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山原の津(港)と山原船の展示
(1)展示の概要
 山原において村数ほどの津や江があるのは「陸の孤島」と呼ばれるムラもあるほど陸路が不便で、海上輸送に頼らざるを得なかったためである。人々はそのムラで生まれ育ち、骨を埋めていくのが一般的であった。首里・那覇に行けたのは限られた人達であった。明治になり、さらに大正になると郡道が整備され、車の出現で輸送は海上から陸上へと移り、人々の動きや流れも大きく変わる。展示会「山原の津(港)と山原船」は、山原の村々を山原船と津(港)の視点で深めて行く研究である。
 
現在の山原の港
 
展示の導入部分
 
(2)異国人が見た山原
 1800年代の半ばをピークとして半世紀の間に、琉球には実に70隻以上の異国船(イギリス・アメリカ・フランスなど)が来航した。当初はキリスト教の布教や探検測量などといった目的であったが、後には産業革命によって得た武力を盾とした通商貿易が目的となっていく。『球陽』にはそれらの事件が記録されているが、「異国人」が残した記録として1816年に来航したイギリスのバジル・ホールの『大琉球島探検航海記』、1852年来琉のペリー提督が監修した『日本遠征記』などがある。このような記録の中に、異国人の見た山原の姿をうかがうことができる。
 
 「(古宇利島から羽地内海への)水路を通りぬけると、半径が半マイル以上もある丸い入り江があった。ここは水深が深く、あらゆる方向の風から守られている。西側の浜には、ほとんど樹木に埋れた大きな美しい村が見えた・・・東側の浜は低地で、塩田が作られ、そこここに小屋が散在していた」
(バジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』)
 
 「・・・3、40トン位ある二本の帆柱のジャンクが、その近所の入り江に碇泊していた。我々は今やバロウ湾(注:金湾)の北端に近づいていたのである。そして同湾の南にある長い半島と、同湾の湾口に防波堤のように横たわっている四つの島とを完全に眺めることができた。同湾はその入口を除けば極めて浅いらしかった。大型の船を碇泊させる港として大いに価値があるかどうかは疑わしい・・・」
(『ペリー提督 日本遠征紀』)
 
(3)近世の烽火制度
 1644年、唐船や異国船の来航を知らせるため、本島および離島の各地に烽火台(遠見台)が設けられた。例えば久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・伊是名などの島々である。遠見台で監視・通報の役にあたる遠見番は対外政策上もっとも重要な役職の一つで、特に国頭地方や宮古・八重山地方は地理的理由からも数多くの遠見台が設置された。
 
古宇利島にも遠見台が設置される


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