日本財団 図書館


 親父は戦場から大勢の部下を失って帰ってきております。私が18くらいになったときに、「みんなお前くらいだったな」と感慨深げにつぶやいたことがあります。そして私への厳命です。「お前は、親より先に死ぬなよ」と。「わかった。絶対に死なない」。それは守りました。そしてあのときに描いたように私の親父は、戦後やっと我が家が立ち直って私や弟が働き始めたので家をつくり直したその自分の家で、自分のソファに座って、「いまから死ぬぞ」と言って死んだのです。
 要するに、心臓が止まったのを自覚したのです。一緒にいた姪に、「いまからおじいちゃんは死ぬけど、泣くなよ。その時計ももう直してやれないが、時計屋に行け」「ご冗談を」と言っていたら、本当にそのまま猫を抱いたまま堂々たる最期を遂げました。私はこれだけは真似したいと思いますが、そううまくいくかどうかわかりません。
 飛行兵でしたから、酸素ボンベの扱い方はベテランです。見ると、床の下に大きな酸素ボンベがたくさん置いてありました。それをつないでは、苦しくなると酸素吸入をしていて、人には言いませんでした。あれは親父そのものです。親戚一同が全員、あれを見ると「それは当然、あれは親父だ」と言います。
 船を宇宙に飛ばして絶世の美女の下に行くなどという物語は、当時はまだ未開拓の分野だったものですから、人気がなくて首が飛んでいたのです。また映画の密度を上げるために、子ども向けというのを無視して映画のレベルに密度を上げたのですら受けなくて視聴率も2%という、ないも同然です。ですから51話やる予定が、26話でぶち切られることになりました。
 しかし、このときに覚悟が決まったのです。どうせ切られるのなら、もう拒むべきものは何もない。視聴率もへったくれもない。描きたいように、つくりたいようにつくる。サンプルをつくるということになって、やりたいようにやった。ですから、その点だけはいい勉強になったと思っています。
 しばらくすると某大自動車会社のリタイアした社長さんに近い人から、手紙が来ました。「あの松本隊長とあなたが一致しませんでした。実は、お父上は空中で生き延びる手段を教えてくれた私の教官でした。放映中にそのことに気がついていればいかなる支援も惜しまなかったのに、まことに無念であります」という手紙をいただきました。
 私は、もうそれで満足でした。この青年は、それで無事に生きて帰った。私の父親を信じてくれている。それで充分なのです。時折全国をPRで歩いているときにいきなり敬礼されて、「お父上はお元気ですか」と言われたことがあります。「1980年に死にました」と言うと、はらはらと涙をこぼされて、「そうですか」と、元の部下、少年航空兵です。そういう人に何人も出会いました。
 「あのとき美しい女性がご一緒でしたけど、お母上はお元気ですか」と言われ、おれの母ちゃんは美人かな、と思うわけです。人まちがいだとまずいので、これは男同士のあれで家ではそこだけは飛ばして母親に言った記憶があります。どうも場所から言うと母親らしいのですが、うっかりしたことは言えません。
 そういうこともあり、私は空中に憧れました。父親に「夜間飛行はどうだ」と言うと「まるで星空を飛んでいる、宇宙を飛んでいるような気分になる」と言います。小さいときに「火星人はいるか」と聞くと、「いるかもしれん、いないかもしれん」というので火星人から始まったのです。
 そして宇宙の専門書、荒木俊馬博士の『大宇宙の旅』で宇宙の概念を学び、H・G・ウェルズの『生命の科学』という全部で17巻か19巻ある大著で、戦前に平凡社から出ています。私は戦後版の一色版のほうを見ましたが、古本屋に行くとすばらしい恐竜やら、遺伝子の問題をずっと扱っている本で『生命の科学』、350円と書いてある。一冊350円だと思いました。なるべく派手に恐竜の絵が描いてあるところを買おうと思いました。「しかし300円しか持っておりませんが」と言うと、「はい、いいよ」とそこのおじさんがいきなり全巻を渡してくれました。全部で350円だったのです。
 この『生命の科学』というのが実は遺伝子の問題、生命の起源から人類に至るまでの歴史を描いたロンドンタイムズに毎日連載した集大成で、それを読んで、それで生命とは何かということに気がついたのです。しかも遺伝子という問題を扱っていますから異常に心ひかれ、素晴らしい図解もしてあります。そのとき以来、もう漫画を読んでいる場合ではないと、漫画を読まなくなりました。
 H・G・ウェルズや『大宇宙の旅』といった本ばかり、『天と地の玉座』というオリンピックのあったギリシアの歴史の写真集とか、そういうものをなけなしの金をはたいて買い込んできては読みました。かつ日本の科学小説、SF小説の元祖である海野十三という大作家がおりますが、沖田十三という名前はその大作家からよろしくそのお名前をいただいたのです。古代進は、私の弟が進なのです。
 『サブマリン スーパー99』というのを描いたときに、沖進という名前にしました。沖を進むからという単純明快で、弟の名前です。古代進という名前は、『高速エスパー』を描いたときのをそのまま流用したわけです。沖を沖田にして、沖田総司と掛け合わせて沖田十三、古代進。進は私の弟ですから遠慮は要りません。
 コスモ零52と書いてありますが、これは飛行機マニアならわかります。ゼロ戦52型のことです。宇宙ゼロ戦52型で、矢印のマークは加藤隼戦闘隊の飛行第62戦隊のマーキングが矢印だったので、それを制服その他に全部流用したのです。マニアというのは、いたるところにそういうものを応用していくのです。それはマニアだからできることで、知らないと描きません。漫画だけ読んでいたのでは、そういうのは使えないし、知らないから描けないわけですから、体験が大事なのです。
 油絵を描いていたころ、食糧難でしたので、学校の美術クラブにいたとき、写生するために部費でりんごやバナナやみかんを買っていいということで、スイカなど全部並べて描いていたのですが、どうせ見えないほうはいいだろうということで、裏側をみんな食ってしまったのです。そうすると、だめなのです。描いた絵が非常に平面的になるので反省いたしました。
 これはいけない。やはり全部なければ描けないのだということを、事実として会得しました。しかしバナナなどはまだ珍しいころですから、部費で買ったとはいえ、そのまま何日も写生している気にならないわけです。皮だけでいいということで、中身を食った。スイカなども裏をくりぬいて、皮だけこちらに向けて描きましたが、だめで、扁平な絵になりました。その点、全部を見て描かないとだめだ。向こう側まであるという前提で描かないと重量感は生じない。これは自分の体験から学んでいく個性です。
 また、一人、とても感謝している先生がいます。私は字が下手くそだと自覚していました。習字の先生で、スイデンガッパというあだ名です。水田先生といって頭が禿げていましたから、つまりスイデンガッパになるのです。このスイデンガッパに「僕は字が下手です」と白状しました。
 そうすると、「お前は絵が描けるではないか」「はい」「雪舟も絵が描けた。だから字が書けたのだ。なぜならば、お前は字を字と思って書くからいけないので、絵が描けるのなら字を絵と思って書け」と、そう言われるとなんとなくそうかという気になりました。
 バランスの取り方、その他を、字を絵と思って書けばいい。それで書道部に入れられまして、習字をさんざんやらされました。おかげで漢詩はそこで習いましたので全部読めるようになりました。いまでも漢文的やり取りは、文通上は障害が起こらないくらい徹底的に叩き込まれました。数日前「銀河千里を貫く」という武者小路実篤氏の素晴らしい明文の書に出会うこともできました。
 そういうものに感動しながら、葡萄の美酒から始まってずっと育ってきたわけです。何しろ終戦直後ですから、日本の世情は混乱していました。これは特にものすごいるつぼでした。進駐軍に媚を売る女性たちがぶら下がって歩いている。そうすると、葡萄の美酒から始まる授業中に先生が、後庭歌の部分を「江を隔てて猶もきく後庭歌。少女は知らず亡国の恨み」というところを、声を一段と張り上げて言うのですが、窓から見ると、実物が歩いていると思うわけです。
 私の中に、後遺症として残りました。東京に来ても、なぜか編集部はキャバレーが好きでやたら銀座や新宿に連れて行かれました。そうすると自分はまだ18、19ですから、外国のバンドが入って酔いしどれている大人たちを見たときに思わず涙が出るのです。「憐れ亡国の民よ」。そのときの大人たちには悪いけれども、これが亡国の民だ、亡国とはこういうことかと身に染みて自分の中に深く後遺症として残っております。
 ただし、外交官だった英語の先生はまた違うことを言ってくれました。「お前ら、あれを見てアメリカ人だと思うなよ。あれは、外地に来てはめを外している青年たちである。本国ではああではないぞ。それを心して覚えておけ」。これも正確で、両面をきちんと教えてくれた。
 また「少女は知らず亡国の恨み」。商女と書くのです。それも少し年がいくと、なぜ彼女らはそういう境遇に陥ったのか。そういうことをしてまで養わなければいけない親、兄弟、肉親がいて、食うためです。彼女らをその境遇に貶めたものの責任はどこにあるかということに思いが至った瞬間から、二度と蔑称では呼べなくなります。誰のせいなのか、何のせいなのか。個人のせいではなく、これはそのときの日本国落城という結果で、その先の責任はどこにあるのかということを考え始めると、絶対に蔑称では呼べない。ごめんなさいという心が自分の心の中に生まれてくる。
 そういうわけで、1000年に一度あるかないかという体験の時代に遭遇したのです。親たちの時代がいかに辛酸をなめたか。親父が帰って来なかった家の悲惨さ、1円の金もない家の悲惨さというものを、この目で全部体験しています。逆に言うとそのるつぼの中で育ったお陰で、これを参考資料と考え、本ではなく自分の実体験として考えれば、1000年に一度あるかないかという体験ができたわけですから、確信を持ってものが書けるわけです。そのときはこうだということで、絵空事ではないのです。心境そのものをズバリ表現することができます。そういう意味では1000年に一度あるかないかの大転換期の時代に遭遇して物心がついていったということには、作家としては感謝しております。
 これは参考資料ではない。参考資料だけれども、自分にとっては実地教育みたいなものです。漫画大学でいえば、文字どおり漫画大学の大学院までそこにいたことになります。それが人に学んだのではなく、自分で学ぶことができた。もちろんアメリカからは山のようにアメリカ兵が10セントコミック、いまでいうスーパーマン、スパイダーマン、バットマンというのを山ほど持って来てくれて、山ほど売っているのです。
 みだりにそういうものを売買してはならないというお触れが出ているので、タイトルがちぎってあり、それは5円なのです。そこは闇市世代ですから子どもでもお互い阿吽の呼吸で、10円のはないのかと聞くとやおら座っている椅子の下から完全なものが出てくる。それで10円のほうを買ってくるわけです。そういうもので外国の漫画と日本の漫画の違いを見ましたし、映画もいっぱいきましたので、そういうものを山ほど見ながら育っていきました。
 そういう中で激しく影響を受けたものがあります。『風と共に去りぬ』のインターミッション、中間の場面でスカーレットが、大根かニンジンを泥の中から引き抜いて食いながら「私は誓う」という場面があったのを記憶されている方もおいでだと思います。「私は誓う。たとえ人を殺してでも自分は二度とファミリーを飢えさせない」I never be hungry again. 英語の成績は極端に悪いのに、そういうところは横文字でそのまま覚えています。もちろん飢えているときにあの映画を見たのです。黒い木があって、ロングにずっとひいていきます。あれはディズニープロのアニメーションで、実写ではないのです。合成はしていたかもしれませんがあの木などは絵で、アニメだったのです。その場面に感動した。
 その次にイタリア映画の『シューベルト物語』です。シューベルトが体調が悪くて瀕死の状態のときに貴族の屋敷に呼ばれて、「仕事がなくて困っているならめぐんでやろう」ということを言われた瞬間に、机を叩いて椅子を蹴とばして立ち上がるわけです。「おれはフランツ・シューベルトだ」と、プライドをかけた一言です。「要らない」と言ってドアをたたき閉めてジプシーの小屋に帰り、そこで天然痘を患っていた絶世の美女の恋人に看取られて息を引き取るのです。そうすると彼女がシューベルトのために「アベマリア」を歌う。このときの「ミケアモ・フランツ・シューベルト、おれはフランツ・シューベルトだ」というプライドをかけた言葉が、少年の日の自分にずしっときたわけです。
 実は一昨日イタリアから出版の依頼でイタリア人が来たので「発音に間違いがないかどうか」というと「間違いない」ということで「ミケアモ・フランツ・シューベルト」というプライドをかけた一言に間違いないということに確信を持ちました。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION