日本財団 図書館


第三章 弁才船からみた船絵馬
 船絵馬に描かれた船としては、国内海運の主力廻船であった弁才船が圧倒的に多い。弁才船が一七世紀前期の絵画に姿をとどめてから二〇世紀前期に姿を消すまでのおよそ三世紀の間、船体構造と艤装は基本的に同じとはいえ、さまざまに改良が加えられたし、外観も大きく変わった。
 船絵師の描写の正確さに加えて、現存数の多さは一等資料たる図面や雛形(ひながた)(模型)の比ではなく、しかも年代が明記されていることもあって、船絵馬が弁才船を研究する上で絶好の資料であることは改めて指摘するまでもない。しかし、船絵馬から見えない船体構造や舵の形状の変化などをうかがい知ることができないのはいたしかたないとしても、延享二年(一七四五)より古い弁才船の絵馬が現存しないことは、資料としての船絵馬の限界である。そこでまず弁才船の船体構造と一八世紀中期までの発達の経緯について手短に述べておこう。
 弁才船の船体は、航(かわら)と呼ぶ船底材の前後に水押(みよし)と称する船首材と戸立(とだて)という船尾板を組み合わせ、両舷に根棚(ねだな)・中棚(なかたな)・上棚(うわたな)の三枚の棚板(たないた)を重ね継ぎし、根棚に下船梁(したふなばり)、中棚に中船梁(なかふなばり)、上棚に上船梁(うわふなばり)を入れて補強している(図74)。この船体構造を棚板造りという。
 
図74 弁才船の船体構造 船の科学館蔵
 
 
 上船梁は、大船では、下貫木(したかんぬき)、二番船梁、三の間(さんのま)船梁、舳赤間(おもてあかま)船梁、赤間船梁、腰当(こしあて)船梁、切(きり)船梁、雇(やとい)船梁、轆轤座(ろくろざ)船梁、蹴上(けあげ)船梁、床(とこ)船梁の一一本が普通で、上棚の左右に突き出た上船梁の上面に台(だい)を組み合わせて、台の上に垣立(かきたつ)を建てる。垣立とは上廻りの舷側を構成する欄干(らんかん)状の舷墻(げんしょう)をいい、立(たつ)に筋(すじ)・雨押(あまおさえ)などの縦通材を組み合わせて造る。
 『厳島図屏風』など一七世紀前期の絵画に描かれた弁才船は、荷船だけに肩が広いことを除けば、外観は軍船の関船によく似ており、上廻りは関船と同じく舳(おもて)から艫(とも)まで垣立を通して立てる総矢倉(そうやぐら)形式をとっていた。しかし、遅くも一七世紀中期に弁才船独自の上廻り形式が確立される。万治四年(一六六一)の吉野金峯山寺の見事な大絵馬に描かれた弁才船(図7)を見ると、総矢倉形式を捨てて総矢倉を舳と艫にわけ、艫矢倉を居住兼作業区画とするとともに、舳の垣立を低くして矢倉板を取り払い、舳と艫の垣立の間に伝馬(てんま)船を搭載する伝馬込(てんまこみ)を設けている。ちなみに、伝馬込のない関船は伝馬船を曳航するか伴走させる。
 舳の垣立はさらに低くなり、金峯山寺に大絵馬が奉納されてほどなくして弁才船の垣立形式は完成する。延宝四年(一六七六)に岡山藩の船大工棟梁次田清左衛門が著した弁才船の木割書によれば、垣立の高さは、舳が二・五〜三尺(〇・七六〜〇・九一メートル)、艫が五・六〜六・四尺(一・七〜一・九メートル)で、一八世紀以降と大きな差はない。古い木割と当世風との喰違いが目立つため、新たに木割を定めたと清左衛門は記しているので、一七世紀後期が弁才船の近世的商船への転換期と考えていいだろう。元禄三年(一六九〇)から同五年まで出島のオランダ商館付医師をつとめたエンゲルベルト・ケンペルの描いた弁才船(図75)を見ると、金峯山寺の大絵馬の弁才船と違って、船首にも伝馬込があるので、荷を積んだ時には伝馬船を船首に置いていたに違いない。
 弁才船は船倉に荷物を積むほか、胴(どう)の間(ま)の甲板上にも山積みにするのが常である。胴の間の甲板は揚げ板式で水密性に欠けるため、垣立の立と立の間に差板を入れて波の打込みを防いでいた。けれども、差板は波によってしばしば打ち放たれるため、一八世紀中期までに上棚の上縁に矧付(はぎつけ)と称する舷側材を垣立の高さまで矧ぎ合わせるとともに、船首近くに合羽(かっぱ)(甲板とも書く)と呼ぶ水密甲板を張り、積荷のある時には伝馬船をこのうえに置くようになった。矧付と合羽が弁才船の耐航性を向上させたことはいうまでもない。
 このように一八世紀中期までに船体はさまざまに変化したが、帆柱にも変化が見られた。元来、帆柱は一木から作る一本柱であった。ところが、近世初頭以来の空前の材木需要は江戸開府後わずか数十年間で国内の天然林資源の大半を枯渇状態に追いこみ、一本柱に必要な大木を不足させた。その結果、杉の芯(しん)材に四方より檜の打物を打ちつけて、責込(せめこみ)と呼ぶ帯金を巻いて作る松明(たいまつ)柱が一八世紀前期に考案された。
 
図75 ケンペルの描いた弁才船 『日本誌』より
 
 一本柱と松明柱は責込の有無で簡単に区別がつく。これを念頭に置いて船絵馬を見ると、松明柱を立てる船はまれである。確かに、船は船主の威勢の指標ともなるので、必ずしも実用一点張りですむものではない。ために有力な船主ほど船材を吟味して船を造るのが常であって、あえて高価な一本柱を使うことも珍しくない。とはいえ、一本柱の負担に耐えられる船主ばかりではないし、また一本柱だけで需要をまかないきれたとは思えないから、船絵馬で一本柱の船がほとんどというのは現実離れしており、絵馬師は責込を往々にして省略したと考えざるをえない。責込は、嘉永四年(一八五一)の円満寺の絵馬(図29)のように船尾から見た絵馬にはまま描かれるが、標準形式の絵馬ではめったに描かれず、ましてや明治二六年(一八九三)に三木町(加賀市)の御木神社に奉納された難船絵馬(図76)のように責込を締めるくさびまで描いた絵馬は稀有である。
 以上が弁才船の船体構造と一八世紀中期までの発達の概要である。では、これから船絵馬を手掛かりにして弁才船の主要な外観の変化を追ってみよう。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION