【提言1】
金正日の核武装の恐るべき実態を直視せよ
昨年7月1日付の米ニューヨーク・タイムズ紙は、「龍徳洞に高度な核兵器実験場があることを米偵察衛星が確認した」というCIA情報を掲載した。1週間後の7月9日、韓国国家情報院の高泳グ(X)院長は、非公開の国会情報委員会で、「北朝鮮の平安北道亀城市の龍徳洞で起爆実験をおこなっていることは、すでに把握している。ここでは70回以上の起爆実験がおこなわれた」と証言し、「実験は97年から02年9月にかけて実施され、韓国政府は98年4月以来、事態を把握していた」と証言した。この証言によって、当時の金大中政権は、北朝鮮が南北非核化宣言や米朝枠組み合意に違反して、核兵器開発を進めていることを知りながら、太陽政策を掲げ、現代グループによる巨額の現金授与を認め、金正日独裁政権を支援していた事実が明らかになった。
使用済み核燃料棒から長崎型原爆の材料であるプルトニウム239を抽出し、原爆製造に必要な量を確保したとしても、長崎型原爆の製造においてはインプロージョン(爆縮)方式という精密な起爆装置の開発が最大の難関である。爆縮式原爆は、球体の金属プルトニウムの表面を覆う高性能爆薬が、100万分の1秒という単位で同時発火して、爆発の衝撃波が均等に球体の中心部に向かわなければ連鎖反応は起こらず、核爆発には至らない。爆縮式の起爆薬には燃焼速度の違う炸薬を組み合わせて、衝撃波を外方向ではなく内向きに収縮させる必要があり、この組合せ方法は「爆縮レンズ」と呼ばれている。同時着火システムと爆縮レンズという特殊な構造の起爆装置が長崎型原爆製造の鍵であり、それを完成させるためには何十回もの爆破実験を繰り返す必要がある。
こうした核起爆装置の実験は、過去にも確認されている。1986年3月、米偵察衛星は、平安北道寧辺の分江地区を流れる九龍江の川岸の砂地に、高性能爆破実験跡が数多く残され、クレーターとなって水が溜まり、起爆用の電気コードなどが散乱している状況を撮影した。衛星写真を精査すると爆発痕は、1983年以降から存在していたことが判明した。韓国の権寧海国防相(当時)は、1993年3月、国会の国防委員会において、「北朝鮮は1980年代に70回以上の起爆実験を通じて核起爆装置の開発を終え、IAEAの査察に先立って実験場の痕跡を片付け、証拠湮滅をおこなっていることが確認された」と言明した。北朝鮮側はIAEAによる寧辺の核開発センターの現地査察のさい、その場所は原子炉の胴体整形のための衝撃波実験場であると説明した。92年のIAEA査察直前に寧辺の実験場は閉鎖されたが、実験場は平安北道亀城市の龍徳洞に移され、94年の米朝枠組み合意によって核開発が凍結された後も、金正日は密かに起爆実験を続けていたのである。
龍徳洞付近の鮮明な衛星写真を入手して分析してみると、核起爆装置実験場は東倉江の二股から北東800m地点にある空き地にあり、少なくとも7つの爆発痕があることが判明した。また、北方に延びる舗装道路の終点(二股から2.7km)の森のなかにも、核起爆装置実験場があることが確認できた。
1990年2月22日、旧KGB(ソ連国家保安委員会)のヴラジミル・クリュチコフ議長とKGB第2総局第16局のスモロフ大佐が連名で作成した『北朝鮮の核兵器開発問題について』と題する極秘文書(90年2月8日付のNo363K)が、ソ連共産党中央委員会に提出され、そのなかで「寧辺にある核開発センターで核起爆装置が完成したとの情報を得ている。この装置を使った実験は、国際社会と国際管理機関に、原子力兵器生産の事実を知られることを懸念して、現在のところは計画されていない」と報告したことが明らかになっている(92年3月14日付の発行部数2600万部を誇るロシア紙『論拠と事実』が掲載)。
北朝鮮が核爆弾を保有している根拠のひとつは、この核起爆装置の完成と起爆実験場の存在である。起爆実験は1983年から開始され、少なくとも2002年まで継続されていたのである。
また、北朝鮮は一昨年来の「自白外交」によって、核開発の事実を次々に認めているが、そうした発言は1990年まで遡ることができる。
1990年9月2日、当時のソ連外相シェワルナゼが、韓国との国交樹立を北朝鮮に通告するために訪朝した。シェワルナゼ外相は金永南外相と会談したが、その2週間後の9月19日付北朝鮮政府機関誌『民主朝鮮』は、ソ連政府に手渡された「備忘録」の5項目の一部で「ソ連が南朝鮮と外交関係を結べば、朝ソ同盟条約を自ら有名無実なものにすることになろう。そうなれば、われわれはこれまで同盟関係に依拠していた一部の兵器も自力で造る対策を講じざるを得なくなるだろう」と告げたことを公表した。また、90年11月29日付ソ連紙『コムソモリスカヤ・プラウダ』も、金永南外相がシェワルナゼ外相に対し、「ソ連が韓国と国交樹立するのであれば、われわれはもはや核兵器製造禁止の義務を負わなくなったものとみなす」と警告したという同紙平壌特派員の記事を掲載した。この金永南外相の発言は、北朝鮮の核保有を信じるロシアの学者の有力な根拠のひとつとなっている。
ここで、もう一度、北朝鮮の核保有が伝えられた経緯を振り返ってみたい。
1992年1月22日、米上院軍事委員会の公聴会で国防情報局(DIA)のクラッパ局長は、「北朝鮮は2〜3年内に核兵器を保有すると判断している」と証言した。また、93年2月24日、ウルジー米CIA長官は上院議会で「北朝鮮は最小限1個の核兵器を製造できるプルトニウムをすでに確保している可能性が高い」と発言した。続く、3月17日、韓国の金悳国家安全企画部長は非公開の国防委員会において「北朝鮮では昨年〔92年〕中盤、金日成・正日父子に対して、核実験を実施したいとの建議があったが、現状では不適切と判断され保留された、との情報を入手している」ことを明らかにした。
この金悳国家安全企画部長の秘密報告は、1997年に韓国に亡命した黄長 元書記の証言とも一致する。去る3月に東京財団研究プロジェクトの一環として韓国を訪問した際に面会することができた黄長 元書記は、以下のように語った。
「国際担当書記だった93年か94年、軍需担当書記の全秉鎬が、地下核実験の準備が完了した、と金正日に報告したが、地下核実験は裁可されなかった」
この発言の年代は、記憶違いで、92年の可能性が高い。
こうした状況のなかで、93年7月14日、米下院共和党調査委員会の「テロおよび非通常戦争特別研究班」が報告書を発表し、「北朝鮮が使用可能な核爆弾を持っているということには疑いの余地はない」と指摘した。10月12日には、ペリー米国防長官が「北朝鮮の核開発が完了段階にあり、最悪の場合、現実的に核戦争勃発も想定できる」と発言した。そして、12月26日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、CIAがクリントン大統領に対し、「北朝鮮は1-2発の核爆弾を開発した可能性がある」との報告書を提出した、と報道した。94年に入ると、4月3日、ペリー国防長官がNBCの番組に出演し「北朝鮮が核兵器をすでに1個ないし2個保有している可能性があり、年間に12個かそれ以上の核兵器を製造できる核開発に着手している」と言明した。4月5日発売の米誌『タイム』は、米政府は北朝鮮の少数の核兵器の存在を容認する方針に転じた、とも報道した。
以上のような経緯から、北朝鮮は94年4月以前にプルトニウムを原料とする数発の核兵器を完成していたため、94年10月の米朝枠組み合意では素直に米側が把握している核施設の凍結に応じたものと考えられる。逆に言えば、米朝枠組み合意に応じた事実こそが、北朝鮮の核保有を示唆している。
その後、金正日が、パキスタンのカーン原子力研究所の協力を得て、ウランの濃縮工場の建設に取りかかったことは周知の事実である。工場は平安北道北部の山岳地帯のなかに分散されていると推定される。
本プロジェクト西岡委員は、「江界国防大学ミサイル関係教授の証言とモニア・アマード(仮名)元パキスタン・核科学技術研究所技術者の証言などをもとに、1990年に北朝鮮とパキスタンが秘密核開発協定を締結し、北朝鮮はパキスタンにノドンミサイル製造技術を、パキスタンは北朝鮮に濃縮ウラニウム製造技術を提供し、ノドンに搭載できる小型起爆装置を共同開発して、1998年5月パキスタンでその小型起爆装置を用いて核実験を成功させた。パキスタンのガウリミサイル、すなわちノドンミサイルには現在核弾頭が搭載されているから、共同開発をしてきた北朝鮮が起爆装置小型化技術を持っていないと考える方がおかしい」(詳細は『正論』2004年5月号西岡論文参照)という説を唱えている。
ウラン濃縮プログラムが明らかになった結果、アメリカは、「検証可能かつ不可逆的な廃棄」を求め、03年に六者協議が開催された。しかしながら、北朝鮮はブッシュ政権がイラク戦争に多忙であることを見透かして、協議に出席してアリバイづくりをするだけであった。04年2月の2回目の六者協議においても、北朝鮮は、ウラン濃縮プログラムの存在を否定する不誠実な対応であった。
私たちは、北朝鮮が核弾頭を開発し、核ミサイルを実戦配備するという金正日の核武装を決して許してはならない。本研究プロジェクトでは、今後はより積極的に衛星写真を活用して、北朝鮮の核開発の実態を解明していくつもりである。
(惠谷 治)
X=老に句
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