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IV “住之江”で再出発 だが苦しい経営つづく
再出発当時の住之江競艇
 
 「狭山の池」は立派な池なのだが、「競艇の池」となると最適ではなかった。
 まず、大阪の都心から遠い。南のターミナル「なんば」駅から南海電車で三〇分では、シーズン中の日帰りハイクならともかく、手軽に毎回レースを楽しむには足場が悪い。関係者の必死の宣伝にもかかわらず、入場者は一向にのびず、従って売上げもあがらず、昭和三十年春までに国庫納付金の滞納と負債は、積もり積もって実に一、二〇〇万円になっていた。
 関係十六市、管理者、事務局などには「もうあかん」と何度も解散意見が出ていたが、これを維持、継続したのは損をしながら頑ばりつづけた施設会社(現住之江興業株式会社)幹部の根性に負うところが大きい。いや、それだけで持ちこたえて来たといってもいいだろう。
 ――さて、狭山はまずいが競艇は継続しようとなると、新しい競艇場の適地さがしだ。組合側も積極的に動いたが誰よりも施設会社の幹部、特に野田、浜井両氏が、当時の小西府会議員などと連絡をとって終始奔走した。
 候補地としてあがったのは、住吉区の西端平林町の府の貯木場と、住之江の芦のおい茂ったゴミ捨場の沼地などで「ナンバの球場に水を入れて――」などという、プールの中で藁(わら)をつかむような名プランも出た。
 その中から本命として残ったのが、芦のはえた住之江の地。――狭山といい住之江といい万葉の頃から歌にもよまれた銘柄の土地だが、ここなら「ナンバ」から地下鉄でわずか十五分、すぐ近くを市電も通り、地理的には最良というので、昭和二十九年の暮から、土地の所有者浜田氏との交渉に入った。当の浜田氏よりも、子供さんがなついてしまったという位、足しげく交渉に出向いたが、具体的な話はなかなか進まなかった。
 そして浜田氏の猟友小西府議の登場となり、まとまりかけたり、こわれたりして、二転三転、やっと話がきまり、三万七千五百余坪の用地を確保することができた。
 これが当時のじんあい処理場、今の住之江競艇場である。昭和二十九年七月のことだった。
 まことに住之江競艇の今日を運命づけた、あたかも西郷隆盛と勝海舟の会談に匹敵する大会談だった。
 起工式が昭和三十一年一月六日。
 すでに狭山は使用不能で、昭和三十一年四月十日から閉鎖中。大阪府都市競艇組合――ひいては大阪競艇施設株式会社の生死をかけた「舞台装置」造りがはじまった。
 総工費一億数千万円、半年間のスピード工事で同じ年の六月十八日、狭山の東洋一には及ばないが、新「住之江」の競艇場が完成した。
 そして六月十九日、いよいよ大阪競艇再出発の日である。
 この日の記念レースは、つぶよりのA級選手をあつめて開催。十九日から二十四日まで六日間の入場者一七、五二九人、売上げは三一、二四一、九〇〇円。はじめて三千万円を突破した。
 一日平均売上げ五、二〇三、九八三円と、狭山の成績にぐっと水をあけたが、諸経費を差引くとやはり赤字だった。
 その後も毎回赤字がつづいた。しかし狭山時代のようなことではなかったが、――関係者一同は入場者誘致、売上向上を図るため、互いに知恵をしぼり合い、期待をこめて全力を尽し、ファンの投票による模擬レースの開催、地元現役選手を総動員しての中之島――川口町間の水上パレードなどと、つぎつぎに新しい企画と宣伝を打ち出していった。
 ――そして、住之江競艇に明るい一つの転期が――ついに来た。
 
V 初の「ダービー」を開催 サービス向上で売上も更新
上空から見た住之江競走場
 
 昭和三十四年度、はじめて赤字開催から脱出することができた。
 九十五日間の入場者総数二四一、四二六名、売上金七六、三二七、五〇〇円。住之江開催三年目、狭山開催から七年半を経て、ようやく獲得した成績である。
 十六市に配分した純益はわずかで、最低の寝屋川市の場合、一、三四二、二〇七円だったが、この時の感激は大きかった。
 「十六市の関係者を先頭に、事務局はもちろん従事員に至るまで、全力をあげての宣伝活動のおかげでした」と、その頃をふりかえって、よくぞ頑ばったものだと思うのである。
 三十六年四月二十八日から五月一日まで四日間の節間売上が新記録を出した。
入場人員一九、一四八名(一日平均四、七九九名)
売上額七七、八五三、九〇〇円
(一日平均一九、四六三、四七五円)
 つづいて五月七日には、一日売上の新記録を出した。
 入場人員六、八四四名。売上二六、九二三、七〇〇円。と狭山、住之江にとって、まことに「応神以来」の数字である。
 事務局は、さらにハッスルした。
 そして翌六月二十一日から二十五日までの五日間の節間売上は、一〇七、九九七、三〇〇円と、ついに一億円の壁を破って、全国の新記録となった。喜びがファイトに変わり、ファイトが売上げにひびき、開催ごとに記録が更新されていった。
 大阪競艇開設以来、キャリア十年――苦節十年の当時の関係者の心中は、その衝に当ったものだけが知るものだろう。
 そして――劇的な最高のヤマ場を迎える。
 同じ年、昭和三十六年八月一日、住之江競艇場開設以来初めての「第八回全日本モーターボート選手権大会」の開催である。
 
場内の広場は、ファンでいっぱい
 
 ま夏の陽光のもと、六色のボートが豪快な水しぶきをあげて爆走、たくみな技術を競いあって、つぎつぎにゴールに飛びこむ。見まもる満員の客席の二万の瞳。六日間の入場者は四二、九六五名、売上げは一八三、九九三、四〇〇円とふくらんだ。同じ年の五月とくらべて二倍以上ののびである。
 この選手権大会開催から住之江の売上げは、さらに向上をつづけ、しかも不安なく前進していった。翌三十七年六月四日、一日売上五七、八五八、九〇〇円と、前年五月の記録を更新。三十八年三月三日には、六〇、三〇二、七〇〇円と、またまた記録を更新――。
 この頃から特別席を増改築して、席数を二二八に倍増、連勝複式投票法を採用、現在の第三投票所内に払戻所を設置する等、ファンサービスの改善に努力した。住之江競艇として最高に“カッコいい”時代である。
 そして三十八年十月、住之江としては二回目の「第一〇回全日本モーターボート選手権大会」を開いた。六日間の入場者は六六、六五〇名、売上累計は三〇二、〇二七、三〇〇円だった。
 好事魔多し――ここで不祥事件が三つ発生して、関係者の気持ちをひきしめた。
 はじめは、昭和三十六年七月十六日の騒じょう事件で、審判に不服を叫ぶファンが騒いだが、機動隊の出動を得て短時間で平静にかえった。
 次いで昭和三十九年二月十七日。第七レースでボートが転覆、選手を水面に落したままのボートが暴走して観客席に激突、ファン一名が足に負傷した事件。直ちに病院に運んで万端の処置をし、胸をなでおろした。
 三つめは、その年の七月十日。午前八時ごろ、放火によって第一投票所が全焼した事件である。犯人は外部から侵入した精薄の青年だったが、レース中でなかったので混乱の原因にもならず、怪我(けが)人等の出なかったことは不幸中の幸いだった。ただ、レースを目前に控えていたので、復旧が懸念されたが、昼夜兼行で工事が進められ、それから一週間後にはレースを開催した。
 この三つの苦しい事件を心の糧として、事業は着々と進展した。この年の暮には、装いも新たに現在の第一投票所が完成、つづいて本部、特別席も新装が落成し、このあたりから「住之江競艇史」は現代篇に入ることになる。


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