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表紙説明◎名詩の周辺
偶成―横井小楠
熊本・熊本市沼山津(ぬやまず)
 五月五日の「子どもの日」の恒例行事となっている全国名流吟剣詩舞道大会が、今年は、熊本市の熊本市民会館大ホールで行なわれました。内容は四部構成でその第四部には、企画構成番組「経国安民の大業」と題して、熊本人の誇りである横井小楠の維新の旅が今回はとりあげられました。
 横井小楠は、幕末の思想家、儒者で、水戸藩の藤田東湖、松代藩の佐久間象山とともに、明治維新を招来した実践的思想家として「幕末の三傑」と呼ばれたほどの人物です。
 そこで、名流大会の翌日、少し時間を割いて熊本市郊外の沼山津にある横井小楠の旧居「四時軒」と、「横井小楠記念館」を改めて訪れてみました。
 市内からバスで約四十分、閑静な住宅地の中にある「四時軒」は熊本市有形文化財、「四時軒跡」は指定史跡となっており、「横井小楠記念館」とともに熊本市教育委員会の所管となっています。
 
 
 当時はのどかな田園風景の広がる中にあったと思われますが、現在も「四時軒」の客間からは秋津川の流れや飯田山などが眺められ、坂本龍馬が小楠と会談したという場所に坐ってみると、思わず幕末にタイムスリップしたかのような錯覚におそわれました。
 
四時軒の客間。この部屋で小楠は勝海舟の使いで訪れた坂本龍馬と会談した(龍馬が坐ったのは写真向って左側)
 
 横井小楠は、文化六年(一八〇九)肥後藩横井時直の次男として能本城下内坪井に生まれ、名は時存(ときより)、通称平四郎、号は小楠と称しました(他に異名もあり)。天保十年(一八三九)、三十一歳の時、江戸昌平黌に遊学し、水戸藩の藩儒、藤田東湖らと交わって帰藩、熊本藩儒となり、改革派の実学党を結成し藩政改革を推進しようとしましたが失敗。小楠の甚だ聡明・英傑でしかも鋭い卓見は、人々に大いに感銘を与えましたが、一方では反感を持たせることともなり、誤解されることもあったようです。
 しかし、五十のとき、沼山津にあった小楠は、賢君の誉れの高い福井藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)に師弟の礼をもって福井に招聘され、政治顧問となって藩政改革を指導しました。その後、幕府、ついで維新政府でも活躍する場を与えられたことが、小楠の実力のほどを何よりも雄弁に物語っています。
 明治元年、小楠は新政府の参与に任命されて上洛し、太政官から帰宅中、京都丸太町で、保守攘夷派刺客により暗殺されました。享年六十一歳。
 それでも幕末有為の人々に与えた小楠の感化は高く評価され、その遺徳はいまもしのばれています。
 
【四時軒・横井小楠記念館】熊本市交通センターより秋津行きバス乗車約40分。秋津小楠記念館前下車、徒歩約3分。
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第22回
文学博士 榊原静山
江戸時代の展望―(一六〇〇〜一八六七)―【その二】
 徳川幕府の政治の中で、後世まで残しているのは鎖国政策であろう。そのあらわれとして、キリシタンを弾圧し、千六百二十二年(元和八年)には外国人宣教師や、日本人信者ら五十五名を処刑した。次々にキリスト教信者の発見のために懸賞つきの密告を奨励し、また板にキリストや聖母マリアの像を描いてこれを踏ませて信者であるかないかを試す方法などを考え、少しでもキリストを信ずる者はびしびし処刑した。
 
踏み絵によるキリシタン改め
 
 しかし、信者は、押えれば押えるほど強くなるもので、そのあらわれが島原の乱である。
 千六百三十七年(寛永十四年)九州の島原や天草の農民たちが、きびしい年貢の取りたてや、領主の圧制に反抗して起こした一揆、それが島原の乱である。この一揆は、天草四郎時貞(奇跡の英雄)という少年を奉じてからは宗教軍になり、老若男女合わせて二万五千という大部隊になって、島原半島の原の城に立てごもり、非常に強力になっていった。
 幕府は老中の松平伊豆守信綱を総大将にして、十二万五千の大軍で原の城を十重、二十重に包囲した。けれどもなかなか落とすことができず、二ヵ月後に食糧が欠亡し、信徒らは刀折れ矢尽きて、殉教の光栄を信じつつ全員昇天してしまったのである。
 このように部分的なマイナスは別として、飛鳥朝から桃山時代まで、常に日本は大陸の先進国中国やインドをはじめ、南方の国からさまざまな文物を輸入して、それを消化し日本化して日本という国の文化を築きながら進んできたものが、徳川時代から鎖国という殻の中に縮まったままで世界の文化からとり残されてしまったといえる。いいかえれば、この江戸時代の文化は、何といってもスケールが小さく、島国的なものであった。
 それは音楽にしても、舞踊にしても、庶民階級の中で育った三味線中心の単調なものになり、舞踊も歌舞伎おどりといった特殊な形のものに発展する結果になっている。
 もしも徳川幕府が鎖国政策をとらなかったら、おそらくわが国の音楽は、もっと大がかりな、東洋的な大交響楽になっていたことであろう。舞踊もまた、かなり異なった国際性のある形になっていったことであろう。
 このように巧みに武力を押え、鎖国によって平和な社会を保持しつづけた幕府は、文教政策では儒教の思想をとりいれたことにも注目せねばならない。家康自身、日本朱子学(中国の朱熹の主張した学問)の大家藤原惺窩の教えを受けたこともあったので、その門人林羅山を幕府の儒官に登用している。
 羅山は将軍家綱の代まで四代の将軍に仕え、さらにその子林鵞峰(一六一八〜一六八〇)、孫の林鳳岡(一六四四一〜一七三二)も代々儒官をつとめている。五代将軍綱吉はさらに鳳岡を大学頭にして、湯島の昌平橋に孔子の廟とともに昌平坂学問所を建てている。これがいわゆる官立大学の最初の学校であった。この昌平黌は今もお茶の水の聖橋のたもとに現存している。
 また藤原惺窩門下から林羅山の他に松永天五、石川丈山、木下順庵、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、三宅観瀾、園南海などの人々が朱子学派として活躍している(これらの人々の中で、漢詩学者達については後述する)。
 
藤原惺窩
 
石川丈山
 
中江藤樹
 
 この朱子学とは別に、中江藤樹が出て、王陽明の知行合一を説く陽明学を広めた。熊沢蕃山や、天保の飢饉の時、私財を投じて難民を救済し、役人官僚に対して暴動を興した大塩平八郎中斉など、いずれも陽明学派の人である。


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