5. 瀬戸内海でのものの動き
5.1 海水中のものの動き ―潮流と残差流で決まる―
瀬戸内海の海水中のある点I(下図参照)に投入された物の動きを考えてみましょう。ここで物とは木ギレでも油でも植物プランクトンでも構いません。魚のように自分で泳ぐ力を持たない、その場の海水の動きにより、その動き方が決まるような物を考えます。
まず、投入後数時間の間、物はその場の風波などにより起こされた乱れにより広がりながら、潮流によりある方向に流されます(下図の(a))。さらに数十時間後、投入された物は潮流による往復運動を繰り返しながら、その場の残差流(ざんさりゅう)(後の5.3節で定義します)により運ばれ、広がっていきます(下図の(b))。瀬戸内海の残差流は燧灘や大阪湾の中で水平循環流の形をとるので、数十日後には広がってかなり低濃度になった物は元の投入点付近に戻ってきます(下図の(c))。数ヶ月後、物は灘や湾内をいくたびも循環し、投入された物の一部は海峡を越えて隣接する灘や湾に広がっていきます(下図の(d))。
瀬戸内海のある点Iに投入された物の広がり
上で述べたのは、主に水平方向の物の動きです。瀬戸内海は鉛直方向にも広がりを持っているので、物の動きは3次元的になります。例えば、窒素やリンなどの栄養物質(生物や人の身体を構成している物質)は河川から栄養塩として流入し、植物プランクトンに取り込まれ、動物プランクトンに食べられ、糞となって懸濁物質(けんだくぶっしつ)として水中に排出されると、下層に沈降します。瀬戸内海の下層では、残差流が上層とは逆方向に流れていますから、懸濁物質は湾奥に向かって運ばれます。その間に懸濁物質はバクテリアによって分解され、もとの栄養塩に戻って、上層に湧昇(ゆうしょう)(湧き上がってくること)してくるのです。
栄養物質の動き
瀬戸内海の海水の動きで最も顕著なものは、1日2回の海面の昇降運動である潮汐(ちょうせき)と、潮汐を起こすための海水の水平運動である潮流(ちょうりゅう)です。潮汐は月と太陽の引力のために起こりますが、主に月の影響で起こされます。月がある地点の真南にきた時(南中(なんちゅう)と言います)と、地球の真裏に来た時、ある場所の海面は月の引力と遠心力により盛り上がります。しかし、地球は一様に海水に覆われているわけではなく、海の形は複雑なので、実際には月が南中してからある時間を経て、海面が最も高く(満潮(まんちょう))なります。
瀬戸内海の満潮時刻の分布は図に示すとおりで、日本標準時が定義されている東経135度の明石に月が南中(なんちゅう)して、約6時間後に紀伊水道と豊後水道で満潮が起こります。この海水の高まり(満潮)は徐々に瀬戸内海の中に伝わっていき、播磨灘と燧灘ではそれぞれ10時間後に満潮となります。そして、紀伊水道と豊後水道から伝わってきた満潮は備讃瀬戸の西部で出会って、お互い行き交います。満潮の6時間後には海面は最も低く(干潮(かんちょう))なり、海面の上がり下がりは月が地球を1周する24時間50分の半分(12時間25分)ごとに繰り返されるわけです。満潮・干潮の時刻は、月の出が毎日50分ずつ遅れるのに伴って、毎日50分ずつ遅れていきます。
明石に月が南中してから満潮になるまでの時間
満潮と干潮の海面の差である干満差(または潮差)は瀬戸内海の中央部で大きく、月と太陽の効果が重なる大潮(おおしお)時(満月や新月のとき)には約3mとなりますが、両者の効果が打ち消し合う小潮(こしお)時(半月のとき)には半分の約1.5mとなります。
瀬戸内海の干満差分布(数字はcm)Lは周囲より小さく、Hは大きいことを表す |
このような大きな干満(かんまん)差と幅の狭い海峡が多いために、瀬戸内海では強い潮流が流れます。鳴門、速吸瀬戸などの狭い海峡部では、潮流の最大流速は5〜10ノット(1ノット≒50cm/秒)にもおよび、地形の複雑さも加わって、渦潮(うずしお)などが発生します。上げ潮流の流向は紀伊水道と豊後水道からの満潮が出会う備讃瀬戸西部を境に逆方向となります。
このような強い潮流によって瀬戸内海の海水は、水平方向、鉛直方向ともによく攪拌され、海水中の物質濃度は一様化します。
瀬戸内海の潮流振幅(cm/s)(a)と上げ潮流
(干潮から満潮になる時の潮流)の流向(b)
この節の参考文献として
柳 哲雄(1987)『潮汐・潮流の話―科学者になりたい少年・少女のために』
創風社出版1500円 をお薦めします。
5.3 残差流(ざんさりゅう)の役割 ―長時間の物の動きを決める―
瀬戸内海における海水の流れは潮流だけではありません。潮流のほかに、潮流と地形の効果が重なって発生する潮汐残差流(ちょうせきざんさりゅう)と呼ばれる一方向への流れも存在します。また風が吹けば吹送流(すいそうりゅう)が発生し、河川から淡水が海に流入すると軽い河川水と重い海水の密度差のために密度流(みつどりゅう)が発生します。このような密度流を河口循環流(かこうじゅんかんりゅう)と呼びます。
それらを足し合わせた流れ(残差流(ざんさりゅう)と呼ばれます)の速度は、潮流の速度より遅いのですが、ほぼ一定の方向に流れ、潮流のように約6時間ごとに流れる方向が真反対にはならないので、数日間や数ヶ月といった長い時間スケールの物質の輸送には、往復流である潮流よりも重要な役割を果たします。
残差流は、常に同じ速さで一定方向に流れるわけではなく、風向や風速の変化に応じて、流速や流向を変化させます。また河川流量が多くなったり、少なくなったりしても残差流は変化しますし、夏季や冬季といった季節によっても変化します。
しかし、潮汐残差流は大潮・小潮でその流速は変化するものの、1年間を通じてほぼ一定方向に流れます。瀬戸内海の残差流の中では、平均的には潮汐残差流が最も大きな影響を与えていて、潮汐残差流に吹送流と密度流を加えた瀬戸内海の上層における平均的な残差流の流向は図のようです。
一方、下層の残差流分布は、未だはっきりとはわかっていません。しかし、瀬戸内海では1年間を通じて、内海水の密度が外海水の密度より小さいので、軽い瀬戸内海水は上層を太平洋に向かって流れ、重い太平洋水は底層を瀬戸内海に浸入してくるような、河口循環流(かこうじゅんかんりゅう)のような密度流が最も大きな影響を与えていると考えられます。したがって、下層では、備讃瀬戸より東部では西向きの、備讃瀬戸より西部では東向きの残差流が存在していると予想されています。
瀬戸内海の上層の平均的な残差流の流向
5.4 成層(せいそう)の効果 ―海水の上下混合を妨げる―
海水は水温が高いほど軽くなり、塩分が低いほど軽くなります。したがって、海面が暖められたり、河川水が流入したりすると、上層の海水は軽くなり、下層の重い海水の上に上層の軽い海水が乗った状態になります。このような状態を成層(せいそう)と呼びます。
成層が発達すると、水温や塩分が上層と下層で混合しにくくなるばかりでなく、溶存酸素は上層から下層へ輸送されにくくなり、逆に、栄養塩は下層から上層へ輸送されにくくなります。その結果、生物の活動や物質分布に大きな影響を与えることになります。6.4節で述べる「貧酸素水塊(ひんさんそすいかい)」は成層が発達し、上層から落下した有機物が下層で分解されて、下層の溶存酸素を消費することによって発生します。
瀬戸内海では、太陽高度が高くなって海面の加熱量が大きくなる夏季に、各灘の中央部など、潮流流速の遅い、そのため鉛直混合のよくない(上層の海水と下層の海水が混ざらない)海域で成層が発達します。しかし、海峡部の周辺など下図の網掛け部では、強い潮流のために夏季でも上層と下層の海水がよく混合されて、成層が発達しません。
また、下図の網掛け部とそうでない部分の境目には、海峡付近の冷たい海水と、灘中央部の暖かい海水の境に顕著な不連続線(=フロント=潮目(しおめ))が出来ます。潮目に向かって上層の海水は収束(集まってくる)するので、潮目には植物・動物プランクトンが集められます。それを食べるために魚もやってくるので、潮目は良い漁場となります。
瀬戸内海で夏季、海峡の両側に発生する潮目は海峡部の強い潮流と灘部の弱い潮流の境目に発生するので、特に「潮汐(ちょうせき)フロント」と呼ばれます。
夏季の成層域(白抜き部)と鉛直混合域(網掛け部)の分布
成層域と鉛直混合域の境目に潮汐フロントが形成される
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