徳山市
一 競艇場の設置が決まるまで
戦前の徳山市は、第三海軍燃料廠のある町として繁栄していましたが、昭和二十年五月及び七月の再度にわたる戦災により、市街地のほとんどを焼失いたしました。
この焼土と化した都市を、理想的文化都市として再建すべく、昭和二十一年、玉野市長は戦災復興都市計画を樹立し、関係方面の認可を得て、以来着々、その事業の進捗を図っていたのでありますが、何分にも地域の広大と市財政不如意のため、その進捗率も当時五〇%程度でこれが完遂には、なお、巨額の経費を要しましたが、当時の市財政は極度にひっ迫し、事業を積極的に推進するに必要な財源は枯渇をきたし、市の一般歳入によることは到底至難な状態でありました。
この様な財政不足の補充に従来より、競馬、競輪の開催による収益を求めて来ていましたが、その何れも他都市の所有にあるものを借用し、かつ、開催回数にも非常に制約を受けるため、収益も僅少で目的達成の一部には寄与しましたが、多大の効果をあげる事が出来ませんでした。
このような事態に当り、時の池市長は、特定財源確保のために、モーターボート競走法第二条の規定による指定を受け、その収益を戦災復興都市計画事業の完遂に要する費用に充当しようと、ここに、モーターボート競走場の設置並びにモーターボート競走の実施を計画し、「議案第一九七号モーターボート競走の施行について」の議案を市議会へ提出しました。市議会は国広議長以下三五名の議員によってこれを審議の上、昭和二十六年九月二十九日可決し、施行する運びになったのであります。
二 競艇事業開始の発表
さて、この件が発表されるや、競艇事業といった特殊な事業ゆえに、市民の関心を喚起し、地元各新聞の紙上は連日、賛否両論でにぎわっておりました。
しかし、さしたる反対運動もおこらず、教育関係者も、根本的には反対だが、距離的には離れており、財政の点を考えれば、やむを得ないとの意見でありました。又、一方予定地の地元市民からも「競艇場が出来ると水の使用が増して水道の出が悪くなるからこまる」との声が出ましたがこれも話し合いの上、今後の被害に対する予防策を考えてくれれば、競艇場の設置については、その利益が市民に還元されるのだから、賛成もしないが、反対もしない、といったところで、思った程の大した抵抗もなく、この事業は第一歩を踏み出しました。
その後の事務的経過事項は下記のとおりです。
三月二三日 海洋水面使用許可申請を都濃水産振興会へ提出
四月 三日 承諾書到着
四月 八日 モーターボート競走場建設指導方針、及び承認審査基準について、運輸省船舶局長から通達
四月一〇日 モーターボート競走場設置事業審査申請を黒神市長から山口県モーターボート競走会へ提出
四月二〇日 競艇事務参考書類送付について若松、児島、両市長あてに依頼書を発送
四月二七日 モーターボート競走法の適用を受ける指定市の申請について、自治庁長官、運輸大臣、中国海運局、同徳山支局、全国モーターボート競走会、連合会、山口県モーターボート競走会、山口県知事、あてに、申請書、依頼書を発送
五月十二日 山口県モーターボート競走会会長東長丸殿より、モーターボート競走場建設について、の副申を、全国モーターボート競走会連合会会長足立正殿あてに発送
五月十九日 山口県知事小沢太郎殿より上記の件についてモーターボート競走会連合会会長足立正殿あてに副申を発送
五月二九日 モーターボート競走場の建設事前審査申請について中国海運局徳山支局長より、中国海運局船舶部長に報告
七月二十日 選手の配分について、全国モーターボート競走会連合会理事長滝山敏夫殿あてに依頼
八月二四日 自治庁告示第二三号をもって、指定せられる。
八月二六日 徳山市モーターボート競走条例及び徳山市モーターボート実施規則について、運輸省より許可せられる。
八月二七日 指令河一八六〇号をもって、三一、〇二四坪(一〇二、五五八m2)の占用海水面積を許可せられる。
八月二七日 徳山市モーターボート競走場登録について全国モーターボート競走会連合会より認可
八月二八日 初日を迎える。
このようにしてみると、開催までの日々は至極簡単のようでありますが、土地の造成を始め、建物、構築物、従業員の件などと、振り返ってみますと、矢張りひとかたならぬ苦労がありました。
三 競艇場の選定
先ず設置場所、当時徳山市の東部、大華山のふもとに、海に面して元陸軍暁部隊船艇集積場所として、戦時中に埋立てられた広範な平地がありました。戦後はこれを国有地として、中国財務局徳山管財出張所が保管していたのですが、その中で民間払下げの内、約五、〇〇〇坪が、農林省開拓課に移管されていたのに、芦の密生する草原となり、保転の目的を達せられぬため、市当局の申し入れにより、再び財務局に保管替えの上で貸与すべく手続き中であったので、これを借用する事にして、「議案第九九号土地賃貸借契約について」の議案を市議会へ提出し、市議会は二八年六月一六日これを可決しました。
又、同日「特別会計設定について」の議案も可決されて予算も通過しましたので、私有地も借用して、土地の件もひとまず落ち着き、六月三十日入札を行なって、競走場の整地、建物の建設が開始されました。
事務所の方は、市役所内の商工観光課に間借りして、競艇事業を進展させていく事になりました。
四 職員及び臨時従業員について
次に、競艇事業にあたる人事についての発令があったのが、七月三一日。それから二日目には職員一二名の内一〇名を芦屋競艇場に出張させて業務の修得を行なわせ、持ち帰った用紙類の印刷、検収を行ないながら、臨時従業員の採用試験を行なったのが八月十一日でした。
当時の徳山市は人口六万七千位の都市なので、従業員を募集すると発表はしたものの、現在の様に希望者が多くてこまる状態からは、想像も出来ない事ですが、若い女性ばかりが三百余人も、集まってくれれば良いがと、本気で心配したものでした。
しかし、無事に入用の員数を揃え(別表一)職場を決めると、芦屋競艇場で習って来た職員が、まず投票所において舟券発売の指導を開始しました。なにしろ、ボートレース場ときいて、貸ボート屋の大型と思っていた従業員がいた様な事ですから、舟券の発売練習も窓に掲示板を掛ける事から始まりました。
五 舟券の発売練習
「発売用意で上の窓を開ける。次に掲示のふだを掛ける。それから上の窓を閉める。次に下の窓を開ける。それから舟券を売るのだ。まずこの順序をしっかり覚えてもらいたい。判ったか?」
「ではもう一度言う。上の窓を開ける。札を掛ける。上の窓を閉める。下の窓を開ける」指導員の声が響く中、窓に掛けた掲示板の高さを一定にするため、「三段に出来ている窓の上のさんに、掲示板の上部をそろえる」といった細かいことまで注意をして、舟券発売開始準備のけいこが行なわれました。
ようやく下の窓が揃って開く様になると、発売関係以外の従業員が、模擬券を持って投票所の外に出て、窓口から舟券の購入をし、舟券発売の練習が始まりました。
「百枚つづりの舟券を左手に持って、一枚ずつ、ずらしながら、右手で舟券を切る。」
口では簡単に言えても、指がなかなか命令を聞いてくれず
「田植えの時、苗を出す調子」
と中には上手な人もいて、従業員同志がお互いに、教えられたり、教えたり、の舟券発売練習でした。
この練習で、舟券の売り捌きが大体出来る様になると今度は、「締めきりました」の放送で
「下の窓を閉め、上の窓を開け、札をはずし、上の窓を閉める。」
という練習。
「締めきりました。の合図で窓を一せいに閉めないと、開いてる窓口にお客が集まって、何時まででも舟券を売らなくてはならなくなる。そうすると舟券売上の集計が遅れる事になる。だから、窓口は、締めきりました。の合図で一せいに閉める事だ。いいか」
と言われても、閉める音は、ばらばら
「駄目だ、一せいに閉めなくては。やりなおし。札を窓に掛けておいて。いいか?そらッ締めきりました。」
だが聞こえる音は、又もやバラバラ
「だめだッ一緒に閉めなくては、いいか、も一度始めっからッ、発売用意!」
と、何度も、何度も、繰返しての練習でした。教える方も、習う方も、日数が限られているだけに必死でした。
この様な懸命の努力練習を積み重ねました結果、ばらばらだった音も、ガラッ、ガラッ、と一つ音に聞こえる様になりました。
何しろ、投票所が学校、市役所と二度の務めを果して、競艇場に来た古木材で作られた物だから、窓もスーとは開かず、練習をする横で、大工さんにトンカン、ゴシゴシとなおしてもらっては、練習する有様だっただけに、開閉音が、ガラッ、ガラッ、と一つ音に聞こえる様になった時には、全員感慨無量の思いでした。
六 配当の計算練習
次は、模擬券により集計された投票数による、払戻金の算出練習。これにも、たっぷり時間がかかり、当事者に、間に合うかと不安を与えましたが、
「これでは、次のレースまでかかるぞ!」
はっぱをかけられての練習の結果、この方も、どうにか、こうにか、間に合う様になりました。
七 宣伝について
このようにして、開催に備えて従業員の仕事も軌道に乗り始める一方、ファン獲得のために、職員は手分けして徳山市内は勿論の事、バスで一時間位の所にある、あらゆる会社に出向き、門の傍に立って、出入りの社員に、
「徳山ボートレース場です。どうぞ!」
と、初開催を知らせるチラシを配布したり、市外地では競艇場専用の宣伝車も無い貧乏世帯なので、借上車を使ってなま放送の開催宣伝を続けました。
|