中止か廃止か
一
当初三年ほどは、一日の売上額も三百万円から五、六百万円前後と低迷を続けていたが、その後は、じわじわとだが上昇線をたどり、昭和三十五年に至りついに一日一千万の大台を記録、関係者一同、祝盃の美酒を傾けたということである。平均一日一億円の今日から見たら、何の一千万ごときに―と、一笑に付されるところだが、五百万程度で大入袋が舞ったそれ以前の一時期に比すれば、これは驚異的な数字なのである。
財政的うるおいをもたらすはずの源泉が、逆に自治体を喰いちぎる巨大な害虫になりかねないほどに思えた売上不振は、「こんなことなら、いっそやめちまえ」と、一部市民のつき上げをさえ受けて、前途を悲観する関係者もいたのである。こらえて、じっくり待ったかいがあった。経済成長、所得の増加―こういった流れに乗って、公営競技もそのラチ外ではなかったのだ。時運に恵まれていたのだと言ってしまえばそれまでだが、つらくて長かったこれまでの首脳部の苦労が実ったのだと称したほうが、この場合実感があると言えよう。
それから後は、一千万を下ることはなく、ほぼ順調に漸増を示し、三十七年には、二千万を記録する日も出たのである。しかし、これ以上を望むことは、当時の木造スタンドの収容能力や発売窓口数等、競走場施設総体の規模から推量しても不可能であると考えられた。そこで、改築してはどうかの声も一部にあったのだが、それどころではない問題が、三十七年に入って、もち上ったのである。
ボートコース宿命のオリンピックが、それである。第十二回大会は、国際情勢の悪化という理由で流産してしまったが、第十八回のそれは、十分にうまくいくだろうと、誰しも疑わなかったのも道理、何にしろ、以前とはちがって天下太平をうたっている日本なのである。たしかに他の大部分の問題には、その推進を妨げるような障害はなかった。なかったどころではない。大会の期日が迫るにつれて、日本全国は一億の国民が、さながらオリンピック病にとりつかれた如く、「何が何でもやりぬくぞ」熱狂的にひたったのも国民性というべきであろうか・・・
そんななかで戸田町議会が、「オリンピックの戸田漕艇場使用反対」を決議したので、これは思わぬところから、ゆさぶりをかけられる始未となった。
推移が飛躍したが、順を追って語ると―
そもそも第十八回オリンピックを、東京で開こうとの決定は、昭和三十四年五月、ミュンヘンにおけるI・O・C総会でなされたのだが、それぞれの競技会場については、日本の組織委員会の決定に待つこととされたのである。そこで、同年十一月に開かれた組織委員会は、各競技場について検討し、そのうちの漕艇競技は戸田を会場とする旨、決定されたのであった。
しかし、オリンピックまでには、まだ相当の期間もあったその頃である。町当局には、切実な感じはなかった。住民にしてもそのとおりで、ただ、いよいよ、ボートコースにからむ目的の一つ、つまり宿願のオリンピックが、今度はかなえられそうだといった程度のものなのである。
話がやや具体的にその輪かくをあらわし始めたのは、翌年に入ってからである。第十七回オリンピックが、ローマで開かれたのは、この年であった。その最終日、ローマの主競技場大電光掲示板に、「ネクスト・トーキョー」のサインが輝いたとき、それはより現実的なものとして、日本人の目に映じたのである。
ちょうどその頃、タイミングよく、地元国会議員が戸田町を訪問し、主だった町議員との席で、「戸田をオリンピックの漕艇競技場として使用させたい。国際的行事だから、コースのみならず周辺は都市公園として整備し、また、戸田は交通不便な町だから、東京から地下鉄を乗り入れさせよう。ざっと二十五億もかければ、すべてできるのではないか。」
小さな町が一躍、世界の戸田になる―これは華麗なる夢であった。しかも、コースを中心に町を美化し、多年の願いである鉄道まで敷いてくれるのだ。この場合、夢が夢でない現実性を持っていたのだから、町全体が歓喜したのも無理からぬことであろう。これを機に、オリンピック・ボートコース誘致期成同盟が設けられたのも、また人情のしからしむるところであって、この間の事情を知るならばあながち、目先の利にお先棒をかついだのかという、のちの非難は当らないのである。
けれど、最も肝心な問題―モーターボート競走は、いったいどうなるのか、については、このとき誰も深くは考えなかったようである。この点、たしかに大きな夢に、みんなが眩惑されてしまったと言えないこともない。考えていたとしても、まあ、オリンピックの行なわれる期間、休むくらいのものではないか、と、きわめて楽観していたふしがある。
とまれ―このように問題が現実的になってきたからには、誘致委員会としても大いに協力するかたわら、こちらの要望も一言あってしかるべきと、数回、会議を開いた結果、三十五年暮れに、コース周辺の整備、道路及び交通網の整備、俳水計画の実施、都市計画、競艇中止に伴う町財政の確立策と、以上の五項目にわたる意見書を作成、これを県に提出した。
この意見書で、初めて公式にモーターボート競走、いわゆる競艇に対する基本的な考え方が打ち出されたのである。この前提となるものは、あくまでも一定期間の競艇中止であった。しかし、意見書についての外部の反応は、意外と冷かったのである。
二
戸田の意向が、県から国へと伝達された結果は、あまり喜ばしいものではなかった。三十六年末に示された政府予算は、コース拡幅費一億九千万円のみという淋しさであった。そのほかの問題は、すべてタナ上げにされたのである。
もし、これだけのことならば、取れなくても、もともとであったが、某外部団体の強力な要望として「民家をとり払い、都市公園とし、競艇は廃止すべきだ」との情報がもたらされるに及んで、町当局、特に議会は、すっかり硬化してしまったのである。競艇廃止は他の問題とは比較にならない大打撃だ。
さらに意見書第二号が発せられたり、町幹部が直接、県へ陳情するなど、次々と手を打ったが、状況の好転をみるには至らなかった。
しびれを切らした町議会は、三十七年四月十日、ついに前代未聞の、「オリンピック返上決議」を、あえて行なったのである。
マスコミが、このビッグ・ニュースをとり上げないはずはなく、戸田町は、ひょんなことから、オリンピックに先がけて、その名を天下にとどろかせたのである。
もし競艇が廃止となったら―一大事であること言わずもがなだが、それは、やっと明るい見通しを得るに至らしめた関係者の粒々辛苦の努力を、あたら水泡に帰せしめることでもある。
競艇を死守するためには、オリンピック返上もまたやむなしとした戸田町議会の決意は固かった。その直後、オリンピック誘致委員会を解散せしめたことは、決議をジェスチャーだと受け取っていた向きに、覚悟のほどを示したのである。
しかし、政府としては閣議で二回、組織委員会では三回も、それぞれ戸田コースを使用することに決定していた。この紛争のさなかに、ときの河野建設大臣は、「オリンピックボート会場は再検討の必要がある」と、閣議で発言し第二の候補地として神奈川県相模湖をあげ、関係者にショックを与えたが、政府はなお戸田コース使用の基本線を捨てなかったようである。戸田としても、話し合いの余地を全く否定したわけではなく、何とか競艇再開の保証を得たいため、県との交渉の道だけは残しておいたのである。このかけ橋は相互の意思疎通に十分な効果をあげることに役立った。これによって県は、戸田町の立場を理解し、何回となく政府と話し合い、オリンピック終了後の競艇再開を強く要望したのである。はじめは廃止の考えでのぞんでいた政府も次第に譲歩をみせ、最終的には、競艇再開についてはオリンピック終了後、文部省と埼玉県とで協議して定めるものとし、ようやく結着したのである。その他の問題も不十分ながら妥協点に達し、昭和三十七年九月、県と戸田町はこれら一連の事案を盛りこんだ覚え書きに調印、一時、開催が危ぶまれたオリンピックボート競技は、無事に行なわれる見通しがついたのである。
三
明けて三十八年の八月、戸田町長の任期満了による選挙の結果、野口政吉氏が当選、同氏は組合規約に定めるところにより、ただちに管理者に就任した。
競艇再開問題は、オリンピック終了後に協議して定めるとの結論には達したものの、それが即再開を保証しているものでないところに大きな不安があった。したがって、すべてはかかって野口新町長の政治力如何によるのである。
昭和三十九年十月、当面の目標となったオリンピックボート競技も、町の協力によって無事終ると同時に、競艇再開問題が待ち構えていた。
保証の限りでない再開―これは現実の不安となって、まもなく、戸田町と組合の前に立ちはだかったのである。
ここに再び日本漕艇協会が登場する。同協会の発言力はいつもきわめて強いのである。協会はオリンピック前の交渉時から、戸田コースにおける競艇の廃止を主張してやまなかったが、四十年一月十二日の漕艇協会理事会において「戸田コースは国立競技場とし、競艇はしめ出す」と正式に決議するに及んで、たちまち問題はふりだしに戻ってしまったのである。すでに文部省と県とで話し合いを開始していたときだけに、ショックは深刻であった。あるいは、この話し合いに対する牽制ではないかとも思われたが、いずれにしても当局としてはこれを無視するわけにはいかないのである。ここに公営競技の性格的な弱さがあった。
目前の話し合いに焦点をしぼっていた地元としては、また一つ不安のタネがふえたことに困惑したのである。野口町長及び大野川口市長は、これまでに緊密な連携のもとに県の協力方を懇請し、県はまたこれを了として、調印の際の約定達成に努力しており、結果の見通しは決して悲観的ではなかっただけに、漕艇協会の決議は大きな破紋を投じたのであった。
文部省としても立場は微妙である。アマチュアスポーツの振興は、同省の主要な所管事務であるから、日本でも指折りのスポーツ団体の声を無視することはできない。
都合の悪いときには、えてして不運が重なるものである。たまたま、プロ野球国鉄の神宮球場本拠地化問題が衆議院体育振興特別委員会にかけられ、これに反対する線が打ち出された際、戸田も同様のケースとして、好ましくないとの意見が出されたのである。前門の虎、後門の狼―腹背に敵を受ける形となった。しかし、県は希望を捨てなかった。それではと、まず、文部省、漕艇協会、県と、三者会談を提唱し、これも何回となく開き、地道に打開策を図ったのである。
この間、特別委員会の大石武一委員長は、「戸田コースは競艇に使用せず、そのかわり組合は平和島、江戸川等を借用して分散開催してはどうか」という、いわゆる“大石試案”を示すなどしたが、これは実際には不可能なことであった。県は特別委員会に対しても同様に強く働きかけ、競艇再開を力説することになった。これらの問題について栗原県知事は、特に佐藤副知事に強力な推進力を指示していたのである。同副知事は異常な熱意をもって交渉にあたり、三者会談には欠かさず出席して漕艇協会の首脳部に理解を求め、また特別委員会にも脚を運び、ことに同委員会が実情調査のため戸田コースをおとずれたときは、切々と再開の必要を訴え関係者をして少なからず感激せしめたものである。
もち論、当事者である野口管理者の活躍も人後に落ちず副知事ともども東奔西走して再開を目指し、一歩も退かぬ覚悟を示していた。新人町長にもかかわらずその信念あふれる政治性と精力的な行動力は、多くの人を驚かせるに十分であった。ふだんは多くを語らない不言実行型の人だがこと競艇に関しては情熱を傾注し活動するのである。それも人一倍の愛町の精神によるものであろう。大野川口市長の強力なバックアップがこの場合、プラスになっていたことはいうまでもない。
このほかに、すでに述べたが、笹川良一連合会長の親身な協力―特に諸官庁、国会等への再開要望は、限りない効果をもたらしたと断言できる。野口管理者のよき理解者県競走会阿久津専務の体当り的活動もまた特筆すべきであろう。
このような関係者の一丸となった熱意によって、問題は大詰に近づいたとともに好転のきざしを見せ、ついに四十年五月、競艇の再開は決定した。
条件としては、コース周辺を県立公園として県が管理しコース使用はアマチュア優先を原則とするというものであった。そのためには、県、文部省、漕艇協会、組合、競走会等による連絡機関を設け、日程その他水面使用に係る諸問題を調整せしめることとなったのである。いかに公営競技といえども、アマチュアスポーツの犠牲の上にそれを強行することは許されないという基本原則を組合は認織し、一方、漕艇協会も地方自治体としての組合の実情を理解せられ、両者相互に譲歩の結果、紳士的共存共栄の和解点に達したのである。文部省及び県もこの結果に満足の意を表明し、八方丸く納まっていよいよ競艇再開は確定したのである。
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