関東地区
桐生市は関東平野の北、群馬県の東端にあって、雄峰赤城山を西に望み、四囲に紫かすむ山々をめぐらし、南北に発達した市街地をはさんで流れる桐生、渡良瀬の清流に、友禅、お召の錦をうつし、白滝姫のロマンを共に伝えるおさ音は、街の明け暮れを告げている。
織りなす絹地は常に華麗な装苑界をリードし、遠く千二百年の歴史をいろどってきた。
この歴史に一時期を画した桐生モーターボート競走場は名峰赤城山を西に仰いでくりひろげられた田園風景の点景としても、一幅の絵となるような景勝の地に在る阿左美沼に、昭和三十一年十一月八日モーターボートの爆音によって桐生モーターボート競走場の黎明(れいめい)がおとずれたのである。
一 モーターボート競走施行に至るまでの経過の概況
桐生市が昭和二十六年七月八日市議会において、モーターボート競走を施行する議案を可決したのは、当時桐生市の財政は、昭和二十二年九月十五日のカスリン台風、翌年九月一日のアイオン台風、翌年八月三十一日のキティ台風と三年連続した台風による被害金額九億の対策復興十ヵ年計画の途次にあって、土木、水道の復旧、六三制実施に伴う小中学校の新増築、引揚者の住宅、幾多の事業費の必要に加えて、戦後桐生市の主産業である繊維工業の不況等に原因して、市財政は極度に窮乏し、この難局打開に苦心を重ねているとき、モーターボート競走法が公布され、それが契機となって施行の可決をみたのである。
競走開催の機運は二十六年一月頃から、群馬県モーターボート競走会発起人の方々が、隣接笠懸村地内にある阿左美沼を建設予定地に定め、施設会社設立に懸命であった。
市の産業委員会と競走会は前後して競走開催の各競技場を視察して、モーターボート競走の実態を把握したものの阿左美沼周辺の既得権者との交渉、施設会社設立は困難をきわめ、準備行為は遅々として進まなかった。
その間三ヵ年、群馬県競走会笹川了平会長を始め競走会役員の努力と、笹川連合会長、東京都競走会藤理事長等の陰の尽力により阿左美沼におけるモーターボート試走会、モーターボート競走の啓蒙等が効を奏して、阿左美沼周辺の水利、水面、漁業、土地賃貸借等の契約が群馬県競艇(株)代表者秋山千秋氏との間に締結をみて、十二月二十五日運輸大臣より競走場が認可され、翌三十年三月十八日桐生市は自治庁より競走施行の指定を許可された。
翌年七月、笹川連合会長の誘致により酒井建設工業(株)の酒井利雄氏が施設会社「桐生競艇施設株式会社」を設立し先きに締結された群馬県競艇(株)の準備行為を継承して酒井建設工業(株)を建設業者として競走場施設の建設に着工した。
施設の建設が進むにつれて、初開催、十一月八日を目標に開催準備が着々と行なわれた。
その頃、連合会より菊池武比古氏が群馬県競走会の嘱託として、競走場初開催業務の指導者として来桐していたが菊池氏は連合会青木芳香氏と共に、大村競走場に始まる各地競走場の初開催を手がけたベテランで全国二十五番目の桐生初開催に全力を傾注していた。
競走場の登録、ボート及びモーターの登録に始まり、競走場の規格の完備、器材機具の調達製作、宣伝関係のPRパンフレット等の指導、競走会補助員の教育等、氏の活躍は、十一月に入り、夜を日についでの徹夜作業が続けられた。
初開催時について一番の心配事は場内の整地であった。建設のための車輌出入による凹凸(おうとつ)がひどく、その上、例年にない連日の降雨のため、場内はぬかるみ状態となっていた。先きに移転初開催された大阪住之江競走場が開催当初場内の整地が悪かったため、ファンの足が遠のいたといわれたので、桐生でその二の舞をやってはと、菊池氏を中心に整地作業を行なうことになった。
初開催を五日後に控えた頃、日中は開催準備に忙殺されているので、場内の整地は夜明けから早朝にかけての僅かな時間しかできなかった。何分費用の関係で完全な整地ができないので、価格の安い炭殻をならすより他に道はなかったので、競走場周辺の建築骨材業に片っ端から電話をかけ、やっと一軒の協力業者を探し炭殻を搬入させて、菊池氏を筆頭に森本審判長(現大阪府競走会)北村検査委員(競走会退職)他会社の二名が黙々と秋雨にけむる競走場で、整地作業のシャベルを振るっていた。
初開催前日桐生市助役桐生競艇開催執行委員長荒木歓一郎(現桐生市長)氏から温情の空俵二百俵が届き、それを丹念に、表門よりスタンド、投票所周辺に渡り廊下式の通路を作った。このような労苦が結ばれて初開催の当日が訪れた。
競走場である阿左美東貯水池は、桐生市中心地から約四粁の地点にあって、周囲山に囲まれ、池の周辺に樹齢五十年に及ぶ五〇〇本の大樹が緑地帯を形成し、春は桜花の朱に染まり、夏は山の緑に映え、秋は紅葉に往き来する人々の目を奪い、冬は赤城おろしの空の青さを池の面にうつし桐生の風致地区として名勝阿左美遊園地としてその名を県外にうたわれ、小中学校の遠足、行楽の行程に必ず入る桐生八景の一景とされ、桐生市内から十分、阿左美駅から五分、国鉄岩宿駅から徒歩五分と駅に近接し、一方、太田市、足利市、佐野市、館林市、伊勢崎市、前橋市、栃木市、高崎市、本庄市、熊谷市等。群馬、埼玉、栃木三県の背後人口において他競走場にまさるものがあった。
海なし県民のアイドルとして親しまれている阿佐美沼でモーターボート競走が開始されるというので、初開催の初日は早朝かち入場者が続々と列を作り、五、〇〇〇名を越す。午前十時競走場隣接笠懸村グラウンドの大天幕を張った特設式場に来賓四〇〇名が参集して開会式が挙行された。
桐生市商工課長村山政雄氏(市退職)の開会の辞に次いで桐生市長前原一治氏(故人)の挨拶、工事経過を桐生競艇施設関東開発(株)の一瀬専吉氏、前原市長より建設にあたり多大の貢献をした酒井建設(株)へ感謝状を贈呈、来賓代表の柳橋関東海運局船舶部長、笹川連合会長の祝辞に地元議員代表長谷川四郎氏の祝辞が続き、祝宴に移って桐生市議会伊藤秀一議長の発声により万歳を三唱して式を閉じた。
一方競走水面では、豪華アトラクションが開かれ、澄みきった秋空高く祝福の大スターマインが打ち上げられ、祝桐生競艇初開催の落下さんが次々と水面に降りてくる。その水面を縫って、琵琶湖水上スキー連盟の女子スキーヤー三名による華麗な演技を披露。次に、我が国で初めて完成された国際競艇(株)作製の無電操縦ボートの航走が行なわれて観客の目を奪った。
定刻十二時観衆八、〇〇〇名注目の第一レースが開始された。初開催栄光の選手は
一号艇 松居 修 滋賀
二号艇 田島信雄 静岡
三号艇 山本和男 神奈川
四号艇 三浦康男 東京
五号艇 中野寿男 香川
六号艇 倉田栄一 三重
華やかなレースの陰に、場内でシャベルをふるって黙々と整地をしている一団があった。競走指導の連合会青木氏、中北氏、根本氏、四分一氏をはじめとする連合会の職員の方々で、午前十時現地実務担当者が配置について以来、作業服に身をかためて、ファンの行き交う間隙を縫って懸命に投票所周辺の整地作業を続けていた。
競走運営にあたっては、東京都競走会では、桐生初開催にそなえて十一月八日前に東京三競走場の同時開催という難事業を消化して、その疲労の残る翌日、藤理事長、田辺常務、篠原常務をはじめとして、執行委員に早川滋雄氏、萱場進氏、広西愛太郎氏、土田直一郎氏、坂倉赳夫氏、東富三郎氏、中島秀夫氏、加藤謙二氏、原口吉五郎氏、渡部毅氏、馬場和夫氏、株木泰氏、大山卓司氏、杉崎兼吉氏以上十四名職員全員が二節十日にわたって競走の指導を行なった。なお、三、四名の幹部は約六ヵ月間、審判、競技の指導を継続された。
また、投票所業務は大森平和島競走場の投票主任坂本正二氏をはじめとする十名のベテランの方々の力によって、二節十日間、内陸県の桐生競走場で、待望のモーターボートレースが出来たのである。
二 桐生モーターボート競走場年表
昭和二十六年七月八日
当時の桐生市長、故前原一治氏の提案により「本市はモーターボート競走法(昭和二十六年法律第二四二号)第二条の規定によりモーターボート競走を施行するものとする」旨、市議会において議決された。同日、阿左美沼においてモーターボート数隻による試走会が行なわれ関係者が視察した。
昭和二十六年八月一日
社団法人群馬県モーターボート競走会設立許可申請書が発起人総代野間恒次氏外七名によって運輸大臣宛提出され翌二十七年三月二十日付官文第一一一〇号をもって許可された。
昭和二十六年八月二十九日
運輸省にて関東海運局管下競走法及び同関係規則の説明会があり、村山市経済課長等が出席した。
昭和二十六年十一月六日
市では、モーターボート競走施行指定許可申請を下の申請理由を附して地方財政委員会委員長へ提出したが、競走場の設置等の具体的進捗を見ないことを理由に、二十八年九月、自治庁次長から返戻された。
申請理由
本市は東毛地区ならびに栃木県西部地区における産業経済の中心地でありました。繊維産業を主体として市勢は躍進の一途をたどっておりましたが、大東亜戦争の諸施策に順応して徹底した企業整備を実施した結果、繊維工業施設の劣勢と繊維化学の衰微とを来たしました上に、昭和二十二年九月、カスリン台風により渡良瀬、桐生の両川氾濫(はんらん)し未曽有の惨害を蒙り、なお引き続いて翌二十三年九月及び二十四年九月と連続三ヵ年に亘り被害総額十八億円に及ぶ大災害を喫したのであります。以来、市民は総力を挙げて復興に邁進し道路、橋梁、河岸、水道施設の復旧をはじめ罹災者住宅、塵芥焼却場、新川運動場等の諸施設は一応復旧又は整備を了しましたが、六三制実施に伴う新制中学校、小学校校舎の新増築並びに屠場の復旧、母子寮、引揚者住宅等の建築その他災害箇所の補強等、幾多の事業が累積している実状であります。
然るに経済界特に繊維工業界の極端な不況に禍(わざわい)されて、市民の経済力はとみに衰退し、為に市税の徴収は著しく困難となり諸支払を停頓して必要不可欠の各種事業も実施困難の現状となって居るのであります。
ここにおきまして本市はこの難局打開策に関し慎重熟慮の結果、これが諸施策の一環としてモーターボート競走を実施し、もって市財政の緩和に資そうとするものであります。
昭和二十七年三月二十九日、三十日
モーターボート競走場事前審査のため、下記係官が来桐し、阿左美沼及び周辺を視察された。
運輸省 山岸舟艇班長
モーターボート競走会連合会
石川副会長、矢次運営委員長
昭和二十七年四月
全国のトップを切って開催された長崎県大村市営モーターボート競走を、市の幹部並びに市議会代表者等が実地に視察した。
昭和二十七年七月
翌年にわたり桐生市産業委員会と競走会は数度にわたり競走実施に関する協議会を開催した。
昭和二十七年七月二十二日〜二十六日
市議会産業委員十二名によりモーターボート競走事業、公営バス事業の先進都市である浜名湖競艇組合、半田市、大津市、浜松市、岐阜市を視察した。
昭和二十八年六月二十日
阿左美沼においてモーターボート第一回試走会を開催。
昭和二十八年七月五日
阿左美沼にて第二回試走会を開催。
昭和二十九年六月五日
群馬県モーターボート競走会会長野間恒次氏より市長及び市議会議長に対し、至急、施行指定許可獲得方の懇請があった。
昭和二十九年六月九日
野間競走会長より桐生市長及び市議会議長に対し、至急施行指定の獲得方の懇請がある。
昭和二十九年七月二十一日
桐生市産業委員会は関西方面各競走場を視察。
昭和二十九年八月五日
関西各競走場視察の結果にもとづき競走の基本方針を決定。
昭和二十九年九年十三日
市は、群馬県競艇株式会社代表者、秋山千秋氏と阿左美モーターボート競走場使用について承認し、請書を徴す。
昭和二十九年九月十三日
モーターボート競走施行市指定申請書を自治庁長官宛提出し、翌三十年三月十八日付、自治庁告示第十二号をもって次の通り指定された。
昭和三十年一月十一日
群馬県知事より風致地区許可行為の認可がある。
昭和三十年一月十一日
競走場地鎮祭を行なう。
自治庁告示第十二号
モーターボート競走法(昭和二十六年法律第二四二号)第二条第一項の規定に依りモーターボート競走を行うことのできる市を次の様に指定する。
昭和三十年三月十八日
自治庁長官 西田 隆男
桐生市、岡崎市、蒲郡市
昭和三十年三月二十九日
運輸大臣より競走場建設地決定される。
昭和三十一年七月十六日
桐生競艇施設株式会社(群馬県競艇株式会社代表者秋山千秋氏の準備行為を継承する)が設立され、代表取締役秋山千秋氏は八月十三日、酒井利雄氏に変更し、目的はモーターボート競走場の利用、経営その他とし、資本金二千万円をもって直ちに桐生モーターボート競走場の建設に着手された。同年十月同競走場の建設を竣工し、競走場、モーターボートの登録も完了した。
昭和三十一年九月一日
市は、「桐生市モーターボート競走実施規程」を設定し群馬県モーターボート競走会と競走の実施に関し委任契約を締結し、桐生競艇施設株式会社と競走場の競走路及び競走に必要なその他の附属設備を使用するための賃貸借契約を締結した。
昭和三十一年九月五日
市営第一回モーターボート競走開催届を運輸大臣に提出した。
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