1999年10月号 Voice
溶けてゆく中国
渡辺利夫(わたなべとしお)
(東京工業大学教授)
田中明彦(たなかあきひこ)
(東京大学教授)
国有企業の改革が最大のテーマ
渡辺 中国の経済成長率ですが、九三年がピークで、昨年が七・八%でした。ピーク時から昨年まで一度も対前年増加率を上回ったことがないんですね。一方的な成長減速です。現在ではインフレは完璧に抑えられていて、その意味では中国はマクロ的には安定的な成長過程にある。しかし、ひと皮めくって内部構造を見ると、じつに厄介な問題を抱えています。
最大のテーマは国有企業の改革です。財政や金融面でも切迫した課題が多くありますけれども、国有企業改革が進まなければその課題の解決は不可能だというべきです。中国の国家財政は修復不能な赤字を抱えていますが、それは中国の財政制度がまだ社会主義だからです。財政収入のほとんどが国有企業が上納する税金からなっている一方、財政支出の多くが赤字国有企業の欠損補助として出されている。つまり、国有企業が自律的な経営単位にならなければ財政が修復しないというメカニズムになっています。
金融のほうですが、政府の公表によると中国の四大商業銀行の不良債権率が二一%。しかしこの数字は誰も信用していない。四〇%を超えていると推定する人もいます。要するに中国の銀行はパニック寸前なのです。なぜこうなってしまったのかというと、財政赤字で国庫から国有企業支援金が出せないために、国が金融機関にこの支援を肩代りさせたからです。党からいわれれば企業の財務状況のいかんにかかわらず、金融機関は融資せざるをえない。銀行が大量の不良債権を抱えてしまったのは致し方ありません。
田中 中国は一九七〇年代後半から二十年間にわたって資本主義化してきましたが、そのプロセスはソ連と比べればかなり管理されたかたちであり、政治体制を壊さないようにうまくやっていた面があります。中国の指導者はそのことを非常に誇りにしていたと思います。ところが国有企業はなかなか徐々にというわけにはいかない。社会主義から資本主義に動くときの根幹の部分ですから。その辺の苦しみがいま中国に出てきているのかなという感じです。
渡辺 そういっていいでしょうね。国有企業改革でやろうとしていることの一つが、「抓大放小(大を抓んで(つかんで)小を放つ)」です。鉄鋼や石油化学、ハイテク部門など戦略的な国有大企業を選定(「抓」)して、ここに改革を集中する。そして中小、とくに地方政府傘下の中小国有企業は市場のなかに放り投げる(「放」)。社会主義とは思えない手荒さです。その結果、大量の失業が発生しています。
もう一つは株式制の導入です。この導入が本格化すれば、これまで三人の仕事を五人でやってきた国有企業において、当然二人のクビは切られます。ここでもまた失業者が出てきます。中国の責任ある指導者の発言によれば、むこう三年ほどで一千万人ぐらいの失業者が出るのが不可避だということです。国有企業の余剰人員はすでに二千万人ですから、合計すると三千万人。国有企業の総就業者数一億一千万人のうち三千万人というのは、すさまじいスケールだといわざるをえません。
田中 そこが国有企業改革を進める過程で社会的不安定が増しているという状況ですね。
渡辺 そこが問題なのではないでしょうか。現在の中国では、社会的不安定性を収拾する政治的なメカニズムのほうは日に日に弱くなっているように見えます。末端機構の党員の目はもう中央と政治には向いていない。拝金主義的な風潮が濃厚です。共産党一党支配の末端が市場経済のなかにズブズブと溶けているような感じです。
国有企業改革との関連でもう一ついいますと、共産党一党支配の政治的核心は、共産党の公的文献によれば、国有企業内の党委員会だということになっています。ところが株式制を導入すると、国有企業内党委員会は有名無実にならざるをえません。経営者と共同して企業の利潤を上げなければ自分の存在意義が証明できなくなるからです。そうすると株式制の導入により一党支配の政治的核心が市場のなかに溶けていってしまう。党の政治権力の基盤は非常に軟弱なものになっていかざるをえないと私は見ています。
田中 小平体制から江沢民体制に至るプロセスは、指導者層の部分だけを見ていれば非常にうまくいきました。 小平が死んでもとくに何の混乱も起きなかった。その後、江沢民に対するカリスマ的な評価は上がらなかったけれども、共産党体制という枠組みだけを見れば、彼にチャレンジしようとする存在はいません。
ところが、その一方では二十年間の経済改革、とくに天安門事件以降の急速な市場化のなかで党の足腰が怪しげになった。中国の政治体制は基本的に中国全土を治めるネットワークとして、人民解放軍の全国ネットと中国共産党の政治面での全国ネットの二つがあります。この全国ネットのかなりの部分が渡辺先生のおっしゃった党委員会で、その党委員会のなかでもっとも重要なのが国有企業の党委員会。ここがしっかりしていることが共産党の全国ネットを支えていました。ところがその中国共産党のネットワークの意味自体が、改革開放の過程のなかで弱くなってきた。しかも、中国共産党と人民解放軍だけが全国ネットだと思っていたところが、たとえば法輪功のような、ともすれば共産党よりも巨大な全国ネットができてしまった。これは中国の指導者にとっては恐るべき話でしょう。
渡辺 怯えているから、強い力で踏み潰そうとするのでしょうね。
田中 しかも最近の新聞によれば、香功という――これも気功だと思いますが――法輪功と同じくらいのネットワークがあるという。百年前の「義和団」も、もっと前の「太平天国」もそうですが、中国の統治機構が弱まったときに出てくる秘密結社の類い、あるいは農民運動の類いの集団に対する恐怖が、おそらくいまの共産党にはあると思います。
加えて、法輪功の指導者はほとんどニューヨークにいて、そこからインターネットか何かでメッセージを送っているそうです。このようにある種のテクノロジーを利用して全国ネットができてしまうというところも、共産党の指導者から見ると怖いところではないでしょうか。
政策オプションが枯渇しはじめている
渡辺 なぜ中国の政治統治のシステムが軟弱になったのかといえば、これはまぎれもなく改革開放の帰結です。つまり、一党支配下の改革開放ですから一元的な権力構造と多元的な経済構造との矛盾をもともと抱えています。もちろん 小平の時代にも、その矛盾は存在していたけれども顕在化しなかった。 小平の中国は貧しかったからです。当時の改革開放は生活が日に日によくなり、経済成長が臨場感をもって国民に受け入れられていた。一元的権力がそれほど強い圧迫感を国民に与えることもなかった。しかし、江沢民が権力継承をした九四年ごろになると中国人の腹も満ち、政治・社会の多元化を求める分散的な動きが中国を覆うようになったのだと思います。
そのことは江沢民もよくわかっているのだと思います。江沢民の主張のキーワードは「安定」「団結」です。 小平のキーワードが「生産力の発展」「国力の増強」「人民生活の向上」であったのとまことに対照的です。
江沢民の最初の重要演説が「十二大関係論」です。その第一項が「改革・発展・安定の三者関係を論ずる」です。「改革も発展も安定がなければ実現できない」というわけです。それではどうやって安定を築くのかというと、「社会主義精神文明の確立」が必要だと彼は繰り返し熱心に説いています。
いま中国の街を歩いていても目に入るスローガンは「精神文明の確立」「熱愛祖国」「中華振興」などナショナリスティックなものばかりです。ユーゴでの大使館誤爆事件後の愛国主義的キャンペーン、昨年秋に来日した江沢民の日本人の歴史観についての執拗なばかりの発言、李登輝発言に対する異常とも思える激しい反論、これらは江沢民の政治指導の現在のありようを、ある意味ではシンボリックに示しているように私には見えます。
田中 コソボで誤爆があったり、李登輝が変なことをいってくれると、中国共産党の指導に対する国内の批判を外に向けさせることができるから都合がいいわけです。中国共産党がいないと中国はまとまらないから、みんな安定団結して江沢民主席を支えましょう、という話になる。
しかしこれは結局、中国共産党の政策オプションが枯渇しはじめているということです。おっしゃるようにかなりの中国人は豊かになりました。豊かになったあとの中国人の自己実現をどう図っていくのか。あるいは豊かになるのを横目で見てうらやんでる中国人に対して、どういう手を差し伸べたらいいのか。豊かになるかと思っていたらレイオフされてしまった中国人にどうアプローチすべきか。それに対して「安定」「団結」「精神文明」しかいえないのは、いかに政策オプションが貧困であるかということです。
本来ならば、社会が多元化した結果として生じた各地域の利益を、どこかで統合して再分配することを考えなければならないのですが、その利益の結合と分配のメカニズムを中国共産党はもっていない。国有企業改革にしても、朱鎔基のような傑出した個人の能力に依存しなければ改革を断行できないというのであれば、やはり政策メニューの貧困だといわざるをえないでしよう。
近代化が進んで産業社会となる過程においては、さまざまな組織が国内で生じるのは不可避です。おそらく法輪功やその他の集団に対処するいちばんいい方法は、それらを取り込むような統治体制をつくることです。ところがそれらを全部排斥して、しかもそのロジックが「愛国主義」「精神文明」「安定」「団結」だけだというのでは、周囲から見ていても心配になってきます。
渡辺 利益の結合と分配のメカニズムをどうつくるかが問題だというのは、そのとおりだと思います。しかしその前に、改革開放過程で実質一〇%近い成長率を保ってきたけれども、その見通しが立たなくなっているところにいまの問題があります。経済成長率は今年も七%程度を見込んでいますが、実現は難しいように思います。今後も持続的に成長率は下がっていくでしょう。高成長への回帰は当分は容易でないと思います。
最大の問題は過剰生産能力です。家電製品も繊維製品も主だった製品はみんな過剰生産で在庫の山を抱えている。もはや中国経済は余剰資源を投入しながら量的な拡大をしていく局面、消費の面からいえば膨大な潜在需要を掘り起しながら量的に拡大していく局面はもう終った。量的な拡大から質的な進化へという難しい局面に中国も突入したということなんでしょうね。
ナショナリズムに依存してしまう理由
田中 いまの中国共産党のことを権威主義政権というのはやや単純かもしれませんが、権威主義政権が正統性を維持しようとするときに依存するものが二つあります。一つは経済成長、もう一つはナショナリズムです。
中国共産党の場合、かつてはマルクス・レーニン主義でしたから、インターナショナリズムに依存して正統性を維持するという面がありましたが、マルクス・レーニン主義が消滅してしまうと、中国共産党の政権がなぜ正しいのかが問題になる。その答えの一つが、「われわれに任せておけば経済成長を実現できる、所得を再分配して公正が実現できる」というものです。
これがうまくいかなくなったとき、権威主義政権はナショナリズムに依存するようになる。「分配をより公正なものにするメカニズムをつくるから安心してください」といえればいいのですが、これがなかなかうまくできない。そのためにナショナリズムに依存してしまうわけです。
しかし、ナショナリズムに依存するのは中国にとっても危険ですし、世界にとっても迷惑な話です。中国が小国ならナショナリズムに依存してもそう問題ではないのかもしれませんが、あれだけ大きな国がナショナリズムに依存すると国際政治を動かしかねません。
コソボでの大使館誤爆のあと、中国は対米関係が悪化しました。それは中国の指導者たちにとってみると、やや具合が悪い。経済を再建するためにはアメリカとの関係が重要ですから。
渡辺 しかし、対米関係は改善したいけれどもナショナリズムも発揚しなければならず、その方向になかなか動けない。
田中 そのとき、ちょうど李登輝さんがああいう発言をしてくれた。おかげでクリントン政権はびっくり仰天して、あわてて高官二人を北京に派遣した。コソボの件はとりあえず置いておいてというかたちになって、ひとまず収まったという格好です。中国の指導者にしてみれば、李登輝さんの発言でかえって助かったという側面があることは否定できないでしょう。
渡辺 李登輝が特別に何か新しいことをいったとは思えないのですけどね。
田中 そうです。クリントン大統領はあわてたにしても、アメリカの議会でも李登輝さんがいったことは当り前じゃないかという声が多い。当り前だという背景の一つは、仮に中国の指導者がクリントン政権と一緒になって李登輝さんを黙らせたとしても、けっして台湾の民衆を黙らせることはできない。台湾のほとんどの人は李登輝さんがいったことはほんとうだと思っているのですから、抑えることなんてできませんよ。
それに対して中国は、われわれも何かするぞと脅かしている。李登輝発言の直後は、われわれは中性子爆弾をつくる技術があるといい、そのあと弾道ミサイルの実験をして、最近は「そのうち島を取るぞ」といっている。こうした脅しは一種の外交ゲームですから、本気かどうかはわかりませんが、ただゲームというのは、場合によると変な方向に走りだしてしまうことがあります。中国共産党の指導者や、人民解放軍の人たちからすると、台湾海峡の一つや二つの無人島を取ったからといってアメリカが介入してくることはないだろうと思うかもしれませんが、そこから次にどういう事態が発展するかは予測不可能な領域になる。
渡辺 そういうところでナショナリズムを煽ると、中国を取り巻く全般的な国際環境を悪化させることになって、中国は対外的な政策オプションの幅をますます狭めてしまうという、つまり「自縄自縛」になりますね。
田中 ですから、いまの中国の指導者には、ナショナリズムに依存することを意図的に避けてほしい。
渡辺 中国の愛国主義は「十九世紀的な」という形容をつけたくなるほど排外主義的になる可能性がある。というのは、歴史を見ればわかるように、中国は元来が分散的な国家です。省単位に権力が分散している。中央と地方をみれば、むしろ地方のほうが伝統的に強い権力をもっています。中華人民共和国は史上最大の帝国を築いた清国の版図をそのまま継承してますから、その分散の度合いはいちだんと大きい。
これを統合するにはものすごいエネルギーが必要です。内部で分散的な動きが出てくると、より強い求心力を働かさなければならなくなる。求心力を強化するもっとも有効な方法が対外的に敵をつくるというものです。つまり、国をまとめるためにはつねに対外的な緊張をつくりだしていかなければならない。しかしそうすると、今度は経済改革と対外開放の問題が解けなくなる。
田中 排外運動を盛り上げて、最後に共産党の指導者が「これでは解けないから」といって腰砕けになったらどうなるか。経済成長とナショナリズムを正統性の根拠としている党が、結局そのとおりに行動できなくなれば、国内的な危機を生み出す可能性もあります。外に向けて誘導したエネルギーは、扱い方を誤れば政権に向ってきてしまうかもしれません。
政治システムの崩壊は防げるのか
渡辺 とにかく経済の問題はかつてない深刻さですね。このデフレ経済を上向きに転じさせるのはたいへんなことです。公共投資や住宅建設に大量の財政支出をしています。ところがすでに中国は修復不能にもみえる財政赤字を抱えていますから、財政支出には限界がある。そこで国債を発行しているのですが、調べてみて愕然としました。中国の財政収入に占める債務収入の比率はすでに五割を超えているのです。先進国で二割を超えている国はありません。明らかに限界です。これ以上進めば、将来の財政は完全にパンクしてしまいます。
一方、市場経済化の速度は格段に速く、財政支出のGDPに占める比率がどんどん落ちて、いまや三%しかない。先進国は平均で二〇%です。三%しかなくてどこが社会主義国なのか(笑)。つまり、財政収入の五割以上がすでに債務収入であり、しかも財政の経済全体に占めるシェアが著しく小さい。財政面から成長を支える力はかつてなく弱体化しているわけです。
だから、たとえば国有企業改革で生じるおびただしい数の失業者に対してセーフティネットが築けない。失業者の増大による社会不安を抑えるためには、年金、失業保険、健康保険のようなセーフティネットが必要ですが、それができないんです。セーフティネットができないから国有企業改革が進まない。国有企業改革が進まないから財政は修復しない。それがゆえにセーフティネットが築けない。解きがたい悩みです。
田中 そこで、渡辺先生にお伺いしたいのですが、解きがたい難問が次々と増大して、中国が爆発したら日本としては非常に困る。解が少しでも出るような空間をつくるためにはどうしたらいいのでしょうか。
渡辺 日本がしっかりするしかないですね。中国の国内的な変数は無数にあって、われわれの理解には当然限界がある。仮に理解できたところで、中国の動向を変化させる力が日本にあるとは思えない。結局のところ、中国で何が起ろうともわれわれの被害が最小に止められるシステム、とくに同盟関係をしっかりと築いておくしかないわけですよね。
田中 中国がとりうる一つの方向としては、この局面に耐えるということもあるのではないでしょうか。経済が破綻しても人間は生きていけるのですから、経済が破綻するなかで社会の崩壊をぎりぎり食い止めることは、政治システムとしてみればそれは最低限の任務ともいえます。そもそも、経済のメカニズムをつねに一〇〇%完璧に巡航速度で保てるような政治システムなんてありません。アメリカだって大恐慌を経験しているわけです。
つまり、経済の問題に解がないなら、政治システムはそれを甘受しなければいけない。甘受して、しかも社会を破綻させない。問題はそれができるかどうかですが・・・。
渡辺 現在の中国の正統性の最大の根拠は、改革開放による国民の生活水準の向上です。経済が破綻して政治システムが壊れないことはありえない。
他面、中国が富裕となるのもまた政治システムの崩壊につながりかねないという厄介さがあります。国民は豊かになり、その豊かさは国家や党の恩恵によるものだという意識があったうちはよかったのですが、自分たちが豊かになったのは自分たちの努力の結果であると考えるようになると、やはりシステムを維持するのは難しくなる。
田中 たしかに中国の政治システムは、共産党体制という強固なシステムであるがゆえに、経済の破綻が政治社会をもひっくり返してしまう可能性が大きい面がありますね。かえって政治システムは頼りないほうが、経済が破綻した場合に社会が混沌としたとしても崩壊まで至らないのかもしれません。
渡辺 改革開放によって経済的な利害が無限に錯綜し、この錯綜する利害の調整ができるような多元的な意思決定メカニズムが中国にあれば、一挙に厄介な局面に突き進むことはないと思います。ところが、 小平以来、改革開放はこれを一党支配のもとで進めるという原則をとりつづけてきました。経済社会の多元化が共産党支配のメカニズムを崩すようなことがあれば、これはすべて叩きつぶそうとしてきたわけですね。天安門事件はその典型です。江沢民の時代になって、政治の多元化の方向に進むのではないかという観測が流れましたが、そのような方向は見えません。
田中 いま多元化を進めるのは怖いのでしょう。とくに文化大革命の記憶がある人たちにとっては、多元化イコール混乱という記憶しかないから、混乱してもそのあと柔構造的に軟着陸させるという発想にはならない。
渡辺 中国共産党にとっての大きなインパクトは、ソ連共産党の惨めな崩落が中国の改革開放過程で起ったことでしょう。あれを見て、党の権力を揺がしたら中国はほんとうに分裂してしまいかねないという恐怖を 小平はもったのだと思います。ソ連の崩壊を見た 小平は、生産力の発展、国力の増強、人民生活の向上以外に中国共産党の正統性を維持する道はないと考えたにちがいありません。
ソ連のような崩壊は免れてきたわけですから、中国の戦略は一面では成功したといってもいいのでしょうが、いま振り返ってみるとこれが中国にとってほんとうに幸せなことだったのかどうか。
黙って見ていれば無数の中国になっていく
田中 そういう状況にあるときに、外部からは「七つの中国」などという中国の分割論も出てきているわけですが、いまの中国共産党の指導部がこのような考えを受け入れることはまずありえないでしょう。ただこの解きがたい、糸の絡まりあったような状態が続いていけば、長期的には何が起るかわかりません。
ひょっとしたら中国にもゴルバチョフのような人であるとか、趙紫陽のような人が出てくるかもしれない。あるいはもっと軍国主義的で強権的な体制をつくろうとする人が出てくるかもしれない。そうした結果として中国が分裂して七つになることはあるかもしれない。
それで先ほどのお話に戻るのですが、周りの国としては「そういう状態の大国が隣にある」ということを覚悟して受けとめる必要がある。その大国を敵視する必要はまったくありませんが、隣の大国は何が起きるかわからない国だと観念して、万が一のときに、こちらが被る被害は最小限に止められるように備えることは必要です。
渡辺 「七つの中国」といったことは、外の人間はあまりいわないほうがいいでしょうね。中国は伝統的に分散主義的な力学の強い社会です。中国には「条」と「塊」というコンセプトがあります。中央を頂点とし、地方つまり「省」を末端とする垂直的な行政系統が「条」です。二十七の「省」のなかで横に広がってる行政系統が「塊」です。伝統中国は「塊」が強く「条」は弱い社会です。
小平は「条」と「塊」を結びつけ「塊」を主とするという原則に立ちました。「条」を否定することはないものの「塊」の力を強める。つまり、 小平のやったことは非常に革新的なことのように見えながら、伝統回帰という側面が強いのです。中国の伝統と相性がいいぶんだけ、 小平路線は高成長を実現する力を生み出したのだと思います。
私は今後、中国では改革開放とともに分散の力学がだんだん強まっていくだろうと考えています。外の人が何もいわなくても、黙って見ていれば中国は無数の中国になっていくのではないでしょうか。
田中 中国は自然に放っておけば伝統中国の形になると思うのですが、それをさせない動きがある。そのひとつが、国際環境に対する中国人の認識です。
渡辺 そうかもしれませんね。
田中 中国には、アヘン戦争以来の記憶からくる「われわれが一緒に頑張らないといつ外国に占領されるかわからない」といった意識がある。それが、伝統中国型の分散した形に落ち着かせない一つの根拠になっています。客観的に考えて、いまの時代に中国を攻め取ろうなんて考えている国はどこにもないんですけどね。もし、中国人の被害者意識が変って、「べつに中国へ攻め込もうという国はないな」という認識を中国人自身がもてれば、中国内部の問題も、台湾との関係などもガラッと変るかもしれません。
それだけに、周囲の国が中国をあまりに敵視したり、「中国の脅威」だとかいったりすると、彼らの被害者意識を継続させることにもなりかねない。ですから、あまり外の人はいわないほうがいい。
渡辺 中国と台湾、中国と日本、中国とアメリカというように、中国と他の国を比べて、中国だけが変らないかのような前提で話をする人が多いのですが、それは間違いだと思います。中国と台湾、日本、アメリカを比べた場合、変化率がもっとも大きいのは明らかに中国です。中国が固定的で周囲が変化するという見通しで中国について語るのは危険ですね。
田中 おっしゃるように変化が大きいのは中国のほうですから、相対的に変化率の少ない日本としては、安定した隣国として冷静に穏やかな目で見て、あまり騒ぎ立てないほうがいいと思うのです。もちろん、何かが起きないともかぎらないことは認識しておく必要があります。たとえば、軍事集団が軍事力でもう一回ナショナライズすることも考えられないことではない。
渡辺 中国は膨大な人口と広大な国土を擁した、しかも分散主義的な伝統をもった社会です。中南海の動向だけで中国をみることはできない。巨大な中国の底辺部で何が起っているのかをつねに探っていくという、恐ろしいほどに面倒な知的努力をわれわれが重ねていかなければ、そしてそういう努力のうえに外交をやっていかなければならないということですよね。
田中明彦(たなか あきひこ)
1954年生まれ。
東京大学教養学部卒業。米マサチューセッツ工科大学大学院修了。
東京大学助教授を経て、東京大学教授。東京大学東洋文化研究所所長。
渡辺利夫(わたなべ としお)
1939年生まれ。
慶応義塾大学大学院修了。
筑波大学教授、東京工業大学教授を歴任。現在、拓殖大学学長。
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