IV. 写生地としての房州
写生地の条件
房総の風土や風景を描いた多くの作品がある。たとえば、明治37年に布良で取材した青木繁の《海の幸》や、太海で安井曽太郎が描いた《外房風景》などが、その代表的なものである。明治以降、油彩画の普及とともに、多くの画家たちが写生地を求めて房総に訪れている。そして銚子、九十九里、御宿、鵜原、太海、布良などの外房や安房地方の海景をはじめ、内陸の我孫子、佐原周辺の水郷、内湾の稲毛などが好んで描かれた。
写生地として成立する条件がある。そのひとつ目は、当然のことながら風光明媚な景勝地であること。房総は、複雑な海岸線を持ち、特に外房は砂岩の侵食されたリアス式の海岸線で、絵の題材としては最適な風景を見ることができる。ふたつ目は、交通の便が良いこと。画家たちが、気軽に移動できる距離であり、アクセスが確保されていることも重要である。この点、房総は東京に隣接し、幕末から江戸と内房各港との航路が発達し、明治16年には蒸気船が就航して、外房の港への交通も便利になった。また、鉄道も、明治30年には現在の総武本線が銚子まで開通し、外房線は明治29年に大網まで、明治32年には大原まで延伸した。一方、内房線は、大正8年に館山まで開通し、大正14年には鴨川まで達した。そして外房線が昭和4年に鴨川まで通じたのを受け、房総半島を環状する鉄道網が整備された。三つ目は、画家たちが滞在する宿などがあったことも重要である。明治37年に布良を訪れた青木繁は、同郷の詩人高島泉郷から柏屋旅館を紹介されていたが、小谷という漁師の家に滞在した。このように漁師や網元の家に宿泊した例は多く、安井が滞在した江澤館も、もとは船大工を営んでいたが、明治末から画家を宿泊させるようになり大正2年に宿屋に転業している。
以上の三つのことは、写生地として成立する最低の条件となる。このうちアクセスについては、内房線は、館山まで大正8年に開通し、外房よりも早く南下している。しかし、それより以前から画家たちは、安房の海岸を訪れている。明治29年には浅井忠が根本海岸で取材し《漁婦》を描き、明治37年には青木繁が布良に滞在している。明治41年に布良、白浜に来た石井柏亭は、『柏亭自伝』の中に「霊岸島から出る房州通いの小さな汽船に乗って北条に上陸し、歩いて布良白浜へ行った」とあるように、東京の霊巌島から北条まで船を利用しており、鉄道に先駆け船が交通手段として活用されていた。これにより、写生地は房総の南端からはじまり、次に明治29年に大網まで鉄道が敷かれ、周辺の大原などが写生地となっていった。この年に訪れた黒田清輝の日記によれば、千葉経由で約2時間をかけて大網に到着し、その後馬車で大原まで移動している。
この他の条件としては、温暖な気候であることも要件のひとつである。このように、房総は写生地として適した所であったが、房総で描かれた作品を調べてみると、外房に比べ内房で描かれたものが非常に少ないことが判明する。内房線の整備が早かったにもかかわらず、多くの画家たちが外房を訪れ作画したのは、内房には軍事的な要塞が各地に築かれ自由な往来やその周辺の風景を描写することができなかったためであると思われる。
野外で絵を描く
画家が、野外で絵を描くようになったのは、そんなに古いことではない。ヨーロッパにおいては、17世紀以来の伝統であった定型的な風景画、すなわち歴史や神話の場面としての風景(歴史的風景画)や、過去の理想化された風景(牧歌的風景画)ではなく、1800年代中頃からは目に見える現実の風景を描く画家たちが登場する。その代表がクールベであり、パリ郊外のバルビゾン村に住み、周辺の自然や農村生活を描いたミレー、コローなどのバルビゾン派と称される画家たちである。彼らは、それまでのアトリエから戸外に出て、直接自然を観察することにより絵を描いた。
日本においては、明治9年に工部美術学校が新設され、その教師として来日したイタリア人アントニオ・フォンタネージは、授業の中でミレーやコローなどの話をしてバルビゾン派を紹介するとともに、野外で写生することを教えた。フォンタネージに、浅井忠、小山正太郎、松岡寿などが学んだ。浅井忠は、明治20年頃に数回白浜を訪れるとともに、生涯を通じて農村生活の一光景を描きつづけた。小山正太郎は、私塾において弟子たちを連れ東京の郊外に写生に出かけた。日本の油彩画の発展に際し、フォンタネージが教えた野外での写生が基盤として確立された。その一方、明治26年に黒田清輝がフランスから帰国し、外光派の風景表現を持ち帰った。これは、当時ヨーロッパで主流であった印象派の色彩と、フランス・アカデミーの写実性で描こうとするものであり、光の反射に応じて変化する自然の色を求めたため野外で描くことを基本とした。黒田もまた、弟子たちを連れ下総の関宿や、銚子、外房を写生した。
このフォンタネージの流れをくむ浅井忠、小山正太郎などの絵画と、黒田清輝がもたらした外光派の絵画とは、それ以降の日本の油彩画を形成していった。それ故、画家たちにとって、野外での写生は基礎的な活動となった。明治29年12月、浅井は安房地方の根本を訪れ《漁婦》を描いた。年が明けた正月、大原で黒田清輝と出会い、一緒に八幡岬を描いた。このような活動が象徴するように、浅井や黒田の教えを受けた画家たちも、野外での写生地を求めて房総を訪れるようになる。
浅井や小山の流れをくみ、明治34年に組織された太平洋画会は、会の名称が示すように海にゆかりのある名称を掲げているが、その中の石川寅治と中川八郎は、江澤館の創業後に太海を訪れており、同会の画家たちが房総を写生地として作画する契機を生み出した。また、浅井の弟子である石井柏亭は、明治31年を始めとし、たびたび房総を訪れ、大正2年には太平洋画会のメンバーを引き連れ銚子で作画している。一方、黒田の流れをくむ白馬会の画家たちは、久米桂一郎、青木繁、中村(なかむら)彝(つね)などその名を枚挙すればきりがないほどである。その中で、中村彝が布良村を描いた《海辺の村》(東京国立博物館蔵)や、金山平三が千倉で描いた《風雨の翌日》(東京芸術大学大学美術館蔵)は、彼らの代表作のひとつとなっている。
このような海の風景への郷愁は、美術史上において野外で絵を描く流れの影響を受けたという要件であるとともに、日本人の精神的な古層からの内発的な現れでもあった。明治27年志賀(しが)重昂(しげたか)の『日本風景論』は、日本の風土や風景が欧米に比べて優れていることを記し、日本の風土や風景を改めて見直し再認識させるものとなった。この本は、主に山岳を中心に述べているが、日本人の根本的な景観意識を変えたと言われている。さらに、明治27、28年に起った日清戦争は、はじめての他国との戦いであり、国民精神の盛り上がりをみせた。志賀の本は、発刊以来ベストセラーとなり、多くの日本人の中にナショナリズムを形成した。黒田清輝の帰国は、この『日本風景論』の刊行とほぼ時期を同じくしており、浅井の活動も最盛期を迎えていた。
野外での作画は、画家たちが戸外で自然観察をおこない写生するという技術的な必要性とともに、社会的な背景により日本の風土や風景を再認識し、郷愁をいだくという精神的な基盤の上に定着していったと考えられる。
日本人と海の風景画
世界の美術史の中で、海を描いた油彩画は以外と少ない。まず思い浮かぶのは、17世紀オランダ絵画である。北海から大西洋、インド洋へと船団をくりひろげ、大航海時代に活躍し、それを背景として数多くの海景画家が登場する。ウィレム・ファン・デ・フェルデ、ヤーコブ・ファン・ライスダールなどが海を行く船団を描き、アドリアーン・ファン・オスターデなどが卓上に置かれた魚や海老などの海産物を描いた。その影響を受けたターナーなどのイギリスの画家たちも海を描いたが、その他では19世紀中頃にフランスのクールベが描いたノルマンディー地方の海岸や波の光景、モネの地中海風景などを見るくらいである。
日本は、四方が海に囲まれているにもかかわらず、オランダのような海景画を専門とする者や、海洋静物画を描く者たちが登場することはない。しかし、反面多くの画家たちは、日常の風景のひとつとして海景を描いている。このことは、恐らく日本人の自然観に関係しているものと思われる。
古代の日本人は、神は海の彼方から船に坐して来るという観念をいだいていた。その神が在す世界は、「常世」という不老不死の楽土であると信じてきた。それは、海中の宮殿に行き、そこでは老いることなく過ごしたという浦島伝説の根源をなすものであり、中世には仏教の浄土信仰と重なり、永遠の生命を得ることのできる「補陀洛(ふだらく)」という理想郷となった。それは、ある意味で祖霊たちが住む魂の世界となり、死後の世界である「黄泉の国」として、人々の心の中に定着していった。日本人にとって、海の彼方は神の在する場所であり、祖先の住む場所であり、自らも幸せに過ごせる場所となって心の安らぎを求めた。それ故、日本の画家たちの多くが、海の風景をテーマとして描いた。それらの作品は、ほとんどが心を包み込むような穏やかなものであり、あくまで受身的なものということができる。これは大航海時代を背景に、17世紀オランダで描かれた海を征服するかのような海景画や、クールベが描いた荒れ狂う海などのような自然に対する挑戦的な絵画とは、本質的に海に向かう姿勢を異にしている。
「常世思想」は、古代から受け継がれてきたものであり、日本人の精神的な古層に刻み込まれたものと言える。浦島伝説は、お伽噺として巌谷小波が明治29年に『日本昔噺』叢書第18巻に刊行してから、庶民たちにも親しまれるようになった。さらに、明治33年頃からはじまった柳田国男の民俗学の創生が影響を及ぼしたと考えられる。明治30年、柳田は、伊良湖岬の浜辺に流れ着いた椰子の実を発見し、それを島崎藤村に話して、有名な「名も知らぬ遠き島より・・・」という詩が生まれた。海の彼方の見知らぬ地の存在を暗示させる詩は、「常世思想」に裏付けされたものであった。小波や柳田の活動は、人々の精神的な古層を掘り起こすものとなり、画家たちが海を描く要因を形成したと思われる。
描かれた海景画
写生地・房総で描かれた作品は、次のふたつにおいて現在に重要なことがらを伝えてくれる。そのひとつは、絵画は時代の証言者であるということである。これは、特に房総で描かれた風景画や海景画に限ったことではないが、明治期のように写真が未発達の時代に描かれた絵画には、その時代の風俗や人々の生活、あるいは失われた風景などが描かれ伝えられている。石井柏亭は、明治41年に白浜、布良を訪れ、「布良では今測候所のある高みから岩の二つの列が海に突出しているところを瞰下ろして水彩に描いた」が、その後昭和に入り再び同じ場所に行った時、「最近そこへ行って見たが地震による変動のために岩盤が上り水の入り組みが減って興趣を減じていた」と風景が変わっていたと述べている。房総では、何度かの地震により地形の変化が生じている。そのため、それ以前に描かれた絵画は、貴重な証言者となる。明治29年に、浅井が根本海岸で取材し描いた《漁婦》の背景になる岩場についても、現状との変化を指摘できるようである。さらに、《漁婦》は、明治中頃の漁民の女性の姿を伝えるものとして貴重であり、まさに時代を反映した代表的な絵画のひとつである。このような絵画に表現された民俗性については、本展覧会の主なテーマとなっている。
次に、これもまた全ての絵画がもつ共通的な要素ではあるが、風景を形成する歴史や風土などの空間が画家に影響を与え、その感情が移入されている点である。房総においては特筆される画家として、青木繁を上げることができる。青木は、小山正太郎の不同舎に入門し、東京美術学校で黒田清輝に学んだ。二人の師から野外で作画することを教えられたが、青木のロマン的な精神は日本神話を主題とした絵画へと向かわせる。明治36年、黒田が主宰する白馬会の第8回展に黄泉の世界をテーマとした《黄泉比良坂》などを出品する。翌37年、友人の坂本繁二郎、森田恒友、福田たねの4人で布良に滞在し、有名な《海の幸》をはじめ、数枚の海景画を描いた。その後も、38年に《大穴牟知命》、39年に《日本武尊》、40年には海彦山彦伝説をテーマとして《わだつみのいろこの宮》などを描いている。この一連の神話を主題とする絵画の中に、《海の幸》も位置づけることができる。《海の幸》は、青木が実際に見た光景ではなく、同行の坂本繁二郎や森田恒友のから港で陸揚げされる鮫の話を聞き、構想を得て描いたものである。安房の地は、天富命が黒潮に乗りたどり着いた土地であると言い伝えられ、神話に満ちた土地である。青木は、その風土性を感じ、《海の幸》を描いた。そのため《海の幸》は、海彦山彦伝説をテーマとする予定であったと言われており、列をつくり鮫を運ぶ漁民の姿を題材としながらも、神話の地に生きる人々の生命力を賛美したものであり、精神的古層から内発された作品として見ることができる。この時期に、青木は布良で数枚の海の風景を描いた。この一連の作品は、美術的には印象派の色彩を意識し試みたものとされるが、その色彩と筆触には海の彼方に心の安らぎを求めた穏やかさが漂っている。それは、海の彼方の「常世」を描こうとしたものかもしれない。3年後に描かれた《わだつみのいろこの宮》は、布良で抱いた海中への想いから描かれたものであった。
房総で描かれた絵画は、その時代の風景や風習などを伝え、あるいはその歴史や風土に刺激を受けて精神的古層を表現したものであった。それ故、房総は、絵画の題材として適した場所であったというだけではなく、精神的な刺激を与えた場所でもあったと言えるであろう。
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