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表紙説明◎名詩の周辺
壇の浦夜泊―木下犀潭 作
山口・下関市
 江戸時代「赤間関」と呼ばれた下関市は、本州の最西端に位置し、関門海峡を隔てて九州と接する内外交通の要衝です。往時は韓国・中国など大陸交通の玄関口でもあり、大陸の経済や文化は、この地を通って全国に伝えられました。
 また、古くは神功皇后の外征基地、平家滅亡の哀話をとどめる源平合戦の地、幕末の馬関戦争等々、下関は歴史の大きな節目に必ず登場してくる重要な場所でもあるのです。
 その下関が今年、また大きくクローズアップされようとしています。NHKの今年の大河ドラマ『義経』のクライマックスである「壇之浦の戦い」は下関市の壇之浦が舞台。その古戦場跡には昨年末(平成十六年十二月十二日)一般から公募したイメージをもとに源義経と平家の大将平知盛の像が新しく作られ、「壇の浦古戦場址」の碑もリニューアルされました。
 
 
 治承四年(一一八〇)に源頼朝が平家打倒の兵をあげて以来、五年にわたる源平の戦いは、寿永四年(一一八五)三月二十四日、わずか八歳の幼帝安徳天皇が入水して、戦いは終息しました。安徳天皇は、壇之浦を望む阿弥陀寺の養和陵に葬られましたが、明治維新の神仏分離で阿弥陀寺は廃され、赤間宮と改められました。
 赤間神宮のシンボルともいえる「水天門」は朱塗の赤の色が鮮やかな竜宮造りで、これは「海の中にも都はある」という二位の尼の願いを映したものといわれています。また水天門の呼び名は、“安徳帝の玉体は水底に沈んだが、御霊は天上にある”を表したものとされています。
 境内には、安徳天皇の御陵や平家一門の墓である七盛塚があり、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「怪談」で有名な「耳なし芳一」の芳一堂、そして、貴重な資料を展示した宝物殿等があります。
 この詩は、作者が旅の途次、船をとどめて昔日を想っているもので、壇の浦を題材としたものは他にも、伊形霊雨の「赤馬が関舟中の作」や菅茶山の「赤馬が関懐古」、村上仏山の「壇の浦を過ぐ」等、数多くあります。
 
【壇の浦古戦場址】JR下関駅からバス約12分「みもすそ川」下車すぐ。
【赤間神社・安徳天皇陵】JR下関駅からバス約10分「赤間神宮前」下車すぐ。
 
壇の浦古戦場址に義経像と共に作られた平家の大将平知盛の像
 
みもすそ川公園には壇之浦の源平合戦の模様を伝える紙芝居も出ていた
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第19回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町、桃山時代の詩壇【その三】
釈 寂室(一二九〇〜一三六七)鎌倉時代の臨西宗永源寺派の開祖になった人である。元に渡り、天目山の中峯に教えを受けている。当時天竜寺や建長寺などから招かれたが、すべて辞謝して夕山の住職にならず、永源寺で七十八歳で没している。
 
 
(語釈)間房・・・人の住まない空房。枯禅・・・すべてをすてて禅をすること。
(通釈)この空室を借りて住むこと一年、その間、嶺にかかる雲、渓に写す月に坐禅を伴うだけである。さて明朝はこの山を辞して巌前の路を下るのであるが、別に目的があるわけではない、こんどは何処の山の石上に眠ることになるのやら――。
 
釈 中巌(一三〇〇〜一三七五)南北朝期の高僧である。上総の吉祥寺の開山であるが、元に渡り各地の英僧を歴訪している。京都、鎌倉の名刹を歴任して、天授元年七十六歳で示寂している。次にあげる“金陵懐古”は中国の金陵(今の南京)へ行った時のことを想って作った詩である。
 
 
(語釈)六朝・・・金陵を都にした六つの王朝、呉、東晋、宋、斉、梁、陳のこと。金華旧址・・・金華宮の古い址のこと(また金陵の東の紫金山と南にある雨華台ともいう)。商漁宅・・・漁夫の家もある商店街。玉樹・・・美しい樹。樵牧歌・・・樵や牧童の歌。
(通釈)人も物もうつり変わったが大地は磨滅することなく存在している。金陵は六朝の都であったが、六朝は次々に滅びてしまった。山や河は依然として昔の姿をとどめている。紫金山や雨華台の古い史蹟が今は商人や漁夫の住まいになり、昔王宮の玉樹が宮中の歌曲を聞いたであろうが、今は樵や牧童の歌となっている。周囲の山々の雲が連なって雨を呼んでおり、大江には風はなくても波がたっている。その昔、佳麗を極めた美しい姿は今はどこにもない。はるばる日本から来た遠客の目は蒼茫とかすんだこの旧都の風景に接して、無限の感慨を催さずにはおかない。
 ――これら僧門の詩人の他に戦乱の世の武将の中には、風流を心得た人も少なくはなく、今日もなお吟じられているものが多くある。
 その中で絶海とほぼ同じ時代で、“海南行”を詠じた細川頼之がいる。
 
細川頼之(一三二九〜一三九二)足利義満につくし室町幕府の基礎を作った人物。不幸にも一時義満に忌まれて讃岐へ移され、剃髪して常久と名を改めた。千三百九十一年に義満に召しかえされ、人々は彼の再起を望んだが翌くる年病のために没し、義満は彼の死を悼み、自から写経して葬ったといわれている。また“九月十三夜”霜は軍営に満ち、の詩で有名な上杉がいる。
 
上杉謙信
 
武田信玄
 
「決戦川中島の図」
 
(次号へ続く)


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