これからの障害当事者参加とその役割
村田拓司(東京大学先端科学技術研究センターバリアフリープロジェクト)
e-mail: murata@bfp.rcast.u-tokyo.ac.jp
1. 問題の所在
「まち」には多様な人々が生活している。しかし、これまでは、健康で若い男性を基準にまちづくりが展開されてきたと言える。その結果、「まち」は障害者・高齢者にとっては、バリアの多い住みにくいものとなっていた。これに対して、近年、女性、子どもや高齢者にも住みやすい「まち」が意識され、そして、多様な生活者の中で病気や障害により最も困難を強いられている人々にもやさしい、誰にとっても住みやすい「福祉のまちづくり」の理念が定着してきている。
本来、社会は、老若男女、障害の有無を問わず、多様な人々により構成されるものである。そして、「まち」も、老若男女、障害の有無を問わず、一人一人が自立した市民として、安心して快適に住まえるものでなければならない。その意味で、「誰にも住みやすいまちづくり」という視点が必要なのであって、決して障害のある人々が「福祉」の対象として、その恩恵を受ける客体と位置づけられるのではなく、多様な生活者・市民として主体的にまちづくりに参加していくものであるという理解が肝要である。障害当事者参加のまちづくりも、その観点から捉え直されなければならない。
近年、「バリアフリーなまちづくり」といった理念の下、障害者本人も、まちづくりの当事者として参加する場面が増えてきた。それ自体は良いことであるが、果たして障害者本人が、懇談会や「まち歩き」による体験調査に参加すれば、それで事足りるのであろうか。例えば、よく行われる「まちのバリアチェック」のような企画で、ある視覚障害者から出された要望を元に点字ブロックを敷設したところ、他の視覚障害者からは判りづらいという声があがり、行政当局が苦慮するといった話は、よく聞かれるところである。確かにある地区の点字ブロック整備といった限られた目的でなら、それも一つの方法である。しかし、「まち」全体を誰もが住みやすいものにするという目的でならば、単に、障害者本人を1人・2人呼んで、その要望を聞いたり、ある場所の点字ブロックの敷き方の良し悪しをもって一般化したりすることが、「当事者参加のまちづくり」ではないはずである。まちづくりへの障害当事者参加について、幾つかの課題を検討する。
2. 検討すべき視点
(1)障害参加者の当事者代表適格性:参加した障害者本人は、少なくともその属する障害種別の代表者としての能力を有しているか。
よく行われることに、その地域の障害者団体の役員といった「声の通る人」を呼んで、当事者としての意見を聞くことがある。しかし、人によっては、個人のニーズは語れても、まちづくりの知識や、障害特性の知識すら乏しい人もある。また、「声が通らない人」をも代弁できるかどうかも配慮する必要がある。
(2)課題提示の客観性:1人・2人といったごく少数の、しかも限られた種別の障害者の個人的ニーズは、客観的な課題提示といえるか。
これまでは、特に困難の重大な全盲者や車いす使用者を呼んで、当事者の意見を聞くことが多かった。しかし、まちには、弱視者もいれば、車椅子使用者でも介助なしには移動できない人、聴覚障害のある人も住んでいる。このような多様性に配慮する必要がある。
(3)課題の選択序列の妥当性:多様な意見・要望が出る中で、その優先順位付けや選別整理をどのようにしてなすべきか。
複数の当事者を呼べば、その数だけの意見や要望が出る。それをいかに選別し、優先順位付けできるかが重要になる。それには、まちづくりの目的がまち全体の視点に立ったものか、その地域限定や点字ブロック敷設の当否のものかといった目的の明確さが鍵になる。
(4)課題の生活密着性:限られた時間内に行われるバリアチェックのような企画では、「まち」の生活者として住まう障害者のニーズ、日々感じているバリアを汲み取ることができるか。
単なる点字ブロックの敷き方の当否などでなく、障害者の生活者としての視点からの検討が必要である。
(5)参加の主体性:参加した障害者本人は、単なる調査対象者にとどまるのか、まちづくりの主体として参加するものと位置づけるのか。
単に当事者を呼んで話を聞き置くだけでなく、これからは、障害当事者が体験会を指導するなど、より積極的、主体的役割が期待される。
(6)課題の共有可能性:障害者本人の体験や、提示する課題について、他の一般参加者に共感的理解、あるいは体験の共有化が得られているか。
障害当事者の話を聞いたり、ともに歩きながらバリアをチェックしてもらったりするのにとどまらず、疑似体験のような手法を用い、当事者の抱える困難を実感し、その体験を共有できる取り組みが必要である。
3. 先端まちづくり学校におけるバリアフリープロジェクトによる「気づきのまち歩き」の取り組み
東京大学先端科学技術研究センター先端まちづくり研究ラボでは、文部科学省科学技術振興調整費・戦略的研究拠点「人間と社会に向かうオープンラボプロジェクト」として、東京大学先端まちづくり学校(社会人向け)を実施している。その第7期のテーマとして「バリアフリーとまちづくり」に関するワークショップを開催した。期日は2003年12月20〜21日、主催は東京大学先端科学技術研究センター先端まちづくり研究ラボ(ディレクター:大西 隆)で、東京大学先端科学技術研究センターバリアフリープロジェクト(ディレクター:福島智)が共催してワークショップを実施した。ワークショップの主旨は、以下の通りであった。
「多様な生活者の中で最も困難を強いられている障害当事者の視点で、まちを見直し、バリアフリーのまちを創造するポイントについて共感的に理解することを目指します。実際に「まち」歩きをしながら、障害当事者の視点の重要性を実感し、疑似体験の手法を用いて障害当事者の体験を共感的に理解していきます。また、障害当事者を含め、様々な立場や考え方をもつ人が協調し、誰もが安心して住めるまちづくりのための解決策を議論しながら、まちづくりの過程を修得します。」
本ワークショップは、当事者の視点で障害のある人の生活への「気づき」を深めることを主たる目的にした。以下、本ワークショップの主なポイントを示す。
(1)多様な種別の障害者が複数関与したこと:これまでの個人的意見の聴取や、せいぜい全盲と車いす使用者くらいだけがまち歩きしたものと異なる。広い視野からの取り組みといえる。
(2)生活に即した筋立て:これまで単に点字ブロックのチェックなど、主催者の立てた筋に沿ったバリアチェックに留まっていたものと異なり、車いす使用者と恋人がまちに出かけた場合など、障害者の生活に即した視点からまちにある困難についてのチェックポイントが組まれた。
(3)チェックポイントに優先順位をつけたこと:しかも、単にチェックポイントを並列的に並べてチェックするのでなく、当事者の視点からそれに優先順位をつけて、筋立てを考えた。
(4)当事者により先導されてのまち歩きだったこと:上記のチェックポイントを、当事者の先導に従い、その説明を聞きながら確認していった。
(5)疑似体験による共感的な理解が深まったこと:疑似体験により体験の共有化ができ、実感を伴った共感的理解が深められた。
なお、東京大学先端まちづくり学校やワークショップの概要を参考資料1に、ワークショップのコンセプトを参考資料2に示した。
<参考資料1> 東京大学先端まちづくり学校とは?
文部科学省科学技術振興調整費・戦略的研究拠点:人間と社会に向かうオープンラボプロジェクト
東京大学先端まちづくり学校(社会人向け)
実施主体:「先端まちづくり研究ラボ」の概要
経緯と位置づけ:科学技術振興調整費戦略的研究拠点育成部門のオープンラボ型研究組織の一つ。
設立目的:分権化や都市再生により必要が高まっている、NPO、地方自治体、産業界、海外実務者等における知識、技能アップの教育・研修需要に応えることです。
実施機関:先端まちづくり研究ラボでは、東京大学先端科学技術研究センター(都市環境システム分野ほか)を中核機関に、東京大学工学系研究科都市工学専攻、経済学研究科、法学研究科、農学研究科などの本学関係研究者や他機関関係者の協力、民間研究機関、NPO、自治体、政府関係機関などの協力で、研究開発を進めています。
東京大学先端まちづくり学校のねらい
「自分たちでルールを決めて、自分たちで街を創ろう」とする街づくりの大きな流れが、いま各地で、起こっています。街の経済を支える新たな産業を起こし、快適な街の空間を創造し、歴史や文化を生かしていくことは、やりがいのある仕事です。先端まちづくり学校では、このような創造的観点から都市再生を担う人材を育成するべく、東京大学の蓄積を生かし、さらに学外の専門家の協力を得て、民間企業、NPO、自治体等で働く社会人を対象に、多難な時代に力を発揮するまちづくり専門家を輩出しようというねらいで発足させるものです。
東京大学先端まちづくり学校第7期「バリアフリーとまちづくり」の概要
近年、「ハートビル法」や、「交通バリアフリー法」等、障害者・高齢者等を含め、誰もが安心・安全に生活できるまちづくりのための様々な取り組みや法整備が進みつつあります。バリアフリーのまちづくりを実効性のあるものとするためには、建築・都市計画関係のみならず、福祉・保健・医療・機械・情報関係など多様な分野の情報を共有し、利用者、行政関係者、各分野の専門家、事業者等が相互に連携を深めていく必要があります。そこで、バリアフリーに関わる専門知識を深めると共に、ディスカッションやワークショップを通じて、受講生同士の情報交流や意見交換等を行います。ワークショップ1では、多様な生活者の中で最も困難を強いられている障害当事者の視点で、まちを見直し、バリアフリーのまちを創造するポイントについて共感的に理解することを目指します。実際に「まち」歩きをしながら、障害当事者の視点の重要性を実感し、疑似体験の手法を用いて障害当事者の体験を共感的に理解していきます。また、障害当事者を含め、様々な立場や考え方をもつ人が協調し、誰もが安心して住めるまちづくりのための解決策を議論しながら、まちづくりの過程を修得します。ワークショップ2では、ワークショップ1での体験・理解をふまえ、障害当事者を含め、様々な立場や考え方をもつ人が協調し、誰もが安心して住めるまちを実現するために必要な実効性ある解決策について深く議論し、各自が携わるまちづくりの現場にフィードバックできる心と知識を習得することを目指します。
<参考資料2> 東京大学先端まちづくり学校 第7期「バリアフリーとまちづくり」資料(2003年12月)
まちづくりにおける「障害当事者とのまち歩き」と「障害疑似体験」の意義
−多様な人の住まう「まち」への気づきを目指して−
中野 泰志(東京大学先端科学技術研究センター)
1. はじめに
「まちづくり」において、当事者(ユーザ)参加を促す試みは数多くなされています。当事者参加の主な意義としては、a)実際にまちを活用する当事者のニーズに基づいた設計ができる機能的側面、b)当事者が設計に参画するとまちに対する心理的評価が向上し、利用が促進される心理的側面が挙げられます。したがって、より多くの当事者と共に「まちづくり」をすることで、機能的にも心理的にも満足度の高い「まち」を創造することができると考えられるわけです。
ところで、当事者とは誰でしょうか? 「まち」の中に息づくのは、その地域に生活している「生活者」です。違う地域に住んでいる開発者・設計者主導から生活者主導のまちづくりが重視されるようになったのは、「生活」の視点が重要だからです。では、その地域の「生活者」とはどのような人達なのでしょうか? ばりばりと仕事をしている「大人」だけではなく、家庭を守っている主婦や主夫、子供達、高齢者など多様な人々が生活を営んでいます。また、それぞれの活動の仕方が異なるため、それぞれが「まち」に求める機能も異なります。例えば、小さな子供達には、様々な生物や友達と出会える場が必要ですし、子育て中の親には、子供達が安心して過ごせる安全な場や子育ての仲間が集える場が必要です。さらに、現在、住んでいる人達だけでなく、未来に向けて、将来、こんな人達が、こんな暮らしを営める「まち」に変えていきたいというニーズも考えていく必要があります。
このように「まち」の中に息づく当事者の中には、多様性があります。その多様性の一つに障害のある人もいるわけです。この多様性に気づき、様々な視点で「まちづくり」を考えていくことが豊かさだと思います。
2. 当事者の視点の重要性と当事者を代表する困難さ
2.1 相手の内面を自分の問題としてリアルに想像する重要性
最近、乳幼児の虐待のニュースが後を絶ちません。自分の子供を、しかも乳幼児を虐待するなんて、信じたくない話です。ところで、ニュースでは虐待をした人のことを凶悪な人のように扱っていますが、その人だけが悪いのでしょうか? なぜ、虐待をせざるを得なかったのでしょうか? 自分が同じ立場だったら虐待は絶対にしない自信があるでしょうか? 自問自答は続きます。ここで問題にしたいのは虐待の話ではなく、相手を理解することの大切さと難しさです。
ニュースでは同世代の子供をもつ母親へのインタビューが始まりました。小さな子供をもつ親たちは、ひどい事件であることを口々に言いながらもほとんどの人が「でも、いらいらする気持ちはわかる」と述べています。乳幼児の育児に悩む同じ立場の人間として、共感できる部分もあるということです。育児の大変さは言葉で説明しただけでは実感するのが困難です。したがって、子育ての経験の有無でこの事件の見方も変わってくるのだと思います。さらに言えば、今、同じように子育てに悩んでいる状況にあるかどうかが大切です。かつて、経験したことがあっても詳細を忘れていれば、理解は異なってくると思います。
「信じられない」という傍観者的理解や「虐待は子供の精神的発達にとってよくないからやってはいけない」という理想論的理解ではなく、どんな気持ちなのかという当事者の内面的な観点からの理解が大切です。そして、その観点から問題解決に近づいていく必要があるのだと思います。子育ての例で言えば、昔と違って現代の日本では子育ては母親に大きな精神的負担をかけているのだから、子育て支援の必要性とあり方を再検討する必要があるという結論が導き出されるわけです。そして、今の母親のニーズに応じた利用しやすい子育て支援を具体化し、それが機能しているかどうかをチェックしていくことが大切なのでしょう。育児ノイローゼのことは以前から問題になっていたわけで、そのときに適切な対策が練られていれば、今回のような状況にはならなかったかもしれません。当事者的観点での理解が足りなかったのだろうと思われて仕方ありません。
さて、育児の話から入りましたが、障害のある人を理解するのも同じように考えていく必要があると思います。福島(1997)は、障害のある人と接する者に、どこまでその人の内面を自分の問題としてリアルに「想像」できるかを問いかけています。相手のことを完全に理解することは誰にもできませんが、相手の立場や気持ちを理解しようとする不断の努力が必要なわけです。「アルジャーノンに花束を」の作者であるダニエル・キイスも来日講演の中で、暴力を減少させる方法の一つとしてエンパシー(共感:他人と感情を共有する)と呼ばれる資質の重要性を指摘しています(早川書房編集部, 2001)。
2.2 相手の立場になる難しさ
「親の心、子知らず」という諺があります。相手の立場になってみないと、相手の気持ちがわからないという意味です。もちろん、一度経験したからと言って相手の立場がわかるわけではありません。
「私の親って、子供の気持ちがわかってない」と子供の時には多くの人が思ったはずなのに、すべての人が子供にとって理想的な親となれるわけではありません。つまり、いくら自分のためでも頭ごなしに言ったのでは、心に響いてこないことは、自分が子供のときに経験していたはずなのに、いざ、親の立場になったらそれができない、わからないことがあるわけです。もちろん、自分の子供時代の経験に基づいて、子供の立場で子育てができる人もいます。この差は、絶えず相手の内面を理解しようとする態度を持っているかどうかの違いだと思います。
障害についての理解にも同じような構造があります。障害のある人の中にも、障害を告知されたばかりの人の気持ちをすぐに思い起こして共感できる人とそうではない人がいます。同じ経験をしていても、現在の状況や立場が異なれば、相手の立場になるのが難しい場合があるわけです。さらに、時代や地域や社会的地位等が異なれば、相手の立場で物事を考えるのはさらに難しくなります。
2.3 バリアに対する感受性
2003年度の東京大学バリアフリーシンポジウムにおいて東京大学人文社会系研究科博士課程の星加良司さんが、「バリア・センシティビティ」という言葉を紹介してくださいました。バリア・センシティビティとは、社会の中にある様々なバリアに対する感受性のことです。障害のある人は、日々、バリアに遭遇しているので、必然的にバリア・センシティビティが向上します。しかし、同じ障害者でもバリア・センシティビティが高い人とそうでない人はいます。一方、自分には障害がなくても、障害のある人の支援や相談等を担当している人の中には、高いバリア・センシティビティを示す人もいます。もちろん、福祉関係の仕事をしていながら、バリア・センシティビティが低い人も少なくありません。バリアフリーの「まちづくり」においては、バリア・センシティビティの高い人と共に「まち歩き」をし、バリアを検証していくことが大切です。
2.4 当事者を代表することの重要性と困難性
障害のある人には、バリア・センシティブな人が多いと思われます。したがって、「まち歩き」に際して、障害当事者と共にチェックしていくことは重要です。しかし、一人の障害当事者とチェックしただけでよいのでしょうか? また、何人の障害者と一緒であれば、大丈夫なのでしょうか?これは、極めて難しい問題です。
障害当事者は、障害のない人に比べて、バリア・センシティビティは高いわけですが、同時に、それは個人としての体験でしかないわけです。したがって、そのときに気づいたバリアにしか言及できませんし、他の障害者がどう感じているかは、調べなければわからないはずです。例えば、視覚障害の人の中には、全く視覚を活用していない全盲の人とある程度、視覚を利用している弱視(ロービジョン)の人がいます。さらに、弱視の人の見え方は、多様で、まぶしさのあるため明る過ぎるところが苦手な人もあれば、明かりが必要な人もあります。したがって、視覚障害と一言に言っても、その多様性を代表するためには、自分の経験だけでなく、様々な人の経験やニーズ等を知る必要があります。もちろん、他の障害も含めて、障害全体を代表することは、簡単ではありません。
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