たった一人で、これから自分がどうなるかという不安を、子供心に強く感じていたあの頃を。けれども、げん爺をはじめこの家の人は、みんな親切でした。
かなが、少しでもこの家になじむようにと気を使ってくれ、本当の家族のように接してくれました。
特に、おばちゃんは女の子ができてよかった、といつも喜んでくれました。
あつしが、転んだ拍子に針金でひっかいて足に大けがをした時、
「子どもが一人っきりだったら、もしもの時に心細いからね。一人が欠けても、もう一人いるからあきらめもつくね」
などと言って、気の弱いあつしを心配させたくらいです。
「ねぇね、あん時、あっちゃん、ひどくすねて、あたしに粘土買ってきてくれって頼んだよね」
「忘れた!」
「なんでぇ。照れとるの? あたしが、粘土なんか、どうするのって聞いたら、もし足がこのまま治らんかったら、船にも乗れんやろうし、そとに勤めに出ることもむりだから、芸術家になるって言ったがね」
「げいじゅつか? そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ。それで毎日、粘土で何か作るんだけど、それがまた下手くそで、鳥だっていって見せてくれたとが、どっから見てもブタみたいだったし」
「・・・」
「まあ、あっちゃんより、あたしの方が力もあるし、漁には向いてると思うよ。だから、あたしはずっとこの船に乗るよ」
かなは、何回も船に乗って帆を張るうちに自分は、男の子のあつしと変わらないぐらいの力持ちだと思うようになりました。
あつしでも、踏ん張ってようやく持ち上げるコンテナを、楽々持ち上げることが出来るし、網を投げるのも、底曳網を引き上げるのも平気です。
「かなは力持ちじゃな」
とだれからもほめられるので、あつしも負けずと力を出します。
二人とも、競ってご飯を食べました。
おばちゃんは、すぐにからっぽになる炊飯ジャーをみては、にが笑いをしていました。
かなはだんだん、男の子のようにたくましくなってゆきました。
「かなとあつしが手伝うてくれるから、わしは幸せ者だな」
げん爺は、ニコニコして言いました。
乙姫まつりの日がやってきました。
この日は漁を休んで船を洗い、焼酎と米で清めてから、漁師が竜宮神社につどいます。
神社に来る人にはだれにでも振る舞い酒をしたり、ふだんは使ったことのないような小さな茶碗でご馳走を食べたりして、日ごろのつかれを癒します。
いつも力のいる仕事をしているので、軽い茶碗で肩や腰を休ませてあげよう、というわけです。
それなのに、力くらべの競技が行われたりします。矛盾しています。
ご馳走のだしは、けた打たせ漁で獲ったエビを焼いたものです。
にぎやかに集うことで、竜宮神社に漁の安全を祈願する日でもありました。
中でも笑いを誘うのは、底曳網をコンテナに入れてヒョイとかかえ、神社の境内をまわってくる競走です。
荒くれの男たちが、ぞろぞろ並びました。
漁には出たことのない何人かの女の人も並びました。力自慢の人たちです。一等になると、賞品がでるのです。
もちろん、かなも並んでいます。
一せいに走り出しました。網をコンテナに入れて走り出すまでは何とかできても、それを抱えて走るのは無理です。まして、男たちは焼酎をたらふく飲んでいましたから。
かなは、走りました。あつしも負けずと走りました。
ゴールは、ほとんど同時でした。
「かなは女の子じゃっでな、まぁハンディをやろう。ほいで、かなが優勝な!」
みんなが拍手をします。げん爺も、目を細めています。
そのときでした。
「げん爺! ご機嫌じゃな」
声をかけてきたのは、漁協の寄り合いの時いつもつっかかってくる尾野という男です。
「お前んとこの文字網があっで、役所にいくら談判しても、どうもならんなよ。中間育成施設を作ってもらわな、エビはげん爺の船でしか獲れんなよ」
「そげんこた、なか」
「ないが、伝統よ。どしてん守らにゃいかんよ。施設を作ってもろて、平等に漁をせな、俺らは、食うていけんじゃなかか」
尾野は、だんだん勢いをつけてきます。
自分で言っている言葉に、自分で興奮しているような感じでした。
「あげん文字網なんか、とっぱらえ!」
「そげんことは、いま言うな。きょうは乙姫祭りで、みんなが気楽にくつろいどっとこいじゃ。話があるなら、酔いがさめてからにすうこっじゃな」
げん爺がそう言うと、尾野は、焼酎の勢いも手伝って、いまにもげん爺になぐりかかってきそうな勢いでした。みんなが必死に尾野を止めました。
「わしは、身勝手なんじゃろうか。昔ながらの漁法を、ただ続けておることが、身勝手なんじゃろうか」
その夜、げん爺は一人で、さびしそうに遅くまで焼酎を飲んでいました。
ある日のことです。
あつしとかなが学校から帰ると、庭先に見慣れない車が止まっていました。
「お客かね・・・」
二人が家の中に入ろうとすると、中からげん爺の声が聞こえてきました。
「もう、それは役所の決定じゃな。どうでも従えということですな」
いつになく元気のない声でした。
まもなく、家の中から出てきた二人の男はあつしと、かなを見ると小さく頭を下げて帰ってゆきました。
「どうしたと?」
二人は、口をそろえてげん爺の前にたちました。
口を一文字に結んで、腕組みをしたげん爺は、難しい顔で奥の部屋に引っ込んでしまいました。かわりに母ちゃんが説明します。
「文字網をかけとるでしょう。それを、取り払えて・・・」
「なして?」
あつしより、かながあわてて聞きました。
「中間育成施設、っていうとができるんだって。文字網は、台風に弱かしね。漁協の要望が強くて・・・うちだけやもんね。独占してる、て思われても仕方なかもんね。役所の予算で作ってくれるなら、それが一番よかとよ。爺ちゃんも、それはよく納得しといやっと。けど、さみしかとやろね。古いものが、だんだん無くなっていくとが」
「中間育成施設て・・・」
「文字網と同じよ。けど、構造が頑丈だから稚エビは、危険にさらされることなく、百パーセント、確実に大きくなっとよ。漁師のためにも、エビのためにも、それがいちばん良かとよ」
「じゃ、もう、日にちは決まってるとね。文字網を取り払うとは?」
今度は、あつしが興奮してたずねます。
「あした」
「きょうがきょう言って、明日ね!」
「明日、天気も良さそうだし、どこそこの家と話あってすることもなかでしょう。うちだけだから。爺ちゃんも役所の人に、そう返事しといやったし、父ちゃんも明日はつごうつく日だし」
おばちゃんは、あっさり答えました。
稚エビの放流は、夕陽が沈むころに行われます。夜になると、エビは砂の中に潜る習性があるからです。あまり深いところで放流すると、魚のエサになってしまうので、大人のひざくらいの深さで放します。
あつしや、かなも何度か見たことがありますが、夕陽を浴びて金色に輝く海に、稚エビが放される様は、そこだけ絵本から飛び出したような美しい風景です。
「あたしも、手伝う」
かなは、げん爺の消えた奥の部屋を気にしながらつぶやきました。
つぎの日、学校から急いで帰った二人は腰まであるゴム長靴を履くと、いそいで浜辺に向かいました。げん爺は、もう海に入って作業をしています。二人に気づくと、大きく手を振って合図をしました。
「早かったな、けがしないようにしろよ。かなは危ないから、浜でながめとけ」
おじちゃんが文字網の先端のほうで大声をあげます。
「いいよ。気をつけるから、心配せんで」
かなは、もう海水に手をつっこんでいました。けれども、もう文字網を取り払う作業はほとんど終わっていました。
役所の係りの人や、漁協の若い連中が来て手伝ってくれたようでした。
「放流だぞ」
げん爺が、かなとあつしにバケツをくれました。大コンテナから、バケツに稚エビをすくうと、透明な渦のように、稚エビが踊りました。
「おおきくなれよ。また、もどってこいよ」
げん爺は、大切なものを手放すようにそっと、バケツを傾けました。
「げん爺、おれ、ずっと船に乗るよ。」
あつしが言いました。
「あたしも」
かなも、あつしよりちょっと大きな声で言いました。
「そうか。まぁ、いつまで漁ができるかわからんが、爺ちゃんも、そのつもりだ」
冷たい風のせいか、泣いていたのか、どちらともわかりませんでしたが、げん爺はじっと海面を見つめていて、鼻をすすったようでした。
明日もまた、けた打たせ漁の白い帆が、八代海にうかんでいたら、それはきっとげん爺の船です。
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