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社団法人三重県モーターボート競走会
競走会の設立(昭二六・一〇・三)
 昭和二十六年三月上旬に東京の堤徳三、伊東弥六の両氏より西山、西島の両県会議員並びに宮崎武一氏にモーターボート競走法が国会に提出される計画である由を聞かされ早速三重県においても競走会を設立する意志のあることを堤、伊東の両氏にお願いし、直ちに安保正敏氏の出馬を乞い中村代議士の協力を得て、競走会設立のため西山、西島両県議並びに宮崎氏が奔走努力をした。
 当時国会においては三月三十日議案は衆議院を通過したが五月二十八日の参議院において否決されたために東京の矢次一夫、平野晃、其の他数氏の努力により法案の再提出となり六月五日の衆議院において三分の二以上の賛成を得て可決され同月十八日「法律第二百四十二号」により、モーターボート競走法が公布された事を官報で確認し二十八、九の両日にわたり東京赤坂の山王会館で運輸省の係官から法規の説明会並びに各県の連絡協議会など、事態は急速に展開してきた。
 その頃、東京においては連合会設立に、銀座と歌舞伎の二派が先陣争いをして六月十四日笹川良一氏立合いの下に和解が成立したが三重県でもその影響で桑名市を中心とした別派が出来一時的にも競願の最悪事態となり一日も早く競走会の設立をせまられている今日、安保、西山、西島の三氏は青木三重県知事と連日折衝した結果、遂に別派の申請を撤回させることに成功した。
 競走会設立許可申請様式が八月二日判明したので直ちに申請書類の整備を終わり八月二十三日「商第一八一四号」による知事の副申書を得て同日競走会設立の申請書を運輸大臣に提出したが其の間幾多の曲折を見て九月十七日運輸省の審議会を通過して昭和二十六年九月十九日「官文第一〇七五号」により全国第一番に許可が出た。
 当時の役員は下の人々である。
理事長  安保正敏
専務理事 西山良一
常務理事 西島好夫 宮崎武一
理事 猪熊信行 伊東弥六 中北明男 西川市太郎
監事 杉浦清敏 寺田直三郎
競走会事務所
三重県松阪市大字松阪湊町一一六番地
 かくして昭和二十六年十月三日社団法人設立の登記を完了し、社団法人、三重県モーターボート競走会が誕生したのである。
 創立総会は昭和二十六年八月十日に開催された。
 
モーターボート試走会(二六・一〇・一七)
 モーターボート競走法が六月公布され各県とも競走場誘致に大童であるが津市では秋祭りの十月十七、八両日に亘り全国にさきがけて初の「試走会」を岩田川川尻で開催した。この競走場設置には県内で、津、桑名、的矢が名乗りを挙げたが津市はモーターボート競走場誘致委員会を設置した強力な運動が奏効して全国初の試走会開催となったもので、当日は飛竜号、国定一号、春竜号の三隻と国際競艇興業選手養成所から領家助教ら三選手が来津、四百米コースで妙技が展開された。
 その日は笹川良一御夫妻、東海海運局長代理、四日市支局長及び滋賀県、愛知県、奈良県からも多数参観にこられた。観覧席には贄崎の安保氏邸があてられ市の総務課員が総員で接待に当たり、競走艇は岩田橋上流までも遡り試走会は盛会裡に終了した。
 
初開催(二七・七・四)
レース準備
 昭和二十七年七月四日津競艇は全国公認第一号として処女レースの水しぶきを岩田河口にあげた。長崎県大村市におけるテストレースと共に競艇界にとって記念すべき日である。
 開催業務に関して競走会役、職員共経験者は皆無で、どうしても連合会の指導援助を受けなければならないし、また連合会においても津競艇の成否が今後の競艇業界を左右する重要な意義あるものとして、その総力をあげて自発的厚意的な指導援助を与えられた。
 このとき指導にあたられたのは、運営委員長矢次一夫氏、技術委員長笹川良一氏らの外、平野晃氏、原田網嘉氏、青木芳香氏、菊地武比古氏、板倉弥三郎氏で、また別に競艇運営協議会委員として藤吉男氏の援助を受けた。更に連合会は長崎県競走会の藤村魁一、峰敏彦、山田平次郎、松永辰三郎氏ら実務者の派遣を斡旋せられた。
 選手は当時としては虎の子のような六十名の配分を受けボートはB級ハイドロプレーン三十隻、B級ランナバウト三十隻、エンジンはB級キヌタ十七基、B級エビンルート十基、A級マーキュリー十三基を使用、これらの整備は国際競艇から派遣された塩飽氏らに一切を依頼して七月二日に関係者全員の打合わせを行なった。
開催前夜(二七・七・三)
 試走会を終えて夕刻より旅館生月に「競走会と市との委任契約並びに競走場の登録について」会合したのは次の人人であった。
(連合会)
矢次運営委員長 平野総務部長
原田競技部長
(競走会)
西山専務理事 西島常務理事
垣本総務課長 西 経理課長
(市役所)施行者
中西助役 増田公企業課長
堀 庶務課長 橋本経理係長
前川宣伝係長
(市議会)
近藤議長 野田委員長
 委任契約は連合会の指導と斡旋によって取りきめることになっていたのであるが、契約内容によって直ちに両者の経営面に影響するところが大きく、しかも売上の予測も困難で早急な決定を見るにいたらず、登録問題と共に会議は進展せず膠着状態となった。初開催を明日にして会議は難渋し、他の者はそれぞれの宿舎、事務所で成りゆき如何と形勢をうかがっているといった情況で、物々しい空気に満ちていた。
 この事態を憂慮して、藤氏に局面打開の協力を請うた。藤氏は直ちに笹川氏に「この情勢においては委任契約も登録問題も間に合わない。この上は競走会と津市との力で明日の開催を強行する以外に途はないからその旨運輸省の了解をとってほしい」と頼んだ。
 笹川氏は、運輸省に電話されたが「話し合いによって解決されたい」との回答であった。こうした状態が四日午前二時頃まで続いたが藤氏の懸命な斡旋の賜もので急転して一挙に解決を見るに至り、一同感謝し、愁眉を開いて解散したのは夜も白々とあけ初める頃であった。七月四日の夜は明るくあけたが競走会職員もことのなりゆきを案じそれぞれ徹夜で待機していた。かくして委任契約は締結され、競走場は条件つきで登録され初開催初日を迎えたのである。
(競走会執行編成)
副執行委員長  理事長 西山良一
総務委員  垣本義内
審判委員長  理事 西島好夫
競技委員長  理事長 西山良一
審判委員  坂倉赳夫
発送合図委員  内山重夫
検査委員  中北 清  浜口 重
進行委員  海田新一
管理委員  西 明
番組編成委員  曽我部正祥  藤本多嘉子
その他外部からの指導応援には次の諸氏
(連合会)
矢次一夫、平野 晃、原田網嘉
青木芳香、菊地武比古、坂倉弥三郎
(長崎県競走会)
山田平次郎、松永辰三郎、藤村魁一、峰 敏彦
初開催風景
(一)番組の編成は六十名の選手で一レース六隻立で一日一回出走、一日のレース回数は十レースであった。
(二)中央審判台前にピットがあって、展示前選手は一旦ボートをここにつけファンに向かって自己紹介をした。
(三)エンジンさえ始動すれば最上、整備員が始動すると選手は乗艇して出る。エンスト艇があると予備艇に整備員が乗ってエンスト艇に横づけし、選手が乗り換えて展示に出た。
 
初開催の津競艇場観覧席
 
初開催の審判台、右から藤村魁一氏、峰敏彦氏、西島好夫審判委員長(現副会長)、山田平次郎氏、板倉赳夫審判委員、内山重夫発送合図委員(職名のない三氏は長崎県競走会からの応援者)


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