日本財団 図書館


再開
 再開初の競走は、昭和四十年十月二十八日と予定された。したがって再開確定の日から五ヵ月余りしかないわけである。もはや一刻も無駄にはできなかった。しかも以前のような木造施設は許されないのである。とすれば鉄骨製か鉄筋造りのものに限られる。そこで中央スタンドは鉄筋コンクリート建てとし、その他の付属建物は、おおむね鉄骨製と決定された。総工費は約六億円である。中央スタンドは六階建てとしても、かなり高い工事費と思われるが、工期が短いため、無理を承知で夜を日についでの突貫工事を強行させたのだから、これはやむを得なかったのである。
 こうしたギリギリの工期で完成したのが、競走の初日を余すところ旬日であった。開設初開催の頃と言い再開のこのときと称し、まことにいつもあわただしい戸田競走場ではある。
 裏話になるが、野口管理者は再開運動の苦労に息つくひまもなく、今度は工事費や当初の運営費の金策につとめなければならなかった。しかしこれも同管理者の並々でない働きかけの結果、十分に調達をみたのである。もし野口管理者がいなかったとしたら、今日の戸田競艇がかくも盛況のうちに存在し得たかどうか、はなはだ疑わしいと言っても過言ではあるまい。このことが決して誇張の美辞でない事実は、多くの人のひとしく認めるところである。
 さて再開の初日は、底抜けの青空であった。招待客やファンは、来場して目を見張ったのである。ついこのあいだまでのバラック変じて、巨大な近代的スタンドが降って湧いたかのごとくそそり立っているのだ。
―こんな大きなものが必要だろうか―と案じた人もいたはずである。ところが一年も経ぬうちに、公称収容力七千人をオーヴァーする日が連続したのだ。あまりにも急激な競艇人口の増加に対処する当局は大あわてである。これこそ本当の嬉しい悲鳴と、喜ぶべきなのであろうか・・・。
―ここで話題を転じて、再開当初あるいはその後の、戸田競艇独自の事象等を二、三紹介してこの小史の終局をかざりたい。
 まず、とり上げなければならないのは、予想業者の旧状からの脱皮であろう。これらは職業がら、従来とかくの問題があったので、野口管理者は再開を機にこれの大きな刷新を図ったのである。すなわち、旧風を改めるため予想業者等の登録に関する条例を強化し、その審査の厳正を期したのである。
 競走会は直接には予想業者の登録について関係はないがその後の営業が公正な競走の実施に重大な関連を持つものとして、特に野口管理者は阿久津専務の強い協力を依頼したので、審査は公正かつ厳重をきわめ、多くの希望者のなかから選ばれたのは十六人である。
 さらに、この十六人には、毎年一回、特別訓練が課せられることとなったのである。というのは、いやしくも予想業者たるもの、勝舟の予想をするからには、みずからボートの操縦程度は心得ておくべきであろうし、また競走関係法令、規程類のおおよそも知得されていれば、予想は一層実のあるものとなるであろうとの考え方からであった。
 この訓練も本栖水上スポーツセンターが落成してからは泊り込みで同所において選手と同様の研修を受けるようになった。予想業者に対する本格的訓練の実施は、おそらく戸田をもって嚆矢とするのではあるまいか。
 この訓練に参加した予想業者の平均年令は四十二歳であり、決して若いとは言えないが最高六十歳になんなんとする老体を含めて、きびしい訓練によく耐え、いまだに一人の落伍者も出さなかったのは賞賛すべきである。
 前後するが、彼らには五つの条件がつけられていた。
 暴力団に関係しないこと。予想が的中しないのにしたかの如く宣伝し、ファンを欺まんしないこと。品位を保つこと。施行者及び競走会への協力体制を確立し実践すること。そして最後に、訓練を受けること。
 この条件の一つが満たされないときでも、登録は取り消すという強硬なものであった。要するに競走場あっての予想業者であることの自覚を求め、さらに予想業者と言えども、職業人であるとの誇りを持たしめるために、このような条件が付され、そしてこれを原点として訓練を受けさせたのである。
 これには競走会の協力と援助が必要であったが、競走会は全面的にこれが訓練の実施を快諾、したがって全国一規律正しい予想業者と言われる所以の一端は、同会の功績でもあることを強調したい。
 なお、当地では予想業者をコンサルタントと称しているが、これは従来、俗に言われている「予想屋」と呼ぶときそれは多分に蔑称のひびきを持っているので、これを打破しイメージアップを図ろうとして採用されたものである。
 競走場警備体制の確立についても、当組合は独自の計画を推進しつつある。
 開催中のガードマン大量採用はいうに及ばず、非開催中もその一部を常駐せしめ、四六時中、厳重な警備下にあるのも、当地の特色であろう。さらに現在、独立した警備隊の常設を検討中であり、公務員としての身分を保障された精鋭部隊の誕生も間近い。
 再開当初、一日平均三千万円にすぎなかった売上も、三年後の今日では常時一億を突破し、なお旭日昇天の勢いにあることと合わせ、当組合が常に前進しつつある事実を誇示し、この小史を終わるものである。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION