青梅市
一 青梅市のあらまし
東京都心から西へ向かうこと約五〇キロメートル、東京都の奥庭として都民に親しまれ、古くから青梅綿と青梅夜具地の産地として全国に知られた産業都市である。
また観光地として、秩父多摩国立公園の表玄関に位置し広大な武蔵野を東に望み、西に秀麗な奥多摩の山波をあおぎ、この地方の俗謡に、「青梅の宿(しゅく)は長い宿(しゅく)、長いとて物干竿にはなりやせぬ」とうたわれ、市内を貫流する多摩川は、遠く山梨県笠取山に発し流程一三五・二キロメートル、東京都民の重要な水資源として、また市民の飲料水としても大切な役割を果たしている。その渓谷の魅力は、新緑に、紅葉に、訪れる観光客に愛され親しまれている理想的な観光都市である。
昭和二十六年四月一日、一町二ヵ村の合併により大望の市制を施行し、全国で二六二番目の新市として第一歩をふみだした。
ついで昭和三十年四月一日隣接四ヵ村を合併して、人口五万四、七五四人、面積一〇四・〇一平方キロメートルと、名実共に大青梅市として飛躍的な発展を期している。
その後、昭和三十一年には、新市建設計画を策定し広域化した新生青梅市の一体制の確立と、その型態を整えるため常に長期的な展望のもとに諸事業を行なってきたが、昭和三十七年六月首都圏の市街地開発区域に指定され、住宅公団は東部市域に工業団地の造成を行ない、積極的に工場を誘致し、現在十八社の大企業の進出をみている。
この大企業の進出によって工業都市としての胎動期をむかえ、東部市域の開発はもとより既成市街地の再開発、既存産業の振興等、公共投資事業に多額の費用を必要とするが、現在の財政事情においては収益事業の益金が重要な役割をはたしており、今後もこれらの諸事業の遂行上必須の財源であり、明るく住みよいまちづくりのため、モーターボート競走事業の発展に関係者が一体となって努力を続けている。
二 モーターボート競走を企画した理由
市制施行当初の青梅市は、東京都下五市のうち財政事情の最も悪い都市であった。
合併以前の財政状況は、シャープ勧告の画期的な税制度によって一応健全な運営を行なっていたが、新市の誕生によって都市的な公共投資事業が要求され、また合併市特有の財政需要も増加し、翌昭和二十七年度には、職員の給与改定および教育委員会の創設等により経常的経費が著しく増加をみるにいたった。また戦後の「インフレーション」によって諸物価が高騰し、次第に収支のバランスがくずれ更に、政府の減税政策の実施の結果、これに伴う地方税の減収は大きく財政事情に影響し、財政は年々圧迫の度が加わってきたのであった。
この窮迫した状態の中で市制施行三年目の重要な年をむかえ、青梅市将来のため、いかに対処するかに苦慮し、市勢の伸展を一時停止するか、あるいは将来市勢発展の基盤をこの年度に確立するかと、慎重に検討の結果、後者の決定をみたのである。
しかしながら自主財源に乏しく、この対策として昭和二十九年度には一部税制度の改正による市民税の課税方式の改正、固定資産税の税率の引き上げ等を行ない財源の確保をはかり、また国においては市町村の負担軽減を図るため自治体警察の廃止、地方財政平衡交付金制度を地方交付税に改める等、いわゆる自主財源の確保のため幾多の施策が行なわれたが、唯一つの産業である織物工業も不況が続き税収は伸びなやみ財政は次第に窮迫の度を加えてきたのであった。
本市は、これらの情勢にかんがみ、立市の目的達成のため財政再建の方策を検討していたが、これを打開するため公営競技を実施して、その益金によって諸事業を進める以外に方法がなかった。
よって理事者は公営競技として当初、競馬事業を実施する方針で関係方面と接衝を続けていたが、当市は戦災をまぬがれ災害復旧等の認可条件に適合しないため、これを断念しつぎに競輪事業の施行について運動を行なっていた。
しかし、この間モーターボート競走法案は、第十国会に提案されて世論のきびしい批判にあって、その通過が危ぶまれていたが、関係者の必死の努力によって成立をみるにいたった。よって本市は公営競技の実施についていち早くモーターボート競走を企画したのである。
三 競走場のおいたち
モーターボート競走法の施行に伴って、競走場の設置を企画していた東京都立川市錦町、東京モーターボート競走場株式会社は、昭和二十七年七月建設予定地として、東京都北多摩郡調布町国領多摩川地先(現在調布市)を選定したが、諸種の事情により早急に建設することができなくなったので、同郡多摩村是政地先(現在府中市)の復興社(西武建設株式会社の前身)所有の砂利採取場跡に変更することになった。
競走場の建設については予定地内にある中学校の移転その他で地元住民の反対もあったが、話し合いの結果円満に妥結をみるにいたった。
よってただちに建設工事に着手し昭和二十九年五月に完成されたのである。
四 モーターボート競走企画後から開催にいたる経過
公営競技としてモーターボート競走を企画後、総務課において種々検討を重ね準備を進めていたが、昭和二十七年七月競走場の設置を計画していた東京モーターボート競走場株式会社宮本社長は青梅市長を訪ね、競走場の設置について種々協議の結果、当市が施行者として全面的に協力することになった。
よって本市はかねてから検討していたモーターボート競走事業について、昭和二十八年三月開催の市議会に提案し同月二十六日議決を得てこれを実施することになった。
その後四月十一日には施設会社と競走場賃貸借仮契約書の締結を行ない、またモーターボート競走指定市の申請については、同月十五日東京都に提出した。
この間市議会においては全員協議会を開催して、モーターボート競走の早期実現を図るため競艇事業促進委員会を設置し、次の委員が選出された。
委員長 榎戸米吉
副委員長 海藤恒次郎
委員 長谷川善治 吉原千吉 田辺栄吉
川杉昇一 沼田幾蔵 原島半三
清水棟太郎 梶三吉
委員会は、ただちに先進地の競走場視察のため同年四月大阪競走場および尼崎競走場を視察し運営方法等詳細にわたり調査した。
モーターボート競走指定市申請書の進達手続については遅々として進まず、この促進について猛運動をおこすことに決定し、理事者および事業促進委員会は連日関係方面へ陳情を行なった結果、都知事も了承して自治庁(現在の自治省)へ進達手続をとる旨の確約を得るにいたり、申請書提出後約七ヵ月後の同年十一月二十四日付をもって自治庁から認可されたのである。
自治庁告示第二十九号
モーターボート競走法(昭和二十六年法律第二百四十二号)第二条第一項の規定により、モーターボート競走を行なうことのできる市を、次のように指定する。
昭和二十八年十一月二十四日
自治庁長官 塚田十一郎
青梅市
この間競走の実施について、施設会社と競走場賃貸借契約書の締結について、数回にわたり協議を重ね、その原案を東京都、海運局東京支局等におもむき協議したところ、この契約書の主体制は施設会社にあり、モーターボート競走の施行は、あくまで自治庁が指定する市町村であるためその主体は施行者が実施すべきであると指導され、施設会社と協議のうえ内容の修正を行ない昭和二十八年六月九日契約書の調印を行なった。
また収益部門の担当課としての事業課の機構については市の財政からして多数の人員を定数化することは困難であったため、一課一係の構成により同年八月一日事業課が新設された。
その後施設会社の競走場建設工事は、競走水面の掘さくおよび埋立工事の両面にわたり昼夜兼行で行なわれ、掘さくについては三十万トン、埋立については十万トンの土石を処理する大工事となり、また水面については基礎水面を一・五メートルとし、その他スタンド、投票所等の工事も並行して行なわれた。競走水面にある高圧線の鉄塔については協議のうえ施行者も協力して除去を行なった。
なお、第一回第一節の開催予定は、昭和二十九年五月十八日から四日間実施することになっていたが、工事遅延のため予定を変更して六月に実施することになった。
競走場の完成も間近にせまり、相前後して開催準備を進めていた東京都は、同年六月五日大森競艇場(現在の平和島競艇場)に関東初のモーターボート競走を開始したため市の関係者はこの開催に大きな関心をもち、開場式には理事者をはじめ事業促進委員会の一行も参列した。
いよいよ待望の競走場が完成し、青梅市営府中競艇として、第一回第一節を同年六月九日から十二日まで四日間開催することになった。開場式には来賓多数をまねき盛大に式典が行なわれた。初日のレースは開場式の関係でやむを得ず発走時刻を繰り下げ、第一レースの開始は十二時三十分、サイレンと共にエンジンの快音高く六艇のボートが鏡のごとき水面にしぶきを切って一斉にスタートし、関係者の見まもる中ではなばなしく競走が開始されたのであった。
なお第二節は六月十九日から二十二日まで、第三節は六月二十七日から三十日まで開催した。第一回の成績は次のとおりである。
昭和29年度 青梅市営第1回 府中競艇成績表
日数 |
節 |
開催月日 |
曜日 |
天候 |
入場人員 |
舟券 |
発売金額 |
返還金額 |
売上金額 |
1 |
第一節 |
6月9日 |
水 |
曇 |
2,924 |
5,370,400 |
21,600 |
5,348,800 |
2 |
6月10日 |
木 |
〃 |
2,120 |
3,492,400 |
0 |
3,492,400 |
3 |
6月11日 |
金 |
〃 |
2,651 |
4,492,000 |
0 |
4,492,000 |
4 |
6月12日 |
土 |
晴 |
3,016 |
4,469,000 |
59,900 |
4,409,100 |
小計 |
|
|
10,711 |
17,823,800 |
81,500 |
17,742,300 |
1日平均 |
|
|
2,678 |
4,455,950 |
20,375 |
4,435,575 |
5 |
第二節 |
6月19日 |
土 |
小雨 |
896 |
2,121,900 |
57,800 |
2,064,100 |
6 |
6月20日 |
日 |
曇 |
3,233 |
4,081,700 |
0 |
4,081,700 |
7 |
6月21日 |
月 |
〃 |
2,271 |
4,186,300 |
0 |
4,186,300 |
8 |
6月22日 |
火 |
曇・小雨 |
2,289 |
5,537,400 |
400 |
5,537,000 |
小計 |
|
|
8,689 |
15,927,300 |
58,200 |
15,869,100 |
1日平均 |
|
|
2,172 |
3,981,825 |
14,550 |
3,967,270 |
9 |
第三節 |
6月27日 |
日 |
小雨 |
2,858 |
5,172,900 |
96,300 |
5,076,600 |
10 |
6月28日 |
月 |
〃 |
1,508 |
3,211,700 |
0 |
3,211,700 |
11 |
6月29日 |
火 |
雨 |
1,442 |
2,814,100 |
0 |
2,814,100 |
12 |
6月30日 |
水 |
〃 |
1,510 |
3,063,300 |
0 |
3,063,300 |
小計 |
|
|
7,318 |
14,262,000 |
96,300 |
14,165,700 |
1日平均 |
|
|
1,829 |
3,565,500 |
24,075 |
3,541,425 |
合計 |
|
|
26,718 |
48,013,100 |
236,000 |
47,777,100 |
1日平均 |
|
|
2,227 |
4,001,092 |
19,667 |
3,981,425 |
|
昭和29年度青梅市営
第1回モーターボート競走 開催収支総計表
収入の部 |
|
支出の部 |
項目 |
金額 |
|
項目 |
金額 |
入場料収入 |
円
543,550 |
|
払戻金 |
円
35,832,825 |
舟券発売収入 |
48,013,100 |
|
返還金 |
236,000 |
事故収入 |
1,600 |
|
国庫納付金 |
0 |
払戻金端数切捨金 |
200,685 |
|
競走会交付金 |
2,388,855 |
雑収入 |
0 |
|
開催経費 |
11,786,871 |
|
|
|
事故支出金 |
11,970 |
合計 |
48,758,935 |
|
合計 |
50,256,521 |
|
五 開設初期の状況
モーターボート競走事業の認可に伴い、まず最初に手がけたのは予算の編成であった。当時は、関東地区において初の試みであり、その成果もわからず売上金の見積に苦慮したが、一日平均売上げ一、五〇〇万円として予算を編成し、一般会計の繰出金については一応二千万円を計上することになった。
開設初期の状況は、東日本初のモーターボート競走場として、その魅力も大きく良好な成果をおさめ前途に大きな期待をもってスタートしたのであったが、すでに実施されている競輪、競馬等に比較して競走方法が異なり、ファンもこれになじめず、また開催日程の競合、立地条件等の悪条件が重なり売上げは漸次低下をきたし、開始後数ヵ月にして情勢は極度に窮迫し運営上重大危機に直面した。
更に翌年一月以降は渇水のため、競走水面の低下により競走不能の不安が高まりつつ経過したが、三月になってついに最悪の状態となり開催中止のやむなきにいたった。
この間の業績不振と開催中止による赤字の累積により市民の批判はするどく、改選後の市議会においては競艇施行の可否をめぐって論議がたえなかった。
一方東京都が施行中である大森競艇は諸種の事情により昭和三十年三月末日をもって廃止したい意向であった。このため大森水上レクリエーション株式会社から大森競艇を四月以降青梅市において使用方の申し出があった。よって本市においては競走場使用の仮契約書の締結まで行なったが諸種の事情により断念することになった。
その後府中競艇においては、競走場設置に協力した株式会社復興社は、施設会社東京モーターボート競走場株式会社と協議の結果、これを継承することになり、開催中止後二ヵ月後の昭和三十年五月九日、名も多摩川競艇と改称して心気一転再出発したのである。
継承後の新施設会社は水面の底掘り、その他施設の改善に努力し、また運営面においても関係者が一体となって売上げ向上対策を検討し、特にファン誘致については施設会社と協力して宣伝の強化につとめた。
その研究と努力の結果、以後入場者が漸次増加し不安感のただよううちにも次第に売上げが上昇し、将来への曙光をみるに至ったのであった。また、モーターも逐次改善が加えられ、昭和三十三年十月にはヤマト三〇型新モーターの登場によって競走面は順調に運営され、これによって開設当初からの沈滞した時期を一応脱却した状態となり売上げは順調に上昇を続けてきたのである。
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