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「海を護る」概念の実現に向けた能力構築
Sam Bateman
ウーロンゴン大学海洋政策センター教授
 
提言の概要
 現在、海上安全保障の維持、海洋環境の保護の実現に必要な効果的な取り決めや能力が地域・国家に欠けている。現在の弱点として考えられるのは、政治的・社会的な意志がないこと、海の問題に関する認識の欠如、海洋の管轄権および執行に関する無意味な取り決め、海洋法条約の異なる解釈、国際法実施のための手段導入に消極的な地域、および海洋関連の安全保障確保のために適切な対策を講じる能力の欠如などである。これらの弱点は、国家レベル、地域レベルの両方で見受けられる。
 
 国家レベルでは、多くの国が、管轄区域内において海上安全保障の確保および国際基準への準拠を実施する能力が不足している。海上安全保障に関する新しい国際法は、通常、先進国に有利な配慮がされているため、貧困軽減や開発などの優先事項を持つ可能性のある発展途上国にとっては準拠することが困難な場合が多い。
 
 地域レベルでは、海上安全保障を確保するための情報交換や運用調整を実行する手段と枠組みが確立されていない。特に、近隣諸国間、沿岸国間での管轄水域を船舶航行や貿易に利用する国家の間で、協力体制を築くための調整手段が欠如している。
 
 先進国は、発展途上国が海上安全保障の脅威に対処する能力を構築できるよう支援する必要がある。しかしながら、発展途上国はそのような支援を受けることによって、国家主権および国家の独立性を喪失する可能性と、先進国や協力関係にある主要提携国の利益を優先事項に据えなければならない従属関係が生まれる可能性を懸念している。
 
 本論文で言及する「能力」に含まれる事項を次に挙げる。
 
・制度的な取り決め:国家レベルでは、海上安全保障に携わる政府機関の間で確立された業務分担、意志決定の方法、および政府機関内の調整のために合意に基づいて決められた手段を意味し、これらには指揮統制、通信、コンピューター、監視、諜報機関が含まれる。2国間および多国間のレベルでは、情報共有、運用調整および状況把握のための働きかけを意味する。
 
・法的な枠組み:海上安全保障への脅威の対処方法を含むだけでなく、関連する国際条約を施行する国内法が必要とされている。地域レベルでは、地域ごとに異なる法制度の許容範囲内で海事法に準拠すべきである。また、地域および準地域からの協力を得るために、これらの地域が結んでいる協定を考慮に入れることも可能である。この場合、海上安全保障の脅威に対処する地域の能力を制約している原因を取り除く地域協定も考慮に入れるべきである。
 
・リソース:海上安全保障には、財政的、物質的(船舶、航空機、C4SIシステム)および人的なリソースが必要である。協同訓練や教育プログラムは、国家・地域の両レベルの協調体制を促進する環境を生み出す重要な手段である。
 
 海上安全保障を確保する国家能力が増せば、政治的、社会的な意志が生まれると同時に、海上安全保障の確保に不可欠な制度的取り決めや法的枠組みの構築も促されることになるだろう。本論文では、現在置かれている状況を踏まえ、国家が海上安全保障を維持し、海洋環境および海洋資源を包括的な方法で保護する能力を構築するための提言を行う。
 
「海を護る」概念の実現に向けた能力構築
Sam Bateman*
ウーロンゴン大学海洋政策センター教授
 
はじめに
 「海を護る」の概念は、海洋における包括的な安全保障原則の適用を目指すものである。海洋環境保護と海の平和的利用を視野に入れた統合的なシステムで、海における法秩序や海運・海上貿易の安全・保安をも規定する。この概念の焦点であるマラッカ海峡と南シナ海、そしてインドネシアとフィリピンの群島水域には、日本と他の東アジア諸国の双方にとって重要な海上交通路があり、環境問題や資源の問題に悩まされている。具体的には、一連の東アジア半閉鎖海1、カムチャッカ半島から北オーストラリアにまで伸びる一連の群島、そして西太平洋とインド洋からこの地域に通じる水路であり、そのほとんどは沿岸/群島国家の排他的経済水域(EEZ)か群島水域の中にある。本論文では、この地理的に複雑な地域における海洋安全保障上の重要な問題について論じる。つまり、同地域の国々のほとんどは自分たちの水域で海の安全を保障する力を欠いており、ましてやその安全保障に向けて他国と効率よく協力することもできない。
 
海洋レジームの構築
 海洋環境のあらゆる観点を包括する新しい海の安全保障概念について語る場合、具体的に論題となるのは、東アジア海域とより広範な西太平洋のための新しい海洋レジームである。国際安全保障研究の分野で著名な英国の学者Michael Leifer氏は1991年に、東アジアにおける海洋レジーム構築の重要性に関して、影響力を与える論文を執筆した2。それは、自由で途絶えることのない海上貿易の流れを確保し、それぞれの国が合意された国際法の原則に則り、対立や衝突を起こさずに海の利益を追求し、海洋資源を管理することのできる、安定した海洋レジームの理想を提唱するものだった。
 
 それから13年ほどたった今なお、安定した海洋レジームというLeifer氏の理想にはほど遠い状態にある。東アジア地域ではある程度混乱が広がっている。すなわち、規制されていない海洋環境汚染、魚の乱獲、海洋環境の劣化、海賊や密輸、海上テロの脅威といった横行する海上での違法行為などである。東アジアでは海洋に関係する協力関係が未発達であり、Mark Valencia氏が指摘したとおり、同地域には「堅固な多国間海洋レジームの欠如」がある3。今回の会議のテーマである新しい海洋安全保障の概念「海を護る」は、Leifer氏の理想に沿って安定した海洋レジームを東アジアに定着させるための主導的取り組みである。
 
* Dr Sam Bateman is a Senior Fellow and Adviser to the Maritime Security Programme at the Institute of Defence and Strategic Studies in Singapore and a Professorial Research Fellow at the Centre for Maritime Policy, University of Wollongong, NSW 2522, Australia (email address: sbateman@uow.edu.au)
 
1 1982年国連海洋法条約(UNCLOS)第122条が定める閉鎖/半閉鎖海。この定義に当てはまる東アジアの海域には次のものがある(北から南の順):オホーツク海、日本海(南北朝鮮にとっての東海)、黄海、東シナ海、南シナ海、タイ湾、スールー海、セレベス海、ティモール海とアラフラ海、アンダマン海。
2 Michael Leifer, "The Maritime Regime and Regional Security in East Asia", The Pacific Review, Vol.4, No.2, 1991, pp.126-136.
3 Mark J. Valencia, "Regional Maritime Regime Building: Prospects in Northeast and Southeast Asia", Ocean Development and International Law, Vol.31, 2000, pp.241.
 
 1982年国連海洋法条約(UNCLOS)により、国家の権利と義務に基づく海洋管理の制度が創設された。この海洋管理の制度は、閉鎖海または半閉鎖海にとって必須であり、UNCLOS第123条では、閉鎖海または半閉鎖海に面した国々が、海洋環境の保護・保全や共同科学調査プログラムの実施など、これらの海域での権利を行使し、義務を履行するに当たって協力することを義務づけている。このUNCLOS第123条は、「海を護る」が構想する協力をとりまとめる「傘」として機能するかもしれない。しかし東アジア海域では今のところ、海洋の管轄権に対する重複した請求やほとんど合意されていない海洋境界画定、自国の私利を優先させる国々を背景に、UNCLOSの海洋管理制度は実効的ではない。この地域では、海洋の管轄権が海洋政策上の対立要因となっているのだ。隣接する海洋の管轄権の境界について合意が得られない限り、海事関係法の執行、とくに閉鎖海または半閉鎖海における海事関係法執行と海の安全保障は危ぶまれる。管轄権で合意が得られなければ海の安全保障は妨げられ、海上執行は厄介なものとなり、海洋環境は野放しのまま劣化し、海上テロなどの海上での違法行為を助長する。
 
 この地域は今のところ、海の安全を維持し海洋環境を保護する概念の実現に向けて、実効的な調整やしかるべき能力を欠いている。政治的・社会的意志の欠如、海洋に対する意識の欠如、海上の管轄権・執行に関する実効的でない調整、海洋法に対する解釈の相違、関係する国際条約への地域参加の弱さ、海洋環境の安全を確保する適切な措置を実施する能力の欠如など、国家レベルと地域レベルの両方で数々の弱みを抱えている。
 
 国家レベルで見た場合、同地域の国々の多くは自らの管轄下の水域の安全を確実に保証し、国際基準を実施する能力を欠いている。海洋の安全保障に関する新しい国際的措置は、概して先進国にとって有利で、貧困緩和や開発といった優先課題を抱えているような途上国の能力では困難である。途上国は国際レベルで整備された法制度の実施にあたって特別な困難に直面している。国際環境管理の分野にはかねてより「地球的視野で考え、地域レベルで行動する」という格言がある。他の分野における国際レジームの構築がそうであるように、海洋の安全保障についても、地球レベルの発想は概ねできており、これからはその原理を地域・国家レベルで適用する段階にあるのだ。地球レベルでなすべきことについてアイデアを出しあうのは決して難しくないが、それよりも遥かに難しいのは、そのアイデアを地域・国家レベルで機能させることなのである。
 
 地域レベルで見ると、情報交換や海洋安全保障に向けて調整を図るための手続や枠組みが確立されていない。とくに隣国間の協力、さらに沿岸諸国と、沿岸国の管轄下にある水域で船舶を通航させ貿易を営むいわゆる「利用国」との協力を図るための合意が確立されていない。国家レベルと地域レベルの両方で能力を構築することが、「海を護る」の実現に向けての大切な第一歩となるだろう。
 
能力とは?
 途上国は、海洋安全保障のための能力開発にあたって多大な困難に直面している。能力構築については、アジェンダ21の第37章にそのプロセスが記載されている4。これは海洋環境とその資源の管理・保護能力に関するものだが、海洋安全保障をはじめとする他の海洋管理分野のための能力構築にまで拡大できるだろう。
 能力構築には具体的に、国家の人材能力、科学力、技術力、組織的能力、制度上の能力、資源の能力など含まれる。能力構築の基本目標は、政策の選択と実施のあり方に関係する重大問題を、環境が持つ可能性と限界、そして関係国の人々にとってのニーズを踏まえながら評価し、対処する力を高めることである。5
 
 途上国における能力構築には、途上国間の協力はもちろんのこと、途上国と関係国際機関、地域組織、そして先進国との間の協力が求められる。その目的は、データと情報、科学的・技術的手段、そして人材開発の諸分野で途上国の能力を高めることである。能力には普通、少なくとも3つの要素、すなわち人材と制度と実現環境があると考えられる。技術協力はもちろんのこと、しかるべき教育と訓練を受け技能を身につけた人材を用意することも大切だが、能力構築とは単なるトレーニング以上のものを意味する。アジェンダ21の第37章は次のように続く。
 技術移転やノウハウに関係する協力など、技術協力には個人や集団の能力・手腕を開発/強化するありとあらゆる活動が含まれる。
 
「海を護る」のもと、包括的な海洋安全保障で能力構築が求められる局面には次のものがあげられる。
・海賊行為、海上テロ行為、麻薬取引、密入国、ならびに船舶に起因する海洋汚染の抑制・防止を含む、海における法秩序の維持
・同地域を通過する国際的海運業・海上貿易の保全と安全
・捜索・救助作業、自然災害の軽減・緩和、災害救助、救援協調センター、衛星遭難システム、気象通報、海上航行支援・業務、海洋安全通信を含む、海洋保安業務の提供
・海洋汚染の防止・対処、海洋環境モニタリング、種の保存、敏感海域および海上公園の調査を含む、海洋環境保護
・地域の状況を把握するための海洋調査・情報共有。「海を護る」が対象とする区域で生じる諸々の活動の実態をつかむ。
 
4 UN Conference on Environment and Development (UNCED), Chapter 17: Protection of the Oceans, All Kinds of Seas, Including Enclosed and Semi-enclosed Seas, and Coastal Areas and the Protection, Rational Use and Development of their Living Resources. In Agenda 21, UN Conference on Environment and Development, Rio de Janiero (3 - 14 June 1992)
5 同章、第37.1項


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