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社団法人兵庫県モーターボート競走会
尼崎市蓬川町二〇五 水光ビル内
電話・大阪(四一二)三六七三―四
 
役員名簿
向井会長の近影
 
会長 向井繁人
副会長 小林勝利
専務理事 本岡芳一
(以下いろは順)
理事 中林寅一
理事 正木静夫
理事 小寺 巌
理事 鴻池勝治
理事 青池和男
理事 味野昌夫
理事 三木福一
監事 山本義政
監事 池下栄一
 
設立準備業務の概要
 昭和二十六年十月十一日、神戸商工会議所における社団法人兵庫県モーターボート競走会創立総会席上、座長宮崎彦一郎氏は経過報告について出席者小林勝利氏を指名、同氏より次の通り説明があった。
(競走会創立総会議事録中より)
要旨
 競走会の話題の持ち上がったのは本年(二十六年)一月頃で、以来東京あるいは神戸海運局、神戸商工会議所兵庫県庁等の間を往復して意見の交換を行ない、結局、神戸商工会議所を中心として競走会を創る腹が決ったので、四月下旬頃と六月二十五日の二回、関係業者を神戸商工会議所に参集を求め、会設立の相談をしたのであります。その内に「モーターボート競走法」が成立公布され本県でもこの問題は急速に進展し、同年八月十七日これが設立発起人総会を開催、同二十四日正式に願書を運輸大臣に提出、同年十月一日付官文第一、一〇八号をもって認可になったのであります。
(小林勝利氏は創立当時の業務担当者)
 
発起人総会
神戸商工会議所・昭和二六・八・一七
出席者 宮崎彦一郎他二十三名
議題 兵庫県モーターボート競走会設立について
 満場一致設立に賛成、運輸大臣に申請、昭和二十六年十月一日付、官文第八〇八号をもって認可があった。
 
創立総会
神戸商工会議所・昭和二六・一〇・一一
出席者 宮崎彦一郎他三十四名
議題 兵庫県モーターボート競走会定款決定の件
会長に宮崎彦一郎推せんの件
 
定款の変更
1 昭和二十六年八月十七日定款制定。
2 昭和三十三年三月二十七日定款改訂認可を受けた。
3 昭和四十一年五月三十日改訂認可を受けた。
(事務所移転の件)
 
尼崎競走場の設置
 兵庫県競走会では競走場設置場所について深い関心の下に県下数ヵ所の候補地をせん索中であったが、尼崎市大庄湿地帯を開発して競走場を設置することに阪本勝市長と競走会長との間に話がまとまり、昭和二十七年五月これが開発に着工したのであるが、尼崎市当局においては資材面等に乏しく工事の進行にこと欠く有様であって、競走会では開発に最も重要な役割をもつサンドポンプを県土木部に交渉して借入れ、その他機材を斡旋した。
 開発工事のため全面的に協力してセンタープール完成のため、支柱的役割を果して来た。しかして昭和二十七年八月工事完了して同年九月十四日初開催(尼崎主催)。
競走場の規模及び工事費の概要は次の通り
総面積 二一五、八九三m2
総経費 一二、四八九万円
 
尼崎競走場設備改善問題について
調査委員の勧告
 昭和三十六年八月運輸省石島節補佐官等の一行からなる競走場設備調査委員は尼崎競走場に対する調査の結果その不備を指摘「目下縣案となっている競艇存廃問題が存続に決定次第思い切った改築を実施するよう」具体策につき指示勧告された。
第一次改築工事
 昭和三十八年十二月十九日尼崎市議会が競艇存続決定と同時に場内設備の改築に着手して昭和四十年四月末に完成した。
第二次改築工事
 昭和四十一年八月八日第一スタンドの東側に隣接して、第二スタンドその他投票所を含めて大改築を行ない、昭和四十二年三月末から九月にかけて着々完成、約三万人の収容が可能となった。主審その他の場内電化装置を完備してすべてを近代化し面目を一新した。
 
一般情勢の推移について
初期創設時代・・・不況対策
 尼崎競艇は競走会の全面的な協力の下に、昭和二十七年九月十四日に初開催に至ったのであるが、開催早々にして選手及び競走会従業員達が、不慣れのため競技上の事故が多く又観客の理解にも乏しかった。加えて当時は朝鮮動乱後の不況の影響もあって売上げが伸びず、会の運営に支障を来たす実情で、これが対策には並々ならぬ苦策が講じられた。その具体策の一例を挙げると、
A 向井理事長を始め役職員の報酬又は給与を一部返上する。
B 窮状打解のため連合会に納付する賦課金を向井理事長の私財をもって一時立替え払いとする。
などの対策が講じられ、辛うじて急場をしのいで来たのであった。当時の受任業務の実施状況は、
昭和二十七年九月十四日 初開催
月間開催日数 十八日
一日回数 十三レース
当時の売上(初日)
三、八六〇、一〇〇円
六、七八七、四八〇円(一日平均)
 尼崎ボートレースは地の利を得た好条件に恵まれながらもこのような低調さでは、会の運営に支障を生ずるのは当然で、よって財政面に極力緊縮政策をとり、健全財政の確立を目指して一面競艇の安全公正を期するに、全知全能を傾注して来たのである。
 昭和二十七年五月向井繁人氏理事長に就任、同氏は常に自ら陣頭指揮に当り、又複雑な社会情勢の下にあって克く場内の調整に努力し、競走会、施行者の立場に捉われず、真に競艇を愛する信念の下に売上げ不振時代から、競艇存廃問題、法改正問題等に直面し、これらの難関と次々と取り組み、克服して来たのであるが、以下順を追ってその概略を記すと、
 昭和二十九年に至って公営競技に対する世間の非難は次第に激しく、監督官庁は行政指導によって自粛方針をとることになり、競技の実施面を大幅に圧縮が行なわれることがほぼ明らかになって来たのである。よって向井理事長は薄井尼崎市長から懇請の次第もあって、小林専務理事、正木競技委員長同伴で大阪市内で笹川連合会長を訪問して月間最大限の開催日程確保のため、種々懇談陳情の結果、笹川連合会長より「責任をもって当局に交渉する」快諾を得たのであった。これに対し、
 月間開催日数十二日、施行者二以上の場合は十四日、一日のレース回数十二レース。に規則が決定され昭和二十九年五月度より実施することになった。然しながら当時この自粛開催によって当会は開設以来の月間十八日から急に十四日制となり、差引四日の減収となって、これが不況とからみ、売上げ不振が会の交付金収入減に一層拍車をかけて来たのであった。


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