私は、どんなに揺れに振り回されようが絶対に酔わない体質です。飛行機でも船でもむしゃむしゃ飯を食っているので、後ろから突つかれます。「止めてくれないか」「どうかしましたか」「食っているのを、見るだけで気持ちが悪い」と言われます。そういう点では得な体質なのです。この点では、何度注意されたかわかりません。ですから、そういうときはそっと1人で見えないように食べるようにしています。
人が気持ちが悪いというときは、私にとっては最高に気持ちがいいのです。ウワッーとくると「ウワッー、気持ちがいい。天国だ」と思うのです。そう言っているとトントンとドアを叩く音がして、私の家の若いやつらが並んでいて「酔い止めの薬をください」と言うのです。こちらが気持ちがいい、極楽だと思っているときが、皆にとっては地獄みたいなのです。この体質の差というのは、ものすごいです。
私は海とか空というのが若いころから大好きで、その刷り込みが自分の生涯の仕事を支えてくれたわけです。明石で観た漫画映画、明石公園の思い出、四国の山や谷で暴れまわった記憶、トンボの頭を引っこ抜いたりハチの巣を襲ったり、クヌギ虫というアゲハチョウか何かの幼虫、つまりウジ虫まで焼いて食っていました。いまそんなものを見せたら、だいたいの子どもは飛び上がるか気絶するでしょうが、これを焼いて食うとカリカリとクッキーみたいでうまい。いまでも、やれと言われたら食います。
また、1本は食ってもいいけれども2本以上食うとただごとでは済まないというキノコはどれかとか、毒キノコと食用キノコの識別、それから路傍に生えている草で食えるものと食えないものの識別はできますので、何が起こっても絶対に生き延びてみせると威張っています。
どういうわけだがそのせいで歯だけは頑丈で、30数歳になるまで虫歯はありませんでした。白状しますと、下宿の風呂には80日くらい入らなかった記録がありますが、盛大にインキンタムシになりました。歯も磨いたことはありませんでした。東大の傍の本郷三丁目にいたそのときのわれわれの合言葉は、「ライオンは風呂に入るか。ワニが歯を磨くか。風呂に入らずともライオンは百獣の王である」です。
ですから私は自分が横文字でサインをするときは、RではなくLを使っています。それは、風呂に入らないライオンにあやかっているのです。歯磨きと虫歯の相関関係というのは、よくわかりません。私が初めて虫歯になったのは30歳を過ぎてからで、親知らずが痛んだのです。「あーん」と口を開けたらお医者さんが「おお、無病息災か。しかし歯くらい磨いて来いよ」と言われました。
そのときに、この話をしました。それで「とにかくひっこ抜いてくれ。次はいつ生えるのか」と言いました。虫歯の経験がないので、永久歯という言葉を知らなかったのです。子どものときよくグラグラすると引っこ抜いて屋根に放り上げたり、上の歯は床の下に投げ込みました。また生えると思ったのです。
「永久歯という言葉を知らないのか。大人になって歯が抜けたら二度と生えないのだ」と言われて、腰を抜かしました。それが30数歳ですから、とんでもない話です。それ以来、一応建て前として歯を磨くことにしました。たてまえです。今日はちゃんと歯を磨いてきました。
お陰でいまでもものにかぶりついていて、お医者さんに注意されました。「ワニと人間は同じではない。ワニの歯を見ろ。猫の歯でもいい、トラの歯でもいい。尖っているだろう。あれは肉食獣の歯である。肉食獣はたんぱく質ばかり食べているから虫歯にならないのだ。人間の歯は馬と同じである。でんぷん質を食う者は虫歯になるのだ。それを知らないのか」と言われても、あとの祭りです。
ああ、そうか。われわれは馬や牛と同じような歯なのか。そういえばうちのドラ猫の口を開けさせると、尖っています。歯周病にはなったとしても、めったなことでは虫歯になりません。そういうことを学びながら大人になってきた、動かすということに興味を持つようになったのです。
しかしそういう意味で、海というのは私の中でふるさとみたいなものです。もともとわれわれは、遠い先祖は海生動物です。解剖されると、えらの痕跡があるそうです。かつては、われわれの先祖は水中にいたわけで、その遠い遺伝子があるはずです。ですから海というものに憧れを持ったり、船に乗りたいというのは本能的なもので、これはどうしようもないのです。
しんかい6500の海水ポンプだとかH2ロケットのタービンあたりの開発には、私の弟が関与していました。私は一家を支えなければいけませんでしたから、高校生のときから漫画にトライして原稿料を得ていました。その代わり、「お前は必ず大学に行け。そして俺の代わりにロケットを飛ばせ」と言ったら、本当にそうなりました。
機械工学部を出てから、いま工学博士の肩書きを持って早稲田の機械工学部の大学院の教授をやっています。その道の専門家で、その途中で三菱にいて海水ポンプだとかタービンだとかプロペラシャフト、スタビライザーといったものの開発をやっていました。ですから、そういう点では機械工学上の理論上も実践上でもベテランです。
ですから私が漫画を描くとか、映画をつくるときに専門用語を使うときに間違いがあれば物書きをしていると、一カ所でも間違うとこの作者は知らずに描いている、受け売りだと、オタクからばかにされるのです。それがいやなので、理屈を全部書いて、名称まで書いて弟の研究所に「実証せよ」ということで、ファックスで送るわけです。
そうすると、必ず返事が返ってきます。「あながち嘘とは言えない」。これで大丈夫なのです。そして要注意点が書いている。ワープから波動理論、タイムマシンに至るまでの屁理屈を、私のほうは数式まで書いて「実証せよ」。「あながち嘘とは言えない」。「要注意点」とあるので、そこを注意しておけばいかなる専門家から突っ込まれても屁理屈で逃げられるのです。絶対に大丈夫なのです。一応は理論的にきちっと証明したうえで宇宙船だとかそういうものを描いているのです。
また、われわれ漫画家というのは人の漫画を見て描いている場合ではないのです。最初は人真似から始まる。これはやむをえません。ところが見て真似して描いても、同じようには描けないのです。自分の絵のほうが冷たく見えるのです。これはなぜかというのが、ずっと理解できないでいます。
その次に模倣です。模倣を応用して描くことから始まります。それから自分の考えを入れて改良、発展させる。ここでだいたいみんなプロフェッショナルになって、連載とかそういうものを獲得しています。その次が大変です。創造、創作、つまり個性の確立です。これには先人と同じことをやったのではだめです。先輩が偉大であれば偉大であるほど、そのバリアは高いわけですから、違うことをやらなければならない。
そのためには漫画家を目指しているときには、ひとの漫画を見ている場合ではありません。家の中には、よほど好きな漫画以外は部屋の中に漫画の本は置いていません。あるのは、わかろうとわかるまいと有体力学だのロケット工学だのという専門書だらけです。私は比較的低学年のときに、京都産業大学の初代総長を務められた荒木俊馬博士という人が京都の夜久野町というところに蟄居されたときに書かれた『大宇宙の旅』という本を図書館で見ました。昭和23年か24年で350円ですから、とても買えません。
これは、ビッグバンの爆発から宇宙の拡大の論理に至るまで、フォトンという名の女神のような女性が少年を連れて宇宙を飛び回りながら宇宙の概念をすべて教える大人向けとも子ども向けともつかない、ご自分が挿絵を描かれた本でした。この荒木博士の本に感化されて、宇宙というものについて考え始めました。まだ反射望遠鏡がなくて、ウィルソンの屈折望遠鏡しかない時代ですからアンドロメダとか大マゼラン、小マゼランといういろいろな月や火星の写真があるわけです。まだ小学生でしたから、自分でもその屈折望遠鏡をつくってみたいと思って親父の老眼鏡といろいろな虫眼鏡を組み合わせて、とにかくまがりなりにも望遠鏡をつくってトライして、初めて月のクレーターを見ました。われわれの世代は、なければつくるということでした。そこから始まるわけです。それで望遠鏡をつくりました。
それから電圧調整器、コンデンサーです。私は今年で66歳ですが、われわれと同年輩の方はご記憶があると思いますが夜の5時ころになると、ろうそく送電といっていきなり電圧が下がって5ボルトくらいになるのです。そうすると100ワットでも60ワットでも、何も見えません。かろうじてぼんやり光があるだけです。
これではいけないというので、ガキの分際で電圧調整器というのを、本を見ながら組み立てました。ヒューッとやると100ワット、200ボルトくらいに上がる。ついに250ボルトまで上げるのをつくってしまいました。当時のぼろ長屋にはブレーカーだとかヒューズなどというものはありません。ただ周りにばれるとやばいということで、いろいろなもので囲って、その中でいきなり100ワットにして読んでいました。
いまでもその物体を私は持っております。東電の人に見せたら、それを盗電というと言われました。変圧器というのは、むやみにやってはいけないことなのです。映画をつくるときに、最初は自分でつくろうと思いましたので中古屋さんから買ってきた16ミリの映写機のアンプの出力では足りないのです。それでコンデンサーを入れた。アンプにもコンデンサーがついていて、600ボルトまで上げようと思いました。
上げたところで、よせばいいのにコンセントに差し込んだのです。その瞬間に電流が、電線を流れずに私に流れたのです。左手から肩を通って右手にジーンと、みるみる青白い火花が散ってしびれたのです。ただゴムの上履きを履いて、たたみの上に膝をついていたので、電流が下にいかなかったから助かった。そういう恐ろしいことをやった。
ですから、スイッチを入れたままコンセントを入れるのはお控えください。特に機械をあやつる人は、アンプを2つつなごうという場合は、必ず電源をつないでから挿さないとやばいことになるということを体験としてお知らせします。命にかかわります。
実は船の中でも、悲劇的な船に乗っています。“青葉丸”という瀬戸内海を松山から北九州、門司までを走っていた船に乗りました。戦後一度だけ疎開地に里帰りしたときに、3等船客というか船底の丸窓がずっとある部屋に座っていた覚えがあります。水面が窓の真ん中にあって、ちゃぽちゃぽしているのがわかります。
その船がその直後に台風に遭いまして瀬戸内海で沈没して、大勢の犠牲者が出ました。もちろん乗ったときは兄貴と2人で船内をうろつき回って、機械室にまで侵入して機械が動いている様子も全部見ておりましたから、船底の部屋の様子を知っていました。ですから沈んだときにあの船底にいたらという惨状を考えると、あそこは階段が1本あるだけで脱出口がなく、どこにも出られないのです。水が入ってきたら、絶対に脱出できないというのがよくわかります。そういう船でした。
私が乗って瀬戸内海を航海していたときに、その横で煙を吹いている船が沈んでいるのです。デッキだけが出て、黒煙を吹き上げているのです。それは戦争中の名残である不意打ち雷に触れて沈没したばかりの船です。その燃えている船の真横を通ったことがあります。
そういう時代を経て大人になってきましたから、泳ぎとかの楽しみと一緒に撃沈されている船、コーリャンを積んで帰って来ていますから重油だらけです。しかしそれでも、それが配給になったのです。北九州ではゴーチンコーリャンという名前で、重油の匂いと味がするわけです。とても食えたものではないけれども、それしかないから食わざるをえないのです。その沈没船の中で、われわれは泳いで遊んで、遠泳までやった。
白状しますと、卑怯にも一度だけ逃げたことがあります。私の目の前で親友が沈没してしまいました。「助けてくれ」と海面に飛び出して来た。そしてゴボッと潜った。その次に「助けてく」、ゴボッ。「助け」、ガボッ。「た」、ガボッ。次は手の先しか出なくて、そのうち見えなくなったのです。そのとき、自分は彼を助ける自信がなかったのです。泳ぎといっても、それほど得意ではありません。友人たちがみんな寄ってたかって彼をひきずりあげたので、彼は一命をとりとめて「死にかけた」と言っていました。
私は、ついに生涯白状できませんでした。おれはお前のすぐ後ろにいたのに、抱きつかれたら一緒に沈みますから、助けてやることができなかった。それがいまでも忸怩たる思いで、後悔の念として残っています。男子たるものなぜ親友の首くらいつかまえることができなかったのか。しかし一緒に抱きつかれたら、こちらも一巻の終わりになったと思います。
|