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 15、6才のとき、ある日突然彼から手紙が来ました。「同じだけ息をして同じだけ心臓の動いた松本君へ。同じ日に生まれたのだから頑張ろうよ」という手紙をくれました。これは大切に保存してあります。彼が処女作の本をくれたときに、それを書いてくれまして、お互いにそういうことをやっていました。この3人、SFやいろいろなものを描きますが、そういう不思議な縁で結ばれています。映画をつくるときの機材、映写機、フィルム、セルといったものの取りまわしをこの3人でやっていました。
 本来は、映画の上映が終わると廃棄処分します。ロールを十文字に切りまして夢の島、つまりどこかこの近所で、この下にあるかもしれませんが、そこに埋めるのがその当時の廃棄処分のやり方でした。それを廃棄せずに、ジャンク屋さんと称するヤミ屋に横流しをして、われわれに売ってくれていました。われわれは参考資料として機材一式フィルムまで買って、いまでも私の家に山のようにあります。
 忘れもしない昭和37年(1962)に踏み込まれました。「何のためにこれを買うか」と警視庁の外事課からお調べが参りました。たまげたけれども悪いことをしているわけではないので「研究用でありますが」と言いました。すると調書を取ろうとしていた刑事さんは、鉛筆をポンと放り出しました。「ああ、研究用か。それならいいや」と言うのです。「ではもっと買ってよろしいですか」と言うと、「好きにしてくれ。頑張ってね」と、手を振って帰ってくださったのです。その人は、われわれがつくった映画を観てくれたかなと、いまでもその笑顔が忘れられません。
 その同じ日に、私のところに来た人が手塚さんとか石ノ森氏のところに行った。その当時この3人は自称、自称と言っておかないとオタクの世界ではおれのほうがすごいというのがいっぱいいるのですが、自称日本三大アニメマニアと言って威張っていたわけです。そしてそういうことがあったので、半分誇張して「自称日本三大アニメマニア芋づる事件」と言って3人で威張っていました。ところが残念ながら、このお二人はすでに他界されてこの世にいませんので、淋しいものです。
 彼らの遺品というか、取り回しをしていたので私のところに来たのはそのまま置いてあります。しかし私のほうから行ったのは、自分でなければ見分けがつきませんのでどこに行ったかもわからない。そういう思い出がありますが、これは昭和18年(1943)のことです。明石公園を遊び場にしていたのが、四国の大洲市に行って初めて漫画を描きました。昭和19年(1944)、4月の1年生のときです。桜吹雪の中で入学式を終え、そのときに描いた漫画が、どういうわけだか船の関係です。『潜水艦U13号』というのを描きました。なぜUというローマ字を知っていたかよくわかりません。Uボートから来ているのでしょうが、姉あたりから教えてもらったのかもしれません。『潜水艦U13号』です。それで自分の漫画を描くという時間が始まりました。
 戦争が終わりました。そのとき、肘川で泳ぎを覚えておりましたので泳げるようにもなっていましたし、魚の捕り方も覚えておりました。ウナギとヘビというのはまことに始末が悪く、手でつかんだだけでは識別ができません。ウナギ針を石垣の間に入れて、引っかかって引っ張ると反応があって、ウナギが捕れたと手を突っ込んで頭をつかまえます。引っ張り出すまでわからないのです。そうすると、出てくるのは青大将だったりするのです。針を回収しなければいけませんので、このやろうと言って尻尾を持って振り回してぶち殺してしまって針を回収するわけです。
 また、よく見ると何か飲み込んで腹が膨らんでいるヘビがいるのです。おもしろいから吐き出させろとなる。私は疎開中に全部覚えたので、田植えから一式全部できます。米を日向で干すむしろの上に、脱穀以前に干す。名前は忘れましたが、ならすためのギザギザのついた木の道具があって、それでヘビをしごきまくりまして、吐き出させるのです。
 そうすると、半透明になったカエルが出てきたりします。そうすると、「なるほど。消化とはこういうものか」と、会得しているのです。いまになると、ヘビさんにもカエルさんにも悪いことをしたと心から謝りたい。
 ハチの巣と見れば、襲われるのではなく必ずこちらから襲うのです。というのはハチの子を食いたい一心で、スズメバチの巣まで強襲作戦をかける。それがときどき返り討ちに遭います。遭いますが、先輩がすでにやられているのを見ているわけです。スズメバチに刺されると、顔がジャガイモのようになります。しかし、数日すると治っていて、やられてあの程度だという認識があるから、やられても精神的なショックは受けないのです。ハチの子を食いたい一心でハチの巣襲撃作戦をやるわけですが、学校の行きがけには、まずスズメバチを襲って突つきまくって行くのです。
 15、6人ずつの集団登校ですから、次の班が襲われるわけです。前が突っつきまくっているから、ハチはかんかんに怒っている。30年くらい経ってふるさとに行ってみたら、「お前らが突っつきまくったおかげで、次の班が襲われて犠牲者の山だった」ということでした。知りませんでした。大人になってから「ごめんなさい」と謝りましたが、そのときは耳に入りませんでした。ですからスズメバチに至るまで、強襲作戦で食べてしまいました。いまの子どもにそれを見せると、悲鳴をあげて食べません。ウジ虫だと言います。アシナガバチなどはとても美味しいので、山の中でもさんざんやりました。東京に来てからも郷土料理屋さんでハチの子というメニューがあり、満員で座れないときに無理やり狭いところに入って「ハチの子ちょうだい」と言うと、ハチの子がお皿にのって出てきて、それを食べ始めると、周りが少しずつ遠のいて行きます。ウジ虫を食っていると思うらしくて、気持ち悪いのです。だんだん遠のいて行くので、「皆おいで」と言って席を確保する。そういう作戦をやったことは、何度もあります。
 そのように、われわれは自然と慣れ親しみながら、まず川で泳ぎを覚え、それから本来の生まれ故郷の私は福岡県生まれですから、北九州の小倉に行きました。泳いだ場所が関門海峡のはずれとはいえ、ちょうどこのような場所です。関門海峡は波が荒くて、船が高速で走ると、ものすごい波が打ち寄せてきます。
 終戦直後ですから、岸壁には廃棄処分になる前の弾薬の山が山盛りいっぱいあるのです。白状しますと、何発もちょろまかして帰りました。子どもの遊び道具としてで、火薬は入っていませんでした。イギリスの巡洋艦隊が、瀬戸内海側から朝鮮海峡に向けて全速で抜けたのです。あの狭い関門海峡でいちばん細いところでも700メートルになりますが、下関の和布刈神社があるところで、そこを全速つまり40ノット近くで抜けられたら、その岸は大変です。漁船は乗り上げてひっくり返ります。われわれはそれを楽しみにしていて、波が来ると飛び込んで、波乗りを楽しんでいました。
 何しろ港の少し沖には、輸送船がたくさん撃沈されて擱坐しているのです。大陸からコーリャンとかいろいろなものを積んで帰って来て、そこでやられて沈んでいるのですが、半分は出ている。100メートルくらいそこへ泳いで行って、その中は漁礁と化しているので、そこで魚を獲って持って帰ることを遊びと食料確保として楽しみにしていて、そういうことで泳ぎを覚えたのです。
 輸送船、つまりこの船みたいな船の腹くぐりもずいぶんやりました。いまの若い人にはお勧めできませんが、輸送船の腹くぐりというのはいちばん楽しい作業です。四足で手足を突っ張っているうちはいいけれども腹がべたっとつくと離れられないという伝説化したような話があって、子どもというのは「それならやってみよう」ということになります。それでひっついてみたけれども、別にカキ殻ら貝殻で痛いだけで何事もなかった。
 スクリューにいたずらしたり、いろいろして、俺はここまで来たという証拠を残さなければいけない。何しろもっと大型の貨物船が横付けになる港ですから、海に潜るときは底までもぐらなければいけない。何かをつかんで上がってこないと、底まで潜ったという証拠がないわけです。そのときに、海と川の違いを嫌と言うほど思い知らされたのです。
 海は浮いているのは楽だけれども、潜るほうが難しいのです。ものすごい水圧です。体に抵抗がかかって、潜ろうとすると浮き上がる。それに逆らって泳いでいかないといけないけれども、水圧がかかってきます。
 また、川でもそうですが海に飛び込んだときのあの音です。潜られた方は記憶にあるでしょうが、海に潜ったときのパチパチピチピチ、遠くの音、いろいろな音響は、潜った人間でなければわからないと思います。それで潜って海草でもなんでもつかみます。10メートル近く潜ると、途中で息が切れてきて、死に物狂いで海上へ飛び出すわけです。
 子どものときにそういう環境で、何しろ学校の帰りにそれをやるのです。正直言うと、川で泳ぎを覚えた人間には海で泳ぐのは怖かったのです。「どうか今日は帰りに泳ぐと言いませんように」とお祈りをしていると、「おおい、行くぞ」とみんな海岸に行くのです。
 岸壁や砂浜にかばんやら服を一式埋めて、フルチンで飛び込む。岩壁の突端で立ちすくんでいると、「こら、松本。何をしているか」と来るのです。そうすると、男子たるもの飛び込まないわけにいかないのです。
 飛び込んでみると、何のことはない浮力が強いのでこれは楽だということで、いまでも海はそれほど怖くありません。落ちても慌てなければ別にどうってことはない。じっとしていれば人間は浮いているものだという確信があります。そこで泳ぎを覚えました。
 先ほどのイギリスの巡洋艦が全速で抜けていったときに泳ぎましたが、そのとき陸上で三脚に測量器を載せて計測をしていたおじさんがいました。巡洋艦というのは、いかにもすごそうに見えますが、その人はその船を見て「なんだ、細かいのが走っている」。その人は戦艦に乗っていたので、巡洋艦ごときはものの数ではないのです。「なんだ、くだらない。小さいのが走っているではないか」という一言で、プライドは守られたわけです。
 「おお、そうか。もっとすごいのがあったのか」。ですから私はジープを見ても戦車を見ても、「おらっちにはもっとすごいのがあった」と別に驚かなかったです。八幡製鉄所はごうごうと黒煙を吹いていましたし、何のコンプレックスに陥る心配もない。
 そういう中で漫画を描き始めたのが小学校からで、高校1年で仕事になりました。目の前が朝日新聞の西部本社で、少し行くと門司港でいまはレトロタウンということで鉄道博物館などいろいろありますが、そこに毎日新聞の西部本社がありました。皮肉なことに、目の前が朝日新聞社なのに仕事を始めたのは35円かけて西鉄の電車に乗って行かなければいけない毎日新聞西部本社のほうで仕事になったのです。高校1年のときから、日曜日とか休みの日は連載漫画をやっていました。こうなると、学用品から授業料一式全部自前で、残りは親父に渡す。よく考えると、18歳までは納税の義務はないのです。ところが、当時の原稿料は1割5分の源泉徴収がされていましたから、私はその前の14歳くらいから税金を払っている男です。
 その第1号が、納税促進漫画でした。「さあ、税金を払いましょう」という漫画を描いたら一席で入選しまして、35円と筆箱と下敷きをもらいました。その当時でも、いろいろな意味で源泉徴収がされていますから税金になるとしょうがない。最初の一作目が納税促進漫画なのだから、ということです。まだちゃんと小倉市報という市報が残っています。
 そういうところから始まって、海とは切り離せない縁があるのです。友人の中には漁を家業としているせがれたちもいっぱいいて、私は彼らから泳ぎを習ったわけです。
 いろいろな海峡で出会う韓国や中国の乗組員同士のやり取りで、いろいろな言葉を教わりました。それを冗談として歌やお互いを呼び合うときに使っていましたが、その言葉の意味は知りません。いまから十二、三年前に韓国に仕事を外注したときにそこの社長さんと新宿で酒を飲みながら、「この言葉の意味はいったい何ですか」と話したのです。すると、ものすごい顔になりました。「それは誰か同胞に喋ったか」「いや、一度も喋っていない」。横にいた女の子まで「誰かに喋ったか」「いや、誰にも喋っていない」「それは絶対に人に向かって言ってはだめだ。その一言を言ったら、あなたは人間扱いされないよ」と言われたので、よほど恐ろしい罵詈雑言罵倒する言葉だったらしいのです。
 そういう言葉も、われわれは同級生やいろいろなところから仕入れて、子どものときに存分に国際化していたというか遊びまわっていたのです。アメリカの上陸用舟艇は岸に着いているし、旧海軍のカッターが川に乗り上げたまま朽ち果てていくのもこの目でずっと見ております。そういう時代を経て大人になっていった。海とは切っても切れない縁がある。
 ところが、ここで遠泳を覚えました。高校生になるとキャンプのときの遠泳は2キロです。岬から岬に渡らなければいけない。これは学業の一部ですから、しょうがない。ゆっくりですが、岬から岬へと2キロを泳ぐ練習を強制的にやらされていました。ですから、海はそんなに怖くない。
 このおかげで、私は南太平洋で命拾いをしました。ニューカレドニア、いまのバヌアツのデビルスホーンというところで船から飛び込んだのはよかった。今日の俺は調子がいいと思いました。ジャングルが飛ぶように流れて泳いでいたら、そうではないのです。岬と岬の間の狭い水路の海峡を、ものすごい速度で流されていたのです。
 回れ右してUターンすると、船は水平線に点にしか見えない。帰ろうとしたら、海流と自分の泳ぐ速度のバランスがちょうど同じで前に進まないのです。そして、少しバックしていくのです。空中からも見ていましたから、岩礁の外に出るとサメがずっと並んでいて、出たらジョーズに食われて一巻の終わりです。
 そのときに、関門海峡のはずれで泳いだ潮流を乗り切るノウハウを思い出しました。岸部に寄ると抵抗がありますから流れが遅いので、そこをジクザクに泳ぐのです。直線で泳ぐとだめです。ジクザクに自分の船の上流まで泳いで、放物線を描き、それも平泳ぎ、クロール、横泳ぎ、背泳と全部組み合わせて、やっとたどり着いたのです。これは、子どものときにその泳ぎ方のノウハウを会得しておかなかったら、あれは必ずサメの餌食でした。
 いい年になってひげがそろそろ白くなったときの同窓会でその話をしたら、一緒に泳ぎを教えてくれたいまは漁船を自分で操っている同級生が、「お前、そのノウハウをまだ覚えていたか。よかったろうが」と言うので「ありがとう」と言いました。
 そのように子どものころに会得したものが、結局自分を助けているのです。あれをやっていなかったら、私はこの世にいません。ただ、海で泳ぐとか川で泳ぐということは遊びのようですが、当時の食糧難の時代のまず第一の目的は、食料を確保するということがあったのです。ですから海に潜ってカキを獲ったり魚を獲ったりアナゴを追い回した。
 南太平洋では反対にウツボにかみ殺されかけましたが、こちらが死んだふりをしていました。肋骨は3本折って帰ってきましたが、これは大人になってからの話です。そういう海での体験は、ずいぶん役に立ちました。
 また場所による海の色、場所による浮力の違いというのも気がつきました。父親はパイロットでしたから、南太平洋の上空を飛んだときに船が空中に浮いているように見えると言いました。海水が澄んでいるから、船が浮いています。ところが水につかっているように見えなくて、船の影が下に映っている。ですから、空中を飛んでいるように見えるぞと言っていました。
 行って見ると、まさにそのとおりでした。自分が海流に逆らって船に生還するとき、近眼ですから度付の水中眼鏡をかけていました。そうすると顔を水中につけてみると、死に物狂いと泳いでいる自分の影が、はるか下の海底に映っているのです。情けないというか不気味というか、あれは生涯忘れません。
 そのおかげで、とにかく船にたどりついた。船に近づくと、オーストラリアの船長さんご夫妻のワッハッハという笑い声が幻のように聞こえてくるわけです。やっと船にしがみついたら、上からニコニコのぞいていて「エンジョイしたか」と言うので「イエース」と言いましたが、本当は死にかけたとは言えません。そういういい思い出がたくさんあります。


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