海洋文学賞部門大賞受賞作品
回想・体験記
『なんてーの紳士たち』
赤池 孝之(あかいけ・たかゆき)
本名=同じ。一九三五年長野県生まれ。通信社定年退職後、高校、大学、女子短大の講師を経て現在フリーランス。日本記者クラブ会員。第十一回長野文学賞随筆部門入選。東京都江東区在住。
東京下町の繁華街で山形忠和さんと待ち合わせをした。
山形さんは南方定点気象観測船の元・気象長である。明るい人柄と温厚な指揮ぶりで巡視船兼気象観測船「のじま」の観測員や乗組員から敬愛されていた。ルポ取材で体験乗船した私は太平洋の波風にもまれながら船酔い、酒の酔いを共にし、お世話になった。
以来、お互いの転勤によるすれ違いもあり、再会は三十年ぶりである。だが電話と年賀状、手紙などの交流を密にしていたせいか、人込みのなかでもすぐに見分けはついた。喜寿に近い山形さんの髪は白く変わり、後ろ姿にわずかに年齢を窺わせたが歩き方も話ぶりも若々しい。絶やさない笑みも相変わらずである。
事前の電話では「お茶でも」だったのが会うと、陽が高いというのに酒に落ち着く。すぐに気象庁、海上保安庁の人の消息やお互いの報告となった。三週間の航海中、温かく包んでくれた人たちの名前やニックネームは、私はメモなしでもすらすらと出る。一人ひとりの名を挙げその後を問うと、「彼は亡くなりましたよ」「ああ、彼も最近・・・」。苦楽を共にした人たちの多くが、古希を境に鬼籍に入ったことを山形さんは淡々と告げる。
私が観測船に乗ったのは昭和四十八年(一九七三年)だった。田中内閣時代、後の韓国大統領金大中が日本で拉致された年、石油ショックでトイレットペーパーが店頭から姿を消し、円の変動相場制が始まった年である。
「たった一回の観測船体験だが今の生き方に大きな影響を残していると思う」。殊勝な私の言葉に、山形さんは「あの船の体験で人間が変わらなかったら、それは余程の大ものか鈍い人ですよ」と、ワイングラスを手に声を上げて笑った。
船出早々、前線を横切った船は風と波に翻弄(ほんろう)される。東京湾を出ると、私は苦しさと恐ろしさにベッドで脅えた。奥深い山国育ちで、自然の厳しさは知っているつもりだが改めて自然の力を教えられる。
船を下りてからの私は、人や自然、神仏に対し静かに頭を垂れ、謙虚な姿勢で臨むようになった。仕事にひるむとき、船での苦しみを思い起こし、心に鞭(むち)打って生きる術を身につけていた。
「最近新造された二代目の巡回観測船『啓風丸』『凌風丸』は私たちの乗った巡視船と違って快適らしいですね」「あれは、私たちの乗り組んだ船とは大違い。極楽船ですよ。一人一室、テレビ、冷蔵庫付き。観測機器も自動化されたし・・・。しかし、北方にも南方にも外国にも行く。作業の質も変わって、後輩たちの苦労は相変わらずのようですがね」
今昔の気象観測の話題は尽きなかった。窓の外にネオンが点き、勤めを終えた人達で店が埋まるころ、二人はようやく席を立った。
かつて気象庁と海上保安庁は台風シーズンの半年間、太平洋上に巡視船を漂わせ、南方の気象観測をしていた。「浮かぶ気象台」「台風の見張り役」ともいわれ、関係者は「なんてー(南定)」と愛着を込めて呼んだ。
「なんてー」は太平洋戦争二年後の昭和二十二年(一九四七年)、駐留軍の軍事上の都合で生まれる。戦時中、日本は気象情報を軍事機密として公開しなかった。戦後、天気予報は再開されるが中国大陸などのデータは入らない。南の太平洋も同様である。予報精度が粗いため、悪い物を食べたとき「天気予報」と唱えれば毒に「当たらない」とまで酷評された。精度の悪い予報に音を上げたのが日本の空と海を握っていた駐留軍である。資料不足を解消し、より高度な予報を得るために生まれたのが船による観測システムである。
南方定点船による気象観測は一時期の中断を経て、同五十六年(一九八一年)まで続く。任務を終えたのは無人観測ブイと気象衛星、国際協力などに任せるようになったからである。その「定点観測船」は今、死語に近い。とりわけ「南方定点」は。
チンパンジーの逃走
私は通信社記者だった。四十歳近いというのに得意とする専門分野もないまま事件、事故の取材に明け暮れていた。学園紛争、連合赤軍、連続殺人事件や火炎瓶、催涙弾が飛び交うデモ取材、航空機事故など長年にわたるざらざらした仕事に嫌気がさした揚げ句、以前、一年間だけ担当した気象庁を希望する。
当時の気象庁クラブは、重要視される今と異なり、異常気象、二十四節などを普通に書いていれば「抜き、抜かれの競争がない、人畜無害の舞台」といわれた。軽視される一方、台風や豪雪、地震などでは徹夜をする。ふだんは暑いにつけ寒いにつけ、夕刊や昼のニュース用に出勤は朝早い。努力を強いられる割に地味なため、希望する記者は少なかった。
そんな部署を希望したのは取材に「要らぬ神経を使わなくて済む」と思ったからだ。ひと呼吸入れてリフレッシュしたい気持ちもあった。気象人たちの好ましさを前回の経験で知っていたからでもある。休み時間には生臭い話より物理や地学の問題に取り組む方を好む物静かな職員は記者の愚問にも懇切丁寧に答えてくれる。政治経済問題や事件取材のように禅問答ではぐらかす人はいない。
二度目となる気象庁担当直前、動物園からチンパンジーが逃げ出した。人間の四歳ぐらいの知能を持つといわれ、テレビに出演して人気があった。人を襲わないだろうとのことだったが民家の庭や屋根を歩き回り、大騒ぎとなる。私たちの目の前で遊ぶテキは睡眠薬を入れたバナナにも手を出さない。夜も更けるとみんないらいらしてきた。
「麻酔銃で眠らせろ」「網を発射したら」。やじ馬から無責任とも尤もとも思える声が出る。しかし飼育係は「チンパンジーとの信頼関係が壊れる」と周囲の声に「うん」と言わない。そして時折ひとりで彼の所に戻ると手を取り合ったり、並んでたばこをのみ分けたりする。チンパンジーは飼育係の話はおとなしく聞き、首を横に振ったりしている。
飼育係は警察官や記者団の所に戻ると「彼は帰りたくないそうです」と恐縮する。私は「ふざけるな」と一瞬腹の中で憤るがすぐにその言葉と態度に心を打たれ、胸がキュンとなった。動物を相手にする人と自然を相手にする気象人には共通点があると思った。
天気が予報と違っても気象人は変にこじつけた言い訳をしない。自然現象が相手だけに誤りは素直に認める。動物園の飼育係が動物をからかう人や禁じられてる食べ物を与える客に対して「やめてくださいッ」と怒鳴るのを目撃したことがある。事件職場でひと筋縄ではいかない人を多く見てきた私には、気象庁と動物園職員の姿は心の底に残っていた。
殺伐とした事件職場という檻(おり)からの脱出に成功して、めでたく気象庁クラブ入りを果たしたばかりのある日、私はだれもいない記者室でぼんやりしていた。
「お暇なら定点観測船にでも乗って、体験記でも書いたら・・・」。たまたま部屋をのぞいた顔見知りの天気相談所の人が水を向けてきた。気象マン気質と仕事の実態を連載記事にまとめてみたいと思っていた矢先である。それには彼らと一緒の生活が手っ取り早い。
早速、観測船への乗船申請書を会社と気象庁に書いた。手続き中、M新聞社から同様の申請書が気象庁に出ていることを知った。天気相談所の人はM社のことを承知で、船室に余裕があるのを知り、ヒントをくれたらしい。
「のじま」に乗船
長い梅雨。まだ一つも発生しない台風。ことしは観測が始まって以来の異常気象といわれる。気象庁と海上保安庁は「台風銀座」の表玄関に当たる太平洋上に定点観測船を浮かべ(略)四国沖南方四百五十キロ、沖縄東方海洋の北緯二九度、東経一三五度の海上で五月から十一月初めにかけて、巡視船「のじま」と「おじか」が交代で一日の休みもなく観測を続けている。
たまたまことしは定点観測を一時中断後、再開してから二十年目だそうだ。十三人の観測員と四十一人の乗組員の苦労を味わってみたいと、記者は三週間「のじま」に同乗してみた。
(昭和四十八年、下船後の筆者の新聞連載用原稿から)
「どどーん」と波が船腹を叩く。地震のときのように鉄の壁が揺れ、ギシギシときしむ。「ウォーターハンマー」の言葉と実態を初めて知った。乗り込むとき「話に聞くより立派だ。これなら大丈夫」と思った八〇〇余トンの巡視船が傾斜しながら波で持ち上げられる。と思う間もなく、海面に叩きつけられるバシーンという衝撃と大音が絶え間なく襲う。
東京湾を出て、梅雨前線を横切っただけなのに、私は船底のベッドで青くなっていた。床の荷物は滑ってあちこちに移動し、壁にぶつかる。胃袋から出す物はもうとっくにないのに吐き気は続く。手洗いに行くのも夢遊病者さながら。ふと見ると、同行取材となったM社の小林記者の手がベッドからぶらりと下がったまま動かない。心配のあまり呼吸と脈を確かめた。死んだように眠る私を心配して小林記者も航海中、同じことをしたという。
お互いに初対面の相棒が気遣ったとも知らずに「仮死状態」だったのである。
「のじま」は話に聞く木造の初代と違い、鉄鋼製だった。巡視船だけに居住性は良いとは思えないが水中で一回転しても沈まないといわれた。海が荒れると潜水艦のように甲板の出入口が密閉されるのを見て、本当なんだろうと信じた。それにしてもよく揺れた。
「船が横倒しになり、マストが水面を叩くこともあるそうですが船は頑丈ですから・・・」
「死ぬほどの苦しみだそうです。忍の一字ですよ」と気象庁の高官らが言ったことは脅しではなかった。「三日や四日は楽な時もあるそうです」を冗談と受け止め、気楽に申請書を出して乗り込んだことをすぐに悔いた。
出航して二日目、定点圏に着いて船が停まってからようやく食堂に行った。
「久しぶりに遠くに出たせいか私もやられましたよ」。食事をしながら気遣ってくれた福迫栄也船長の言葉は慰めにはならなかった。「プロの船長でさえ・・・」「これから二十日間も苦しさが続くのか」と思うと、かえって私の気は滅入った。
船長、山形気象長の二人とは乗船のとき、挨拶を交わしたが操機長、機関長ら幹部は出港時の忙しさと、私が船室から出なかったこともあって、食堂での対面が初顔合わせである。緊張と船酔いで箸の進まない私を山形さんは「胃袋にどすん、と飯が落ちる音が聞こえるでしょう」とほぐしてくれる。「胃袋にどすん」は乗組員の常套語らしかった。
船で最初に口にした食事=昼食は味も分からないまま飲み込んだ。出港以来、何度食事を抜いたのか、初めての食事はどんな物だったのか私のメモにはない。四回は食べなかったはずだ。「定点まで三十数時間の航海中、十回も甲板で作業をした観測員がいた」ことをその食事中、聞かされる。
規定の海域で停船して潮流を調べ、ロープにつけた茶筒のようなものを海中に投げ入れては引き揚げ、深さ一〇メートルから二七〇メートルまでの水温を測ったのだという。あのシケの中で。私は船の停まったことさえ知らなかった。
「ジンさん」と呼ばれる、この道二十年以上の小野田仁さんである。定点に落ち着いてからジンさんは、作業をしながら穏やかな人柄そのものの口調で講義をしてくれた。
「潮流や水温は気象予報にとっては基礎資料であるが漁業には死活問題だ。海の動物は温度と潮の流れに敏感だからね。海水の温度なんか、いつ測っても同じようなものだが決められた場所の、決められた時間のデータは私が取らないと永久に取れなくなる。地球規模でもっと観測点を増やし、波浪も科学的に捕らえたらおもしろいんだが」
「波浪、海水温度と簡単にいうが歴史を変える事もある。第二次世界大戦ヤマ場のノルマンジー(フランス)上陸作戦で、連合軍が波浪予報を的確に利用して注目を浴びた。太平洋戦争でキスカ(ロシア)から霧にまぎれて日本軍が撤退できたのは海水温度による北洋気象の特性を見極めたからだ。波浪や水温、潮流を体系づければ船の航海日程や漁業計画に利用でき、経済に寄与できるはずだ」
指摘を待つまでもなく、ジンさんの仕事は、近年注目されているエルニーニョ現象などの解明にも生きている。
「ひょうひょうとしたジンさんも亡くなった」と、再会した山形さんは献杯の儀式のようにグラスを顔の前に挙げて惜しんだ。気象庁を退官後、請われて本四架橋建設の調査に関わり、潮流や波浪、海上の風力などの進言を最後の仕事として逝ったという。
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