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吟剣詩舞
こんなこと知ってる?(9)
 昨年四月号から始まった新企画「吟剣詩舞こんなこと知ってる?」の九回目です。読者の皆さまと双方向で意見が交換できるコーナーとして設けております。
 吟剣詩舞の歴史、人物、身近な出来事など、読者の皆さまが驚くようなこと、是非、知らせたいことがありましたら財団事務局月刊誌係まで、ご寄稿をお願いいたします(形式は問いません。写真等も歓迎です)。
 今回は、一月号の本欄で本部事務局がお答えした『女性が吟詠する際の手の組み方』について、神奈川県の松島國舟さん(財団本部参与)から投稿をいただきましたので、二月号に引き続いてご紹介いたします。
 
神奈川県・松島國舟
千利休(せんのりきゅう)一五二一〜一五九一
 安土桃山時代の茶人。茶道の大成者。千家流の開祖。堺の生まれ。幼名は田中(別書に納屋)与四郎。のち宗易と号す。祖父は千阿弥、父は田中与兵衛。晩年は不審庵とも号した。初め茶の湯を北向道陳に学びのち堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し奥義を極めた。能阿弥系、珠光(じゅこう)系の両茶道を併せて利休流茶道を樹立した。ここに紹鴎が樹立した佗茶は利休によって大成され、書院式貴族的な茶に代わって草庵風平民的な佗茶が完成し、茶道を民衆の生活の中に根づかせた。茶禅一味の境地を望み、風流禅たる茶道は佗び、寂の芸術として形成されるに至った。
 初め織田信長に仕えて(茶湯の師匠として)五百石を受け、のち豊臣秀吉に仕え重用されて二千石を受け、一五八五年、秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ、天下一の茶人としての地位を確立し、八七年北野大茶湯を茶頭(総監督)となってつかさどった。
 九一年秀吉の怒りに触れ切腹を命じられ、翌年自刃した。大徳寺の山門に自分の木像を置いたなどとされているが、背景についてはもっと根深いものがあり、原因については定説がない。
*千宗淳(少庵)=安土桃山時代の茶人。千利休の次男。千宗旦の父。茶風は温柔で利休茶道の極意を伝え、不審庵二世を唱えた。
*千宗旦=利休切腹の際、会津若松の武将蒲生氏郷にかくまわれ、難を逃れる。利休の第二子宗淳。徳川の世になると千家再興を許され、六百石の扶持を与えられた。その子が宗旦で千家を継ぎ、茶禅一味を強く打ち出し、道具茶湯を排した。これは祖父利休の考え方を受け継いだもので、茶道の姿勢と千家の地歩を固めた。
*宗偏流=千宗旦の一番弟子、山田宗偏の流れをくんでいる。偏=行人編
*表千家=お手前は右手の所作(作法)なので右手を大事にする。
*大日本茶道学会=決まりはなくそれぞれの個性(くせ)があるのでそれを尊重しているようである。
*着物の襟合わせと同じように(右前=右の前みごろが左の前みごろの下になること)手を組むという考えもある。
*右は不浄なもの(をさわるから)だから左手で包みかくす。
*賞状や証書等を受け取る時も、右手は不浄だからと言って左手から先に出して受け取る。
*左は右よりも優位である。左大臣、右大臣他。座席でも左優位(左上)。舞台の上手、下手も同じ、上手来賓席に通ず。
*右手は利き手、すぐ使えるように。武士系の茶道。
以上


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