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戸田競艇組合
ぷろろおぐ
 いまは、すすきも都会人にとっては珍しい存在となったが、二十数年の光陰をさかのぼれば、隅田川の源流―荒川周辺の秋は、すすきを筆頭とする七草はもち論のこと、ほかに名も知れぬ草々が、あるものは堤のかげにひっそりと、あるものは堤上に群をなして思い思いの風情をたたえ文字どおり武蔵野の野趣をかきたてていたのである。
 河原一面は茫々たるあしであった。それがあかがねの夕日に映えると、炎と燃えるかのようなおもむきを見せていた。
 ときに野分の風が、花を散らし穂を乱しはするが、これもまた自然の異趣であろう。
 そのかなたに遠く箱根の山波があった。残光を背にくっきりと浮かんだ富嶽は天下のを睥睨し、影富士の麗称に恥じず、武蔵からならではの景観を添えるのである。そこから右へと目を転ずれば、秩父山系の肩に、浅間の息吹きを望見し、はるかに妙義、榛名、赤城の三山も朱に染まって展開している。
 これらの自然美を周囲に配して下る清流荒川の左岸に平行し、二千四百メートルの長躯と七十メートルの幅員を持ち、満々の水をたたえて横たわっているのが戸田漕艇場である。
(注)ときの内務省記録によれば、これは全体を潴水(ちょすい)池と称し、その水面は漕艇場(主として大学、高校等のアマチュア・ボートレースに使用する。)としている。モーターボート競走場は、のちにこの西端に設けられた。
 なお、幅員はその後、九十メートル(モーターボート競走水面は百七メートル)に拡げられた。
 人工美がこれほど自然にマッチした風景は、当時としては他にその類を見ない。もっとも世界最初の専用静水漕艇場だから、比較するにも例がないが・・・しかしこれは、漕艇場が完成した昭和十五年の秋に言えたことであって、いま同じような妙景をここに期待しても不可能に近い。都市の巨大化は、あたりの田や畑を住宅、工場あるいはビルで埋めつつあり、われわれの目から自然を奪っているからである。が―漕艇場周辺は、昭和三十九年の第十八回オリンピック東京大会漕艇競技に使用されたのを契機として、埼玉県立戸田公園と定められ、緑に渇えた都会人の数少ない憩いの場に利用されており、ここだけの自然が護られているのは、せめてもの救いであろう。こういったなかに、モーターボートの水しぶきが散るのもまたよきかなと自画自讃するのである。
 そこで、かつては武州の一隅に、ひっそりと眠っていたような一農村が、いまは全国に―あるいは漕艇競技面では世界のボートマンに記憶されるようになったのは、いずれかと言えばオリンピック東京大会の成果に負うところが多いのだが、全国の場合は、その漕艇競技場となることを拒否し、オリンピック返上を決議して半歳にわたりマスコミを騒がせる快挙をあえてした当時の戸田町議会の反骨ぶりが、戸田をしてその名を天下に知らしめた一因と言えなくもない。しかし、これもモーターボート競走の死活問題に端を発していたという事実に徴すれば、やはりモーターボート競走あっての戸田であると言えようか。
 どちらであれ戸田市はボートに関する限りいまやプロとアマとを問わず、特異な地歩を占めているのだが、その割に戸田市そのものが知られていないのは、つまりボートを除いては他にとりたててあげるほどの特徴がないからであろう。埼玉県そのものが「渡り廊下」の蔑称を冠され、まさに旅人の脚下に無難な暮しをたのしんできたのどかさ―それというのも肥沃な土壌とほどよい気候に恵まれて、食うに困らぬ応揚さがあったからでもあろうが、それが有為転変の歴史の荷ない手となることをおのずと拒んだのではあるまいか。
 往時の戸田もそういったなかの一分子として、平穏無事な米作りにいそしみ、歴史の谷間でのんびりと安眠をむさぼっていたのである。
 
世人が知るとすれば
板橋へ大根の金を入れなくし
 
と川柳にいう板橋宿は紅灯のざわめきと、蕨宿がかしましい飯盛女の嬌声にはさまれた、中仙道は道中の一渡し場であったというところであろうか―
 または、「江戸名所図絵」が「子安まんだら」の妙顕寺を紹介し、江戸の姙婦たちが安産の護符をいただきにこの伽藍を訪ずれたと記録している程度である。
 世人の耳目に当るものが他にないということは、それだけこの地が息災に恵まれていたと言えなくもないが・・・。
 時流はしかし、戸田をいつまでも揺監のなかに放ってはおかなかった。そのはしりともいうべきものが、すでに述べた漕艇場の建設である。着工は、中国蘆溝橋の暗夜に不気味な銃声がこだまし、日本の悲劇が開幕した昭和十二年七月からさかのぼること二ヵ月の、さつき晴れの日であった。
 いまにして人は、ここモーターボート競走場の盛況をまのあたりにして驚目するけれど、戦雲低迷の当時誰が今日公営競技の隆盛を予想し得たであろうか―僅々三十年の変転は、このひとつについてみても、諸行無常きわまりなかったのである。もっとも漕艇場の建設なくして、はたしてここにモーターボート競走を実施することができたかと論ずるならば、大方は悲観論をとるであろう。その意味でならば、漕艇場の実現は本来の目的は別としても、現在、組合を構成している戸田、川口、蕨の三市に限りない幸運をもたらしたと言えるのである。
 そこで当然の問題として、漕艇場はいかにしてでき上ったかを、記録にとどめておく必要が生じるのである。
 すでに付言したとおり、漕艇場は本来、潴水池として建設されたものなのだが、この構想を発せしめた原因がボートとは何の関係もない「水害」にあったというと、あるいは驚く向きもあるかもしれない。
 浦和市以南は戸田に至るまで、昔から水害の常襲地であった。これには、荒川そのものの氾濫による場合と、内野部のたまり水―いわゆる豪雨時の湛水現象との二つがあった。
 荒川の氾濫は、堤防が決壊しない限り実害はないが、湛水現象はそれがとどまっている間は、大きな被害をもたらすのである。豊沃な美田は泥沼と化し、被害額は、食糧増産のための耕地面積増大に正比例して天文学的数字に達するのだ。
 人文未開の昔はいざ知らず、生産増強を標榜する当時の国家主義政策がいつまでもこれを黙視するはずはないし、また農民自身、秋の収穫が保証されない旧態依然の不安定な生活に甘んずる愚をくり返すべきでないと、ようやく改善の機運は高まりを見せるに至ったのである。こうして昭和十年、水害常襲地自治体相互の上に結成された水利組合連合の申請により、内務省はまず運河改良工事に着手したのである。
 この工事は要するに、これまで思い思いに流れていた内野部の小河川群を数条の運河に集約し、常時は灌漑用水の確保に、豪雨時は湛水をすみやかに荒川に排除するというものであった。
 ところが、工事計画を詳細に検討するにしたがい、荒川への排水のじん速性が問題となったのである。
 豪雨が内野部にだけ降るという保証はない。多くの場合山岳部も同様なのである。とすれば、当然、荒川の水位も上昇する。避けられない結果として、湛水現象がピークに達する頃―このときこそ排水の必要性は最大限に要求され、もし順調にことが運ぶならば改良運河の所期の目的は湛水をすみやかに排除することによって十二分に達成されるのだが、残念にも荒川の水位の上昇もほとんどときを同じくして起こるのである。それはたちまち内野部の水位を越えて運河に逆流する。やむを得ず水門を閉じれば、内野部の被害面積は刻々拡大されるのだ。
 しかし、こうしたジレンマを解決するのにたいした時間はかからなかった。人間の智恵はいとも簡単にその打開策を見つけ出したのである。
 とてつもなく巨大なプール―つまり大きな水のたまり場を構築し、豪雨のときは一時湛水をここに落として荒川水位の降下を待ち、しかる後に放流しようというのである。
 この追加計画も何なく認可されたので、工事は昭和十二年秋に開始後三年の工期により同十五年十月に完成を見た。現在の技術水準からいうならば、かなりゆう長にとられるが、当時は機械力も貧弱で、わずか三台の掘さく機を除いては、すべて人海戦術にたよらざるを得なかったのである。このことを理解すれば、決して長い工期とは言えまい。もっともこの工事に投入された人力は、延にして四十七万人というから、その規模もうなずけよう。このうち十五万人は、浦和刑務所の服役者であり、また、これに要した総工費九十八万二千円などと聞くと、どれもこれもいまでは考えられない話である。
 とにかく、これらの事実が示すように、現在いうところの、いわゆるボートコースの目的が、主として水害対策のためにあったことは否定できない。たまたま、昭和十五年に開催を予定していた第十二回オリンピックの東京招致が当時決定し、戸田がその漕艇競技場の候補地と目されたことが、アマチュアボートとのおつき合いのなれそめにすぎない。モーターボート競走については、歴史の次元が全く異なっていたから、ここにふれるのも論外である。
 ところが、完成直前に至って、第十二回オリンピックは国際情勢の悪化により中止となり、関係者はひどく落胆したが、かわって漕艇場完成記念を兼ね、日本紀元二千六百年奉祝漕艇大会が開かれ、まずはボートコースの面目を保ったのは幸いというべきか・・・。


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