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'95剣詩舞の研究(十二)
石川 健次郎
演技者と演技法
 本稿では主に「剣詩舞コンクール」の課題曲にスポットを当てながら、その作品に対する詩文の解釈や舞踊表現についての構成・振付の考え方を述べてきたが、今回はそれらの作品を演じる演技者の一般的な心構えや演技法について述べ、コンクールや舞台出演のときの参考に供したいと思う。
 
コミュニケーションとしての舞踊
 ごく一般論として、舞踊を演じるということは、『この表現手段によって何が相手に伝えられるか』と云うことから話しを進めよう。参考のために、こうした表現手段については他にも「言葉で話す」とか、「文書に託す」とか云った方法が日常とられているが、この伝達手段のことを現代社会用語では“コミュニケーション”と呼んでいる。
 私達とかかわりの深い『詩吟』についても同様で“詩”を「吟じる」と云う伝達手段(コミュニケーション)で多くの聴衆に感銘を与えることが出来るのは、吟じると云う音楽的なコミュニケーションの優れた機能を示すものである。
 さて、それでは剣舞・詩舞などの舞踊が持つ伝達手段には如何なる利点があるのだろうか。舞踊、即ち舞台で動く人間の身振りは、常に観客の意識を引きつけ、同じ人間としての情感を刺激し、その動きの機能の中で、楽しみ、苦しみ、怒り等に関連した情緒や、それを取巻く自然界の情景、さらにそれらを総括した情報などを伝えることが出来るからである。
 或る有名な舞踊家の言葉だが、「もし私が思う意味を言葉で告げることが出来たならば、私は踊る必要がなくなるだろう」と云ったが、将に名言である。
 さてコミュニケーションに関連した用語では、伝達する側(演技者)を“送り手”と云い、観客側を“受け手”と呼ぶが、既に理解されたと思うが、送り手としての演技者の能力や、その演技法の優劣によって、その伝達された舞踊の内容には優劣の差がつくことは当然である。また受け手(観客)についても、彼等の理解力がそれに及ばなければ同じ様な結果になることは云うまでもない。
 
演技者の心得
 前項で述べたように、送り手と受け手のバランスも大切なことだが、剣詩舞の演技者が充実した舞台を踏むためには何をなすべきだろうか。ここでは主に送り手である演技者の心得るべきことや演技法を中心に話しを進めよう。
 
内容の理解
 何んと云っても演技者は自分が演じる作品の主題(テーマ)や構成を完全に知るべきである。
 卑近な例で恐縮だが、優秀なセールスマンは、自社の製品、例えば自動車の場合だと、その車が如何に他社のものより、性能、安全性、経済性などが優れていて、使い勝手が良いかを雄弁に説明する。
 さて剣詩舞の演技者の場合も、或る意味では観客に対してセールスマンの立場になるのだから、まずその舞踊作品を師匠から教えを受けるときに、振付の手順を習うことが第一かもしれないが、その振付の意味を充分に知る事が大切で、だからこうした振りが付けられているのだと云うことを熟知する必要がある。重ねて注意して欲しいのは、振付に対する理解であって、詩文の解釈だけで満足してはいけない。と云うのは剣詩舞の場合では、詩意がわかりやすい様に、詩文を他の言葉に置き換えて振付する場合が多くあるからである。
 一例だが今年の課題曲「法庫門営中の作」の場合、詩文の起承句の直釈と振付との偏差はかなり大きいと思う。
 
 
役の認識(1)
 絶句一題を剣詩舞で演じる場合、その作品が物語りになっているときなどは特に演技者は幾通りも役変りして、それぞれの役の心根(性根)に沿った演技をする必要がある。従って今自分が演じている振りの主人公は誰なのかと云うことをしっかりと認識しなければならない。例えば「常盤孤を抱くの図に題す」で役変りの例を挙げると、前奏から起承句にかけては、役は常盤で母親像が強調される。そして後半の転結句は立派に成長した義経に役変りするのが一般的で、(時には飽くまでも性根は常盤で、その願望の中に牛若の若武者像を優美に代演することもある)そして結句の最後から後奏にかけて、再び常盤の役に戻る。
 
役の認識(2)
 剣舞の場合は詩舞に比べて、詩文の置き替えと思われる振付が多い。剣技を優先させる芸能としては当然のことだが、こうした場合の演技者の役作りを考えてみよう。大鳥圭介作の「偶成」を例として分析すると、敵・味方の戦いを一人で演じ分ける場合、前奏から起句(水陸三千共に兵を進め)にかけて、例えば下手の仮想の敵から攻められて後ずさりして登場して来た兵士が、舞台中央で今度は上手から攻めてきた別の敵軍に漸られるシナリオに置き替えてみよう。演者は中央に登場した場合、上手の敵に気がついてからの手順として、姿の見えない上手の敵に振り返ってケサに漸って出る。仮想の敵は瞬間に身をかわしながら(従って兵士は一歩前にのめる)上半身が無防備になった兵士の面を打つ。兵士はひたいを割られて倒れる。舞台は兵士の一人芝居で“仕かけた”側が、次に相手の仕かけを“受け”の形で手負いを見せた例だが、このような相手の剣技を計算に入れた、“相手が見える”役作りも、重要な役の認識である。
 
具象と抽象の区別
 剣詩舞の舞踊表現には人物描写以外の事柄も多い。人間の動作は殆ど具体的な表現だが、風が吹くとか花が散る−とか云った情景の表現技法になると、例えば扇を使った身体全体の動きが、“風”を表わす。この種の振付は勿論抽象的であり、演技者の役は無性格である。しかし少々高級な技術として“花が散る”情景を表現する場合、演技者の花を見る目や表情は具象だが、同時に扇を使って表現する散る花の動きは抽象になると云ったケースもある。このように演技者は自分が演ずる演技の区分けを、稽古の段階でしっかりと身につけて置きたい。
 
演技の味付け
 演技者の上手(じようず)下手(へた)のちがいはどこにあるのだろうか。剣詩舞の舞台を見ていて気の付いた二つの事柄を次に述べよう。
 その一つは演技者が振付に対して、神経の行き届いた細かい演技の味つけを見せてくれる場合である。いくらでも例はあるが、例えば「常盤孤を抱くの図に題す」の場合、前奏で幼児を抱いた常盤が笠(扇の見立)で雪をよけながら登場するが、笠の位置は自分の頭の上にせず、抱いている幼児に雪がかからぬよう気配りをして欲しい。即ち、凡ての行動が“何んのために”行われるかを考えれば、演技はひと味良くなるはずである。
 その二つ目は技巧(テクニック)に関することで、剣舞ならば見ごとな刀さばき、目にもとまらぬ必殺剣法。詩舞ならば、特に扇の扱いが可成りの練習を積まなければ出来ないと思われる要(かなめ)返しなど、与えられた振付をくり返しくり返し磨き上げることで、人間業(わざ)とは思えぬ見事な味つけをすることになる。
 このような演技の心得で観客が感動してくれたなら、その演技者は優れた剣詩舞家として評価されるであろう。


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