日本財団 図書館


公衆衛生を選んだこと
9期生 馬場 幸子
 現在初期研修医2年目として働いている。将来の専門を決めるに非常に悩んだが、母校の公衆衛生学教室で大学院生として勉強することに決めた。この記念誌へ寄せる文章の依頼を受け、まだまだ一人前とはいえない状態でなにかを発信できるのかと迷ったが、ちょうど私にとって節目の時期でのお話であったため自分の振り返りのためと思い、引き受けさせていただいた。
 なぜ公衆衛生なのか。これは小学校のときから横浜で育った私があえて大学から大阪にきたときに「なぜ大阪なのか」と聞かれたのと同様、話をした人のほとんどから投げかけられる質問であり、要は大半の人と違う選択をしている。
 確かに、医師を志そうとするとき、臨床医を目指すのが普通であるし、そして臨床医になる人がほとんどである。私も当初はそのつもりであった。
 そういったことのきっかけではないかと思う最初の出来事は、高校3年生のときに参加した東京の電力館での講演会だった。某大学の基礎の教授が遺伝子についてわかりやすく説明をしたものであり、私は受験勉強の合間に日頃の勉強とは違った形で息抜きがてら勉強をしたいと思い、新聞の広告を見て参加していた。その先生の話は素人にも興味深くわかりやすくて聴衆の心をひきつけていたのだが、「医者になったら個々の患者を治すことも重要であるが、こうやって一般の市民を啓蒙したり、健康や医学に対するモチベーションをあげることも仕事」ということを1番に感じた。実はこの方は医学博士ではあったが医師ではなかったのだが、ともかく感銘を受けた私は職場に「お礼の手紙」なるものを出し、それがきっかけで先生と今でもやりとりをさせていただいている。
 さてその師からの「人と一緒にひとつの場所にとどまるのは面白くないぞ」という一言になるほどと思い、直感で選んだ大阪という地での大学生活が始まったものの、一人暮らしの家と大学との往復、大学の友人とだけのおつきあいでは刺激が足らないように感じられ、「大阪で大学以外の場を」と市民オーケストラに参加してみたり対外的な活動も行っている部活に参加したりするようになった。バイトで得たお金をすべて海外旅行につぎこんでいたが、あるとき国際医療研究会なる部活がタイのMahidol大学と学生主体の交換留学を行っていることを知り、海外にも行くことができて現地で観光以外のこともできるなんて魅力的、と飛びつくように活動に参加しはじめた。このあたりがいわゆる国際保健や公衆衛生という分野へ触れる第一歩だったように思う。国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)のことを知り応募することになったのも、国際医療研究会へ出席していた他大学の笹川フェロー参加者からの影響を受けてのものだった。
 笹川フェローに参加したときも、当時の報告書に書いたように自分なりの目標をたててそれをまっとうすることを目的としていた。メンバーにも恵まれたこともあり、あの時見聞きしたことは勿論、みんなで考えたこと・議論したことは忘れられない。様々な経験を通して笹川フェローのメンバーと生活を共にする中で得た「個を活かすために協調性というものがある」ということが笹川フェローでの最大の収穫であった。それまでは、この分野で活動しようとするとうまく足並みを揃えられなかったり、まとまりとしての意識に欠けることが多く、悩んでいた。今回、何故そういったことが起きなかったのか考えてみると、ひとえにメンバーに恵まれていたからなのであるが、メンバーのそれぞれが自分の適性を踏まえて輪の中での自分の居場所をうまく見つけていたからだと思った。協調性を保ちつつも、それぞれの興味や適性は別のところにあるこのメンバー達が卒業後どういった形で活躍していくか興味が湧いた。
 仕事としての医業へのアプローチを考えるとき、それはやりがい、好奇心、適性、生活、収入、体力など様々な側面があるが、自分を高めたいという欲求をうまくかなえられ、また自分という個を活かして社会にどのように貢献できるか、したいか、あるいは社会にどのように協調していくか、を考える必要があると思う。私の場合、公衆衛生に興味はあったが、この漠然とした分野で仕事をして「やりがい」をどのように見出すのか自分の中で明確な答えが出せず、まずは臨床の初期研修を行った。臨床もやりがいはあるし、目の前の患者を治す、あるいは手技を身につけるという具体的な目標を達成するために毎日働いていた自分ははつらつとしていたと思う。しかし一生したいかというとその自信はなかった。
 外科を選んだ笹川フェローの同期は「俺にできる努力は毎日糸結びをすること。こんな俺だけど今では手術もやらせてもらえるようになって、だからこそ毎日糸結びをする」と言っていた。私は?私にできる努力は?そう考えると公衆衛生に戻った。学問というのは結局のところ知的好奇心を満たすための努力をし、運がよければそれが社会に還元できる「かも」しれないだけのもの、だと思う。また公衆衛生の勉強なり研究なりでやりがいを見出す自信がついたわけでもない。が、埋もれている医学的、社会的問題・現象を掘り出して人々の健康維持に役立てるという途方もない作業の一端を担えると思うと今はとてもわくわくしている。敢えて王道を外しているつもりもないが、これまで人と違う選択をし違った経験をさせてもらって後悔をするどころか思い切って新しい世界に飛び込こんで正解だったと思っている。笹川フェローの同窓生の中では臨床以外の道に進んだ人は一般医師の集団と比較すれば非常に多く、いろいろな形で活躍される諸先輩方の足取りも参考にしながら自分の道を貫いていきたい。
 
 
笹川フェローとスーパーマン
10期生 水本 憲治
 国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)、そしてこれまでの経験を振り返って思うことに次のことがある。
 まず、笹川フェローという場はやはり貴重な場であった、ということ。そして、スーパーマンである必要はない、ということである。
 
 最初にスーパーマンの話を、エピソードを交えながら紹介させてもらいたい。
 学生時代、まだ国際保健なる分野での活動が始まる前の頃、私はAIESECという全学系の学生団体や日米学生会議、その他様々な、典型的な医学生活動以外の、その時々の興味と必要性に合致した学生活動をしていた。心のどこかで、医学生でこうした活動をしている先輩や同期はそういないだろうと思っていた節があった。しかし、である。後日この領域の先輩、そして笹川フェローの先生方とお話しした際に、少なからぬ先生方が既にそうした活動のOBであった事を知り、驚いた。三蔵法師の手のひらの上の孫悟空の気分である。当時の私には本当に恐れ入ったのを覚えている。
 
 狭い世界であり、活動領域が重なり合うのだと気付いた。そう、他分野に渡って活躍するスーパーマンである必要なんてないのである。国際保健の専門家は、国際保健専門家に非ず。他分野に渡って活躍する必要はなく、役割分担して自身の専門分野で腕を磨き、その道のスーパーマンになることが大事なのである。
 
 また、私個人の感覚として、この国際保健の分野は、「華」が大好きな人が多い気がする。今までの訪問国数から始まって、目立つ役職や大きなイベント、そしてMPH留学などが当てはまる。自戒を込めて言いたいのに加えて、特にMPH留学について多くの学生の方から尋ねられるのでお伝えしたいのだが、一振りで何事も可能になる「魔法の杖」などはなく、道を可能にするのは地道な努力であることをここに記しておく。
 
 そして、笹川フェローという場は今でも大変貴重な場となっている。
 私は笹川フェローでの経験を通じて、今を懸命に生きる「人々」、今を模索する「仲間」、そして今に取り組まれている「先輩方」を見、そこに「個」が持つ無限の可能性を感じた。そして、現状を知ったと同時に、それを好転させる方法を知ったことで、もはや無関心を言い訳にできないという責任を負ったと思っている。笹川フェローでの集まりは、そうした当時の思いを思い起こさせ、今の自分を鼓舞してくれる機会となっている。また、顔なじみの先輩方や、熱い思いを持った後輩のみなさんと交流できることは、貴重な情報交換の場となっているだけでなく、普段周囲に仲間が少ないこともあって、非常に居心地の良い場となっている。
 
 また、笹川フェローから帰国後、医学部6年後期を残して大学を休学し、米国へMPH留学をしたが、そのきっかけを与えてくださり、留学前だけでなく留学中にも、助言やサポートしてくださったのは笹川フェローの先輩であった。この場を借りて感謝を申し上げたいと共に、集う場となっている笹川フェローに心よりお礼を申し上げたい。そして、諸先輩方、後輩の皆さんと一緒に、スーパーマンになったいつか、共に仕事をできることを心から待ち望んでいることを最後に筆をおきたい。
 
笹川フェローから現在まで
1期指導専門家 高橋 謙造
 15年前の医学生の頃、タイの農村でプライマリ・ヘルスケアを知り、村人たちの手で健康が作られていく現場に衝撃を受けた。そして・バブおじさん(間違えた、バルア先生!)との出会い。以来、私の学生時代後半は国際保健への興味一色になった。
 
 12年前に医師1年生となり、小児科病棟に泊まり込み、重症児と接する毎日となった。とても充実して楽しい日々。ふと、「国際保健も遠くなるな・・・。」と思った。
 
 しかし、そんな1年生に突然第1回国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)引率の仕事が回って来た。なんと、バブさんも推薦人の一人だった。そして、笹川フェローで知り合った後輩たち。その新鮮な気持ちに接して私は進路を決めた。「5〜6年どっぷりと日本を知ったらやっぱり国際保健をやろう!」
 
 その後、南の離島の病院に2年半。地域というものの奥深さを知る日々。
 都会の小児救急病院に4年。現代の社会問題の最前線にいる自分。
 
 予定より2年遅れて医師8年生になって、やっと国際保健の道に戻った。すると、あちこちに笹川フェロー卒業生がいる。あの顔もこの顔も笹川フェロー卒業生。色々な分野で活躍が始まっていた。
 
 笹川フェローのつながりはとても緩やかなのに、どうにも不思議な絆が生まれていく。「あ、笹川フェローだったのね。」の一言を交わせば、その数年後には必ずどこかで再会する。そして、このつながりが現実の仕事でも徐々にきいてくるのだ。同じ釜の飯を食った仲間は強い。
 
 さて最後に、笹川フェローの後輩に向けてのメッセージを、大学の教員らしく「最先端」の話で締めくくろう。いま、日本は国連に対して世界でもトップクラスの資金額を拠出している。それにも関わらず、国連機関に日本から出て行く人材がまだまだ少ない。ところが、途上国の現場に出てみると、現地の国の人々を見下すような態度をあからさまにとる欧米人が一番発言力をもっている。どうにも歪んでいるのが国際保健の現場である。歪みは正した方がいい。先進国にしてアジア国である日本から、途上国の人々と「同じ目線」で働く人材がもっとたくさん出て行く時期に来ている。そのための人材供給源として、笹川フェローがもっともっと発展していくことを願ってやまない。
 では、「そのうちどこかで一緒に働きましょう!」
 
笹川フェローというグループダイナミクス
11期・12期指導専門家 西村 秋生
 大学時代の恩師であり、また前職場の大先輩でもある紀伊國先生より突然お電話を頂いたのは、筆者が名古屋大学に籍を置いて間もなくの事だった。当時はまだろくに転勤のお知らせもしておらず、外線などかかってくるはずもない。一体どなたかと訝りつつ受話器を上げた私の耳に飛び込んできたのは懐かしいあの声だった。「貴方なに、国際保健やってるらしいじゃない。今度うちの引率に行ってくれない?ん、そう、ありがとう。それじゃよろしく!」
 
 ちなみにその時点で筆者の頭の中には、国際保健の知識は「こ」の字もなかった(これは現在も大差ない)。確かに筆者の担当するコースは、アジア諸国の厚生省に所属する若手技官を対象に、医療行政について勉強してもらうものであり、その意味では国際保健関係には違いない。しかしそこでの筆者の役割は、彼らに日本の保健行政事情について話すことであって、筆者自身は国際保健の専門家でもなんでもないのであった。既に熱心に国際保健について勉強されている学生の皆さんに敵うはずもない。フィリピンでの筆者の基本的な行動パターンは、活発にプログラムをこなしていく参加学生の皆さんを後ろからそっと見守るだけであった。
 
 このような筆者の態度が結果的に奏功したと思われることが2点。1っは、かように指導専門家が頼りなかったからでもあろう、11期、12期とも、参加学生の全員が積極的に参加し成果を得ることができたこと(個人的には両期とも大成功であったと思っている)。そしてもう1つは、その成果を上げるプロセスにおいて、とても柔軟なダイナミクスがみられた、ということである。
 
 集団の中にいる人間は必ず、その集団における役割要請に影響を受ける(「役割」という言葉が鼻につく方もおられるだろうが、そのすじの用語と思し召してご勘弁を)。その要請を諾とする者もいれば反発することもあるだろうが、いずれであっても集団と個との反応であることに代わりない。そして集団において一旦役割が確定すると、この役割は容易に変化することがない。しかし異なる、未知の集団に身を投じていくとき、個はそれまでと全く異なる役割を要請されることがある。
 
 笹川フェロー初日の、軽く緊張感を伴うイベントとして、「リーダー選出」がある。夏休みの真っ盛り、他の学生が自由を謳歌しているこの時期に、わざわざ金を払って勉強しようというのだから、参加学生はかなりの強い意欲と勤勉さとを持ちあわせているのであろう。常の所属集団では、発案者・指導者・とりまとめ役等、なんらかのリーダー的な活動をされているに違いない、と想像させられる方が多い。しかしこの新しい集団では、全く異なったダイナミクスが出現する。既存の人間関係や部分的に共有された情報などがそのダイナミクスに作用するし、その結果、ときには意外な方が選出されたりする。そして他のメンバーはそこから別な役割へのシフトを要請される事になるわけである。最も特徴的な例としてリーダーをあげたが、どんな役割においても同じ事がいえる。
 
 筆者の経験した2度の笹川フェローに共通して言えることは、この新しい役割への移行プロセスが、とてもスムーズに行われた、ということである。サポート役に回る方、同じサポートでも「影の・・・」に徹する方、他のメンバーが気付かないような細やかな動きを見せてくれる方、全体の引き締め役、盛り上げ役、コメンテイター等、全員がこの新しい集団に欠くことのできない役割を自ら見つけ、活躍していくプロセスはとても心地よく、また軽い羨望を伴って感じられたものだった。
 
 実は笹川フェローにおいて、この点がとても重要なのではないだろうか。勿論WPROをはじめとする様々な訪問先での体験も貴重である。しかし、未知の集団に身をおいて、新たな、そして個にとっても集団にとっても適切な役割を獲得するということ、これはまさに国際協力において欠かすことのできない能力の1つなのだろうと思う。両期とも、参加学生は皆十分な能力を発揮したし、その意味で、筆者が体験した両期が大成功であったというのは決して過言ではない。そしてそれはもちろん、1期から連綿と続く笹川フェローの真髄なのに違いない。
 
 12回という節目を迎え、笹川フェローは今後も益々発展していくことだろう。それに負けないような柔軟さを持った参加学生が、これからもどんどん身を投じていってくれることを願ってやまない。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION