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きっかけとしての笹川フェローと国際保健プロフェッショナルへの道のり
3期生 田中 剛
 昨年の夏から始まったアトランタにおけるgraduate school lifeもほぼ終了となった。我が校は米国疾病管理センター(CDC)の隣にあり、実際教授陣の多くはそのAlumniである。その他American Cancer SocietyやCarter Centerといった施設に囲まれ、Field Epidemiologyを学ぶには最適な場所となっている。この1年半、Global Healthのみならず、requirementとなっているBiostatistics, Health Policy and Management, Environmental and Occupational Health, Behavioral Science and Health Education等の学問も学んできた。そしてこの1年半の研究の総まとめとして書き上げた修士論文(バングラデシュにおけるロタウィルス下痢症による子どもの疾患負荷について)は、先日米国公衆衛生学会で発表する機会を得た。
 医学部を卒業後、小児科医として沖縄で研鑽を積み、途上国医療に関わるという夢を叶えるためにも日本の病院勤務を辞め、アフガニスタンの難民キャンプに出かけた。しかし現実はあまりにも厳しく、診なければならない患者は溢れ返っているにも拘らず、医療品の不足や多くの患者の社会経済的な問題から充分な治療もできず、臍を噛むような日々が続いた。そのような時、笹川フェローで訪れたWPROハン事務局長の言葉がふと思い出された。「公衆衛生も医者の仕事の一つだ。社会全体をよく診察し、検査をして診断を下し、そして治療(介入)を行うのだ。よく考えてごらん。」当時はシュバイツァーヘの憧れといった漠然としたイメージしか自分のキャリアとして思い描いていなかった私には正直、その意味がよく理解できずにいた。後に、救急病院で朝から晩まで留めなく押し寄せる重症患者の対応に追われる日々においても、「健康な人々が病気にならないようにするにはどうしたらよいのだろう。」といった素朴な疑問さえ浮かぶ余地はなかったのだ。
 中央アジアにおけるミッションを終え、帰国した私は臨床から公衆衛生への道を選ぶことにした。進路について悩んでいた私にとって笹川フェローの仲間からの誘いは1つの大きな選択肢となっていた。「ごう、我々にも医療システムをデザインする仕事ができるんだよ。」途上国にしか目が行っていなかった私だったが、フィールドで働く中、自分が30年間生まれ育ち、その恩恵を享受してきた自国の保健医療について何も知らないことがよく判っていた。自分でさえ予想だにしなかった行政官としての人生を選ぶことは大きな挑戦でもあった。「何も焦る必要はない。自分の足元をしっかり固めよう。何かが見つかるかもしれない。」
 自分探しの道はこれからも続いていくだろう。ただマニラやペシャワールでの日々は私の人生選択の原点となっている。これから先、世界の何処で働くことになるかは今の段階では何も判らないが、難民保健の経験や感染症疫学といったツールをこれからも最大限利用し、人生のテーマである国際保健を追及していきたいと考えている。尾身現事務局長の言葉を座右の銘としたい。「国際人たれ。毎日英語で勉強をする努力を怠るなかれ。」
 
参照
 
金持ちと心持ちのあいだの気持ち
3期生 李 権二
 国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、笹川フェロー)記念冊子の発行、誠におめでとうございます。私が参加した第3回から、すでに10年が経過したのですね。不肖ながら寄稿文のお願いをいただき、八谷先生をはじめ編集担当の皆様、本当にありがとうございました。何を書こうか悩んで考えた末、後輩・学生へのメッセージとして、自分自身の経験をお書きすることにしました。この拙文が笹川フェローの裾野をひろげ、今後益々の発展に少しでも寄与できればと切望しております。
 笹川フェローでの出会いやフィリピンでの貴重な経験を通して、バルアさんが当時から言われていた「金持ちより心持ちに」という表現が深く印象に残っています。私は名前から推察できるように在日韓国人3世であり、バルアさんのお言葉を自分や親兄弟、親戚などの経験と照らし合わせ、長い間ずっと考えてきました。
 日本が国際化を目指してから、今でこそ周囲に外国人を多く見かけるようになりました。ただ、戦後すぐにはまだ外国人は珍しく、三国人と呼ばれる存在が私の両親であり、祖父母でした。植民地政策のなかで困窮を極め、日本へと海峡を渡ってきたのがルーツでありましたが、アジア蔑視が当時の日本ではひどく、言葉の問題もあってろくな仕事につけず、多くの三国人がバラックの部落暮らしでした。私の両親やその家族も、空腹を抱えて、1日も早く貧乏から抜け出し、金持ちになることを夢見ていました。
 1960年までは、貧しい人たちにとって日本も韓国、北朝鮮もたいして暮し向きの違いはなかったようです。そこで、私の伯母家族は日本での貧乏暮らしから脱却するため、北朝鮮への帰国船にのり渡航しました。ところが、朝鮮戦争後の高度経済成長期をへて日本はみるみる発展したのとは対照的に、北朝鮮は戦争の傷跡が深く経済的にも疲弊していきました。
 私の祖母は自分の娘に会いたくても、海外旅行にお金のかかる時代でしたのでやすやすと訪ねることはできません。加えて、東西冷戦の高まりを受け、日本と北朝鮮との国交はなかなか結ばれませんでした。離散家族となったのです。豊かさを夢見て北朝鮮に渡航した娘家族のため、祖母は日本で働いて送金したり、服を買って送ったり、時には会いに出かけたりしておりました。それらのすべてに先立つものはお金です。送金にしても渡航にしても、便宜を図ってもらうためにはお金が必要です。お金を稼ぐため、焼肉店などの飲食店自営やパチンコなど娯楽業の他、今ではあまりみないバキュームカーの清掃業に従事している親戚もいました。まだ在日韓国人が公務員や警察官、医師、弁護士になれない時代のことです。
 貴重なお金や物資を定期的に送られて、伯母家族にはとてもありがたかったことでしょう。一方で私の家族、親戚としては、数十年にわたりどれだけ援助しても北朝鮮での暮らし向きは改善せず、むしろ日本からの援助を頼みにしてろくに働きもしないで怠けているのではないか、との憶測も出ておりました。社会主義の構造的なゆがみもあるのでしょうが、援助する側も希望が失望へと変化していきました。いわゆる援助疲れです。5年前の祖母の死を境に、伯母家族と私の一族との親戚づきあいはだんだんと疎遠になっていきました。
 そのようななかでここ数年、在日も世代が進み、血縁関係をあまり重視せず、さらに疎んじる傾向が強くなってきました。面倒な在日韓国人としての境遇に嫌気がさし、通名のまま日本国籍を取り、日本人と結婚して日本に同化して暮らしていく親戚が増加してきました。これは私の一族だけでなく、在日外国人全体の傾向のようです。貧乏から抜けだして、さらには困難な時代を消し去るため同化して日本人になりたい心境はよくわかります。しかし、それはバルアさんのいう、心持ちといえるのかどうか、私は今でも深く考えています。
 私は北朝鮮には行ったことがありません。伯母家族には一度も会っていません。学生会議や旅行で韓国を訪れたことはあっても、英語で会話し、ろくに韓国語を話せません。日本と北朝鮮とは未だ国交がなく、祖母の葬式のときも、もちろん伯母家族は日本に渡航することは叶いませんでした。北朝鮮では国交がある地域であっても、一般人の海外渡航は厳しく制限されております。韓国でもつい数年前まで、兵役を終えてからでないと海外に自由に出かけることはできませんでした。日本の学校で教育をうけ、親戚づきあいが億劫になっていた私にとっても、北朝鮮は知らない国、韓国はできれば避けて通りたい国となっていきました。仕方のないことです。
 ある日、異変が起きました。韓流ブームです。悩みながらも本名を使って生活していた私に、「愛してるって韓国語でどういうの」と複数の女性から同時に質問を受けたのです。始めは何のことだかさっぱりわかりませんでしたが、それはヨン様ファンの質問だったのです。韓流ブーム以前、海外へ出かけるときは隠すようにして持っていた韓国籍のパスポートは「あのヨン様と同じパスポートだ」ということで女性たちの憧れの的となり、私のこれまでの言いようのない劣等感は何だったのだろうと、少しだけ嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりました。その陰で、この韓流ブームに冷ややかなのは同化した在日です。不思議なことに、親戚の集まりでヨン様の話題は出てきません。
 私は、かいつまんでお書きした私の経験から、ぜひ一緒に考えたいことがあります。お金持ちになることは、非常に難しい。苦労してお金持ちになっても、出自を隠して家族や親族とのつながりをなくしてしまうと、結果として大切な心を失うことになります。どうか、国際医療を目指す前に、バルアさんの言われた「金持ちより心持ちに」を、皆さん自身の問題として考えてみてください。そして、国際医療の前線で働くときには、「日本という国は、たくさんのお金とたくさんのよい心を持っている」と現地に伝わるよう、努力していかなければなりません。
 
 
マニラ発ボストン経由
7期生 江副 聡
 2000年の夏、国際保健協力フィールドワークフェロー・シップ(以下、笹川フェロー)のプログラムを終え、マニラ発東京行きの機上でいだいた心境を今でも覚えています。マニラに持ってきてしまった進路への迷いは、あたかもフィリピンの熱帯夜に溶けていったかのようで、清々しく落ち着いた気持ちで帰国したことを覚えています。今思えば、それは、おぼろげながら自分が進むべき道の入り口が見えた安堵とそこに入る覚悟が混ざったものだったのかもしれません。臨床研修の後、その気持ちに従って行政の門を叩き、夢中でやってきましたが、原点には今でもその気持ちが残っている気がします。
 まだ、模索中の身ですが、光栄にもご依頼をいただきましたので、現在の生活を中心にご報告させていただきます。試行錯誤の過程が何かの参考になれば幸いです。
 今、私は米国ハーバード大学公衆衛生大学院(Harvard School of Public Health: HSPH)*の公衆衛生学修士(Master of Public Health: MPH)課程で医療政策を中心に勉強しています。所属元の厚生労働省からの留学で、課題に追われながらも充実した日々を送っています。HSPHは、疫学、生物統計学、環境保健学、医療政策・管理学、国際保健学、社会人間開発学などの学部に、約900人の学生、リサーチフェローや約300人の教員を擁しています。学生は、博士課程(PhD・SD)、理学修士課程(Master of Science: MS)、MPH課程に在籍しています。PhD、SDやMSでは、研究スキルの修得を主眼に一つの領域を深く学ぶのに対し、MPHは医師や弁護士などの専門職を対象に公衆衛生の実践的スキルの修得を主眼にしていて、卒業生の多くは臨床や行政、国際機関などの現場に戻っていきます。MPHの必要単位の約半分は必修で、倫理学、疫学、生物統計学、環境保健、医療政策管理学、行動科学それぞれから受講します。残りの半分は自由に選択できます。
 さて、留学に当たっては、他国との比較を通じて日本の医療政策を相対化し、参考になるものは持ち帰り、日本の経験で他国の教訓となるものは紹介することを基本目標としています。
 他国との比較に関して、米国医療については、無保険者に代表される不平等なアクセスや医療費の高騰など影の面と、医学研究・教育など光の面が断片的に日本と比較されることが少なくないと業務を通じて感じていました。このため、市場の失敗という反面教師、自由競争における多様な試みに潜む卓越例などに学びつつ、歴史的、政治的、文化的背景を踏まえた米国医療の全体像に迫れればと思っています。
 米国を含めた世界的な医療制度の比較については、例えば、世界のヘルス・セクター・リフォーム/医療制度改革をテーマとした講義において、教授陣が世界銀行と開発した分析枠組みを用いて日本の医療制度を分析したのですが、日本に特有と思われている問題の多くが世界共通の問題であることに気付かされました。例えば、医療財政の制度を構想する場合、社会保険、税、医療貯蓄口座(Medical Saving Account)、民間保険、自己負担の選択肢から各国の文脈に応じてベストミックスを模索すべく事例研究が成されたのですが、この中で、社会保険制度の構築を目指す各国の取り組みは、日本が1961年に国民皆保険を達成した道程そのものといっても過言ではありません。日本の医療保険制度については時代に応じた制度の見直しが不可欠とはいえ、そのコンセプト自体は「世界もうらやむ」制度であることを実感しました。このように、世界各地の事例に通じた教授や各国の医療関係者、政策担当者であるクラスメイトと議論することで、肌で日本の位置付けを掴むことができるのも留学の魅力だと感じています。こうした議論の中から、日本へのヒントを抽出し、持ち帰ることができれば、と考えています。
 日本の紹介については、ヘルスの分野で日本がいかに注目されているか、折に触れて感じています。入学初日を例にとっても、学長の訓示において、日本の平均余命が取りざたされましたし、同じ日のリーダーシップ論の講義では、トヨタを例に日本の製造業のマネージメントが賞賛されていました。その他の講義でも、低い医療費で比較的平等なアクセスと良好な健康指標を達成した-the Japanese Health System-が注目される場面は少なくありません。
 一方、日本の医療政策の詳細については、「興味はあるものの、英文での発信が少ないため分析できない」、というある教授のコメントに代表されるように実態が十分理解されているとはいい難いことから、英語による世界的議論の俎上に乗せていく必要性を痛感しています。そういった趣旨から、日本人学生を中心に、(1)Seminar Series、(2)Japan Tripといった企画を検討しています。
(1)Seminar Seriesについては、日本の医療政策を紹介するため、知日家の教授、学生や日本人学生によりシリーズでHSPH全体を対象にセミナーを開催しているところです。これまでに、日系の教授で社会疫学の一人者であるIchiro Kawachi先生に"The mystery of Japanese longevity"と題して、また、日本での医学教育の経験があるMGHの医師に"Perspectives on Japanese Clinical Medicine from a US Physician"と題して講演いただき、好評をいただいたところです。今後、日米の比較医療システム等について順次開催する予定です。
(2)Japan Tripについては、2006年の3月下旬の春休みを利用して、HSPHの有志学生約40名を日本に連れて行き、日本の保健医療への見識を深めていただくといった目的で、日本研修を企画しています。約1週間の日程ですが、東京では、医療機関、行政機関への訪問、地下鉄サリン事件の学習、学校給食の体験など、名古屋ではトヨタにおける品質管理、京都では学生との懇談やヘルス関連企業の見学、そのほか、広島での平和学習、神戸での震災の学習、また文化や日常生活の体験など、日本の保健医療ひいては日本そのものをよりよく理解いただくために、企画を練っているところです。
 以上、ありのままの留学生活をご紹介しましたが、授業になんとかついていきながら試行錯誤を繰り返しているというのが実態です。そんなとき、笹川フェローで出会った仲間とのやりとりや、フィリピンや国内研修でお会いした方々の爽やかな情熱、そして、フィリピンからの帰路にいだいた心境を想い出しては、励みにしています。また、常に念頭にある言葉に、指導専門家のバルア先生からいただいた次の言葉があります。
 
"It is better to travel than to arrive".
 
 これからも、保健医療を通じて人々の幸せを目指す終わり無き旅を地道に続けていく所存です。旅の道標をいただいた笹川フェロー、そして関係者の皆様に深く感謝し、笹川フェローの益々のご発展をお祈りしつつ、ご報告とさせていただきます。
 
* HSPHについては、下記をご参照ください。
日本人会HP http://hsph.jp/about.htm


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