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2004/11/29 PRESIDENT
ソフトウェア先進国中国の驚くべき「産学官提携」
一橋大学大学院商学研究科教授
関満博
藪の中に突然できたソフトウェアパーク
 産学官連携、大学発ベンチャーが二一世紀の世界の大テーマの一つになっているようだが、わが国の事情は悲惨というしかない。世界の主要国の中では最も遅れているのでないか。近隣の諸国を見ても、中国の理工系大学をめぐる状況は際立っている。いずれの大学も果敢に産学官連携、大学発ベンチャーの育成に必死に取り組み、興味深い成果を挙げている。
 この点に関するマスコミの報道は北京シリコンバレーといわれる中関村に偏っている。清華大学、北京大学などの中国の最有力大学の事業の報告が少なくない。確かに、中関村は中国で最初に動きだした地域であり、有力大学も多く、全体としては最も進んでいる。だが、個別の大学で見る限り、遼寧省瀋陽市の東北大学の動きが最も活発であるように見える。この間の事情は、本誌二〇〇三年二月三日号で報告したことがある(伊丹敬之・沼上幹・関満博・加護野忠男『ビジネススクール流「知的武装講座」』プレジデント社、二〇〇四年に再録してある)。
 この秋、大連を訪れると、事態はさらに先にいっていた。民間企業が経営する大規模なソフトウェアパークと、国立大学が経営する会社が設立した私学大学が広がっていたのである。
 一九九八年夏に、大連に進出している日本企業を追いかけにいった。その際、当時、日本の工作機械メーカーとしてはほとんど唯一、中国進出していた日平トヤマを訪れた、その周辺一帯の数平方キロは大連のハイテクパークに指定されているとのことであったが、クルマを降りてしばらく泥道を歩き、藪を抜けてようやく日平トヤマにたどり着くほどであった。
 見渡す限り、藪と貧弱な農地が続いていた。だが、この秋、再訪すると、見事なソフトウェアパークに変身していた。GEキャピタル、シーメンス、デル、IBM、マイクロソフト、エリクソン、ノキアなどのモダンな社屋に交じり、ソニー、松下、東芝、CSK、オムロンなどの日系企業のソフト開発部門が進出していた。入居企業は約一三〇社、うち日系は四〇社ほどとされていた。まるで浦島太郎の気分にさせられた。
 大連ハイテクパークの一部を構成している大連ソフトウェアパーク(第一期)は、三〇〇メクタールであり、ほぼ完成していた。
 わが国にはこれほどのスケールのソフトウェアパークはない。せいぜい一〇〜二〇ヘクタールがいいところであろう。しかも、大連ソフトウェアパークは民間の単独事業として展開されていたことが目を引いた。
 九八年、日平トヤマを訪問の後、合弁パートナーの親会社という億達総公司という民営企業に向かったことがあった。
 総裁に会うと「わが社はもともと、この近くの郷鎮企業であり、八四年に建築の内装企業としてスタートした」と語っていた。その後、八〇年代末に不動産部門に展開、ブームに乗って大きく成功、大連を代表する不動産会社となった。
予算を半減された大学の苦肉の策
 大連の東には中国で最も成功した大連経済技術開発区がある。巨大な工業団地の中に日系有力企業の工場が林立している。それを見ていた億達は、同様のものを大連の西側のハイテクパークの中につくろうとしたが、すでに時代遅れということで、ソフトウェアパークの建設に転じる。私が訪問した九八年から事業をスタートさせていた。
 大連は日本語人材が多く、日本企業誘致を当初から視野に入れていた。個別の土地の分譲も行うが、大半は貸ビルを企業の要望に応じて建てている。すでに第一期の三平方キロは満杯。第二期として、さらに郊外の西側の旅順に近いところに第一期の三倍を超える一一平方キロの計画を進めていた。第二期は自然環境を活かしたを活かした「緑のシリコンバレー」を目指していた。億達が全額出資する大連ソフトウェアパーク株式有限公司が事業主体である。
 この大連ソフトウェアパークの中心的な施設が東軟情報技術学院(正式には、大学の東北大学東軟信息技術学院と、専門学校の大連東軟信息技術職業学院の二つから構成されている)という私立大学である。この間の事情を振り返ると、以下のようなことになる。
 中国は八〇年代末に中央の財政が苦しくなり、大学の予算を半分に削減し、資金が必要ならば自分で稼ぐということになった。ここから中国の産学官連携、大学発ベンチャーが活発化する。その頃、日本のアルパインが瀋陽の東北大学を訪問。コンピュータ・エンジニアリング研究室のレベルの高さに驚いたアルパインが九一年に合弁に踏み出した。それが、その後、九六年に日系企業としては初めて上海証券市場に上場した東大アルパインである。
 これをキッカケに東北大学は世界の有力企業との合弁を重ね、九七年、瀋陽郊外に東大ソフトウェアパーク(NEU SOFT PARK、約五〇ヘクタール)を建設している。全面芝生を張った超モダンなソフトウェアパークであった。そして、全体の組織を東方軟件(東方ソフトウェアウェア)という持ち株会社の下に編成し直す。世界の有力企業は東方軟件と合弁し、ソフトウェアパークに立地する形となった。超モダンな研究施設が点在する東大ソフトウェアパークを初めて見たとき(九九年)には、正直、目が眩んだ。
 この東方軟件の出資者は東北大学(三分の一)、従業員持ち株(三分の一)、そして、残りの三分の一は、東北大学と出身母体(国家治金部)が同じ上海の宝山製鉄所(宝鋼集団)となっていた。なお、この東大ソフトウェアパークには東芝、オラクルなどとの合弁の会社が設立されており、およそ四〇〇〇人のソフト技術者が働いている。事業をリードするのは、かつてのコンピュータ・エンジニアリング研究室長で、現東北大学副学長の劉積仁氏(五五年生まれ)である。彼は中国のビル・ゲイツといわれている。中国の国立大学はこれほどの事業にまで踏み出しているのである。
 その後、約三七〇キロ南の中国東北部の玄関口である大連に関心を寄せ、ソフトウェア技術と日本語に注目する先の東軟情報技術学院を大連ソフトウェアパークの中に開学(二〇〇二年)している。出資者は東方軟件(六〇%)、大連ソフトウェアパーク(四〇%)である。四年制私立大学の東北大学東軟信息技術学院と三年制の専門学校である大連東軟信息技術職業学院から構成されている。
 在校生はおよそ八〇〇〇人、〇五年六月から、ソフト技術と日本語を学習した卒業生が社会に出てくる。中国の一般の大学の年間の学費は四〇〇〇〜五〇〇〇元(約六万〜七万円)に対し、この大学の学費は一万六〇〇〇元と約四倍だが、押すな押すなの盛況ぶりであった。
 この大連には、戦前の南満高専と旅順工大を母体にした大連理工大学という名門校がある。その正門の近くに瀋陽の東北大が乗り込んできた。それに刺激され、大連理工大をはじめとして、大連交通大(旧、鉄道学院)、大連大学、大連外語大学等も、ソフト人材育成のための単科大学、専門学校を設立し、大連は一気に日本語のわかるソフト人材の中国最大の供給地となってきたのである。その供給力は、近々、年間一万人規模になることが予想されている。アメリカに対するインドのバンガロール、日本に対する大連を強く意識しているのであった。
 以上のように、中国大連では、民間企業が壮大なソフトウェアパーク事業に乗り出し、また、国立大学が民間企業を経営し、さらにソフト技術と日本語に特化する情報系の私立大学を設立しているのであった。日本の大学は足元にも及ばない。
 理工系の大学の発展型として、大学の技術の事業化、大学発ベンチャーなどは容易に想定できる。それを基本として壮大なソフトウェアパークを建設し、外資企業を呼び込むなどは、並みの大学人には考えもつかない。さらに、三七〇キロ離れた都市に乗り込み、地域の基幹的な大学の前に魅力的な私立大学を設立する。戦略ポイントとしては、大連の地域性を受け止め「ソフト技術に加え、日本語を重視する」というものであった。特に、コンピュータソフトに関しては、世界的にアウトソーシングになっている。日本企業をターゲットにした見事な展開ということができる。
 他方、大連市政府もこれらの動きの後押しをしていた雰囲気もある。周知のように、大連は九〇年代を通じる日本企業の大量進出によって都市の経済基盤を形成してきた。多くの日本企業は大連の地理的環境のよさ、日本語人材の豊富さなどに注目し、「輸出生産拠点」を形成してきた。大連は日本に近く、港湾条件に優れていたのである。
「中国の市場」から遠い町の「一点突破型戦略」
 だが、九〇年代も後半の頃になると、「世界の工場/中国」は「世界の市場/中国」に変わっていく。その場合、大連は日本に近い分、「中国の市場」に最も遠いことになる。大連の将来が案じられた。このような事態に対し、大連の際立った戦略ポイントとして「日本」が改めて認識された。日本語人材の豊富さ、世界的なソフト技術のアウトソーシングなどをにらみ、大連は「日本向けコンピュータソフト基地」を目指していくのであった。九八〜九九年の頃には、その向かうところは全く見えなかったが、水面下では、興味深い取り組みが重ねられていたのだろう。
 さて、このような動きから、私たちは何を学ぶか。まず、一点突破型の「地域発展戦略」の推進に仕方であろう。戦略ポイントを的確につかみ、民間のエネルギーを最大限に活かしていくことであろう。第二に、大学のあり方が注目される。産学官連携、大学発ベンチャー、ソフトウェアパークを建設し外資を呼び込む、国立大学が別に私立大学をつくるなどは、日本の大学を取り巻く状況からすると、どうなのか。かなり悲観的な気分にならざるをえない。「中国の大学やソフト技術者は?」などと言う向きもあるが、事態は急速に進んでいる。アメリカのシリコンバレーを経験してUターンした技術者も多く、資金的にも外資が豊富に提供し始めている。その実態を早急に自分の目で確認し、認識を改めていくべきではないか思う。それにしても、日本の大学は難しいと思う。さて、どうするのか。
関満博(せき みつひろ)
1948年生まれ。
成城大学大学院修了。
専修大学助教授を経て現在、一橋大学大学院商学研究科教授。
 
 
 
 
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