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(4)唐人の漂着と運天港
 1741年、奄美大島に暴風で破損した唐船が漂着するという事件があった。唐船は修理のため翌年運天に回送され、53名の唐人が二ヶ月ほど、運天の番所屋敷内に作られた小屋に収容された。
 当時の琉球王国は薩摩(日本)と中国の双方に属しており、日本の支配下にあることが中国側に知られないよう薩摩によって厳しく申し渡されていた。唐人収容に関して蔡温はじめ首里のトップクラスの役人の動きがあり、次のような「覚」の達しが出されている。
 
唐人収容の様子(運天)
 
唐人が収容された小屋
 
一、唐人の囲いに近寄ってはならない
一、女性は近くを通ってはならない
一、大和年号や大和人の名字や京銭(寛永通宝)や斗マスなどを、唐人に見せてはならない。
附、ここではどんなお金を使っているのかと尋ねられたら、鳩目銭を使っていると答えること
一、村の中で大和歌を歌ってはならない
一、唐人の滞在中、薩摩の掲示板を立ててはならない
一、勤番の家、並びに村中の民家は火の用心を、特別念入りに行うこと
右の通達について固く申し付ける
正月廿八日
 
(5)歴史を秘めた運天港
 今でこそ小さな漁港に過ぎない運天港だが、既に500年ほど前から「重要な港」として東アジアに知られ、様々な記録に登場する。運天港と密接な関わりのあるテーマとして、
・源為朝の運天漂着
・おもろさうしに謡われた運天港
・『海東諸国紀』「琉球国之図」
・百按司墓
・大北墓
・大和墓
・薩摩軍の琉球侵攻
・今帰仁間切番所と運天在藩
・フランス船の来航とオランダ墓
・上杉県令運天を巡回
・笹森儀助、菊池幽芳、運天を訪問
等が挙げられるが、「運天の歴史」をひもとくことは「琉球の歴史」をひもとくことでもある。
 
運天港の様子
 
古い地名が記された『海東諸国紀』「琉球国之図」


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