上高は、なんと一金三八〇円なり。
 
昭和29年5月ごろの徳山競走場
 
徳山ボート初開催第1日の出走表、左が表、右が裏
 
 ボートレースなるものを、一目見んものと、家族一同が打ち連れて、弁当持参でスタンドに着席。スタートすれば喚声が上り、ボートの動きにつれて、スタンドの顔が一せいに、右、左、とゆれ動く見事さ。ゴールインすれば、又一きわ大きいどよめき。人、人、人のむれでした。
「本日の御来場、誠に有難う御座居ました。有難う御座居ました。次節は九月十一日より・・・」
 と、場内に流れて行くアナウンサーの声に、無事、一節三日を終えた解放を感じて、一同ほっとしたものでした。
 
十 回想記
 想えば、旧陸軍舟艇部隊暁隊跡の、ひざまではまる湿地帯を埋立て、各方面からの手助けにより、出発した競艇事業も今年で十六年目。
 二九年十一月には、第二回のダービー戦が開催され、三十日の最終日に行なわれた優勝レースでは、発売が開始されるや、窓口に客が集まり、いつもはにぎやかな投票所が話声一つなくシーンとして、締めきり後の放送で、二一、一九一票と、平日レースの一日売上高の半分を、売りさばいていた事に驚いたこと。
 三十年九月三十日の二二号台風では、事務所以外の建物は、全、半壊し、押し寄せた海水で入場門の外さくには、魚が何匹もかかっていた、といった様な甚大な災害を受けそれをようやく整備して建てなおすと、又もや、三一年には、九号、十二号と、台風が襲来して、大打撃をこうむりましたが、どうにかそれも切り抜ける事が出来、市財政に寄与した額も(別表3)拾五億五千三百八拾万七千余円と立派に都市復興の役目を果して来ております。
 競艇場内も三八年から開始した(別表4)五ヵ年計画の施設改善で、すっかり建て変り、鉄筋コンクリート造りの見事な建物となり、競艇事業の偉大さを思わずにはいられません。
 そして、この事業の限りなき前進を象徴するが如く、今日もモーターボートは、瀬戸内の海を爆進しています。
 


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION