これは実際にやっている人が何もしていないとか、技術が低いとか、そういうことを言っているのではなく、全体的な方向性、方向付けの問題です。以前、92年にグアムレースの事故があったときに、海上保安庁の広報の方に「日本での救助マニュアルはあるのでしょうか」と伺ったら、「救助マニュアルはない」と答えられたのがすごくショックでしたが、ないはずはないと思います。
これはライフラフトで100日漂流して助かった人が書いた本の中にある、ライフラフトの中での漂流の仕方が書いてあります。そんなことで、私はもう少し風通しがよくなるべきだと思っています。これは現場で働いている人を責めたり、技術を云々したりということではなく、全体的な方向性と全体的なものの考え方と対応の問題だと思っています。
こんな怖いことが海の上であるにもかかわらず、たくさんの人がこうやって海に出ていっているというのは、やはり人間の根源に何か惹き付けるものがあるからだと思います。これはオーストラリアの南のインド洋に面したパースという町のすぐ目の前です。ウィークデーの夕方5時過ぎですが、こんなにたくさんの船が走っています。手前にヨットが泊っています。
ヨットの値段というのは、いま中古はすごく安くて、車よりも安い値段で買えます。オーストラリアのここですと、停泊する場所の料金は、自分たちで泊地に自主的に停泊する場合、自分たちでどういう泊地にしようかということを決められるので、お金がないからシンプルで行こうというと、年間10ドルくらい出し合って、電話連絡料だけで、船のアンカーを入れたりする料金は全部自分で持ってやっています。これがそうですが、そんなかたちで船を置いている人が多いのです。
そうすると普通のお給料を取っている普通の市民でも船を楽しむことができます。平均月収もそんなに変わらないし、海の厳しさもむしろここを出たインド洋は夏でもとても厳しい海です。そんなところを見たら、できないことはないのです。この違いは、プレジャーボートに関しての行政の考え方がすごく大きいと思います。これはヨットを見ている人たちですが、私もうらやましいと思っています。
これは決してお金持ちの人たちではありません。目の前のヨットレースを見て、終わったら5ドルのバーベキューパーティーをやる。お酒は自分で持ってきて、みんなで5ドルを払ってバーベキューパーティーをする。そういう生活なのです。ここにはクラブの人だけではなく、町の人たちもいつでも自由に来られて、ヨットレースに一緒に乗れて、もちろんただです。そして5ドル払えば町の人たちも一緒にバーベキューができる。そういう楽しみ方が展開しています。
先ほどなぜ行政の考え方と申し上げたかというと、免許制度とか専権制度とかいろいろなことが行政の制度としてできてきた結果、日本ではヨットに乗る人がどんどん減っていきました。ヨット業界というのも、業界として成り立たなくなるくらい弱くなってしまって、いまヤマハでは自分のところではセールボート、ヨットはつくっていません。ヤマハブランドで出ているのは、細々と生き残った零細のところに発注して、下請けがつくっているもので、そのヨットがヤマハの名前で売られるというのが実情です。
さすがに運輸省もこれではいけないと思ったらしく、今年からいろいろな免許の規制の緩和などで、法律を取り外していく方向性が出てきています。行政が自分でそんなことをしだすというのは、日本ではとても考えられないことです。ですからいかに壊滅的な状況になったかという、その一端がおわかりになるかと思います。
これはとても残念なことです。長い間ずっと私たちが日本の中で培ってきたいろいろな文化、海へ出る技術もそうですが、海を楽しむという楽しみ、海によってもたらされた言葉とか着るもの、食べ物、人の交流、文学、音楽等がありますが、音楽というとたとえば江差追分などは海路で運ばれた民謡です。あらゆるところに入り込んでいる海の歴史と伝統と文化が途絶えさせられてしまうという、大変な怖さがあります。そういうこともあるので、私は市民の海の楽しみをぜひ広めたいし、海に出ればとても楽しいし、いろいろな発見があるので、いろいろなお話をして、楽しみというものの一端をお話を通してお伝えしたいと思っています。
これからはエクストラですが、急ぎ足でやります。リブ号の歴史航路の中で、いま話題になっている渤海使の航路をたどったときに、たまたま行ったのが北朝鮮です。渤海というのは、いまの国境で言うと、中国と北朝鮮とソ連の三カ国にわたっていた国です。それを思うと、国の境というのは歴史によってもどんどん変わっていくわけです。ただ、そこに住んでいる人たちは、たまたま歴史的にそんなことで国境が変わってしまうという不便さとか、いろいろあると思いますが、いずれにしても渤海の国へ航海したときです。
これは能登半島の福浦から出航するときに、町が大漁旗を飾って出航をお祝いしてくれました。能登半島から出て対岸の元山という港まで行きました。いま新潟に入っている北朝鮮の船が入るところが元山で、その間のところです。そこまでヨットの遅い足で三昼夜くらいで行きますが、非常に近いところです。
これが元山の港です。緑の山を背景にして、高い建物がたくさん建っています。これは全部人々が住んでいるアパートだそうです。高層アパートです。その前に水辺にホテルがあって、そこにリブ号をつけたところです。ここで船を降りて平壌まで行きました。公共交通がないというか、車で行くのが一番近いらしくて、そこから平壌まで高速道路を通って移動するのに使ったのが、いま話題になっているベンツです。ものすごく使い方が荒くてぶっ飛ばすので、とても怖かったんです。ぶつかったら死んでしまうと思いながら、すごく荒っぽい運転で行きました。ですからごく普通に人を乗せて運ぶ道具としてベンツが使われています。高級車とか高級車ではないというよりも、そんなふうに使われていました。
歴史学者の人から渤海のお話を聞いて、それから博物館でいろいろな歴史的なものを見学しました。渤海の都が3カ所あるのですが、一番南にあった都が北朝鮮の中で発掘されているということを歴史学者の方から伺いました。都は港のそばにあるということでした。そこから日本海側の港に20回近くの使節が来て、ほとんど全部無事に航海しています。福浦は交流をしていた港で、迎賓館があったところですので、たぶんここから出たのだろうと地元の研究者の間で言われている港に行きたいという希望を出しました。
それは予定にはなかったんです。それと外国人に開かれていない港です。でもどうして行きたいという強い希望を出したら、担当者の間でネゴシエーションをしてくれて、行っていいということになりました。元山からは北東方向にあるのですが、ヨットで新唱という港まで行きました。途中、沿岸の写真を撮るのも自由だし、何をするのも自由だし、港の写真を撮るのもまったく自由でした。
背後が緑でとてもきれいな港でしたが、この緑のほとんどはトウモロコシ畑でした。木がほんの少ししかないというのが印象的でしたが、本当によく耕されていて、トウモロコシ畑がありました。この港にヨットとして入って、いろいろお話を伺ったのですが、ここは明太がたくさん揚がるところで、日本に明太子として輸出していると地元の人が言っていまして、お魚がすごくおいしかったです。
そんなことで陸上に上がって遺跡のところまで行きました。都があったという遺跡は、土の中からいろいろなものの出土品がありますが、都を囲んでいた土塁が残っています。その土塁の場所に行って土塁の上を歩いて観察したりしました。その途中に農民の人たちが住んでいる村などがありましたが、オンドルを使っていてなかなかきれいな村だと思いました。
土塁のそばまでトウモロコシがこんなにたくさん栽培されています。画面の右側のほうが歴史的な土塁、都を囲んでいた土塁です。その中に都が築かれていました。こんなかたちで囲まれている中を、畑の下などで発掘作業をしていました。北朝鮮ではこのレポートが出されて、いろいろなレポートがあるようですが、これは日本とかかわりのある歴史事項ですので、私たちは知りたいと思います。
ここの港から日本へ持ち込まれたものが、たとえば蜂蜜だったり、黒テンの皮だったりで、そういうものが日本へのお土産として持ってこられていました。いまでも港から発掘跡のところまで、細い川があります。その川の上流にはテンが棲んでいたという話もきいています。それと移動しているときに、蜂蜜を採っている様子が道端などでも見られました。とても古いかたちの屋根のついた蜜蜂の採集場というのがあって、青磁のつぼに入った蜂蜜などもお土産として売られていました。いまでも同じように蜂蜜が特産で、お土産にもなっています。そんなことをすごく感じて帰ってきました。
政治的にはいろいろあるし、政治的なことは計り知れない部分がありますが、歴史的なつながりがあったという事実、それと歴史的な資料の中で出てきたいろいろなことが、いまでも蜂蜜が特産品であったり、いろいろなかたちでつながっているということに、理由はないのですが、すごく感動しました。それと私たちは突然行ったので、特に呼び集められたわけでもなく、組織されたわけでもないのですが、ごく普通に笑顔で普通に生きているというのをとても強く感じられました。それが渤海の航海のとても大きな成果だと思っています。
これが新唱を出て日本へ向かうときの様子です。地元の人たちが岸壁で送ってくれるのに手を振りながら帰ってきました。このときはクルーが5人乗り組んでいましたので、交代でウォッチをしますから、自動操舵装置は積んでいません。3時間とか4時間おきの当直表を組んで、見張りながら航海をして日本へ帰ってきました。
これはおまけの写真ですが、渤海の航海はそんなことで、海の上というのは行こうと思えば自由な道がある。それとたくさんの人が海に対する憧れという、非常に単純な気持ちで海へ出ていって、そこからいろいろなことを身につけて帰ってくることで私たちの社会も豊かになる。それはヨットばかりではなく、内航の人もそうだし、外航の人もそうだし、あらゆることで海を通して恵まれるものは、私たちの想像以上に幅は広いし、豊かなものがあると思いました。
まだリブ号の歴史航海は続けますので、ご興味ある方、好奇心の旺盛な方は、1日でもお乗りになりたいというご希望がありましたらおいでください。こちらの係の方にご連絡を取っていただければいつでも連絡はつきますので、リブ号の航海があるときにはそんなかたちで参加もできます。性別、年齢、国籍、趣味、船酔いするか、しないか、能力、あらゆることに関係なくウェルカムです。
大変駆け足なお話をしてしまいましたが、時間がだいぶ過ぎてしまったので終わります。終わりましたけど、何か質問がありましたら何でもお聞きください。
司会 お時間を過ぎてしまいましたが、お聞きになりたい方がございましたらお手をお挙げください。
質問 先ほどちょっと聞き漏らしたのですが、やけどをなさったときに油をたっぷり塗ったらやけどの治りが早かったという話を伺いましたが、あれは馬油か何かですか。
小林 馬油です。
質問 ありがとうございました。
小林 昔はある家が多かったと思います。民間薬のようなかたちでね。これは私が治っているので実証済みです。
ずいぶん時間が過ぎてしまいましたが、どうもありがとうございました。
司会 小林則子さんでした。どうもありがとうございました。(拍手)
平成16年11月21日(日)
於:“羊蹄丸”アドミラルホール
■講師プロフィール
小林則子(こばやし のりこ)
海洋ジャーナリスト/エッセイスト
東京都出身
都立白鴎高校、津田スクール・オブ・ビジネス卒業
三井物産、AP通信社、月刊「オーシャンライフ」(集英社)編集部に創刊から参加
1964〜 外洋ヨットを始める。レース、クルージングに参加。
1974 オーシャンプレス社創立に参加。
1975 沖縄海洋博協会主催・太平洋横断単独ヨットレースに参加。
サンフランシスコ〜沖縄間12,000キロを57日間で走破。
使用艇:リブ号(全長9m)
1978〜 「リブ号海上編集室・日本周航歴史取材航海」スタート。
現在まで20次にわたり、日本沿岸、中国、朝鮮半島(万僕)、ロシアなど歴史的航路をたどる調査・取材航海を実施、継続。
内外250余港を訪問。完全無事故航海継続中。
使用艇:リブII、III、V世号(全長9〜11m)女性クルーを中心に活動。
著書
『リブ号の航海』(文藝春秋社) 太平洋横断航海記・大宅賞候補作
『ヨット』(平凡社 カラー新書) 解説書
『リブ号 さあ出発!』(ゆまにて出版) 随想集
『ヨット全科』(平凡社) 入門書・翻訳
『ロマンチックチャンレンジ』(筑摩書店) 航海記・翻訳
『やさしく海に抱かれたい』(集英社) 随筆集 ほか
受賞
朝日体育賞(朝日新聞社) 1975年の太平洋航海に対し
ビッグスポーツ賞(テレビ朝日) 〃
フランス政府青少年スポーツ金賞 〃
パイオニア賞(森田たま記念) 〃
ロレックス・フロンティア賞 〃
エイボン女性賞 1983年日本周航に対し
民放連ラジオ・ドキュメント賞 1984年 〃
東京都民文化栄誉賞 1987年 〃 ほか
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