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2004/10/04 PRESIDENT
日本人経営者を驚かせた「中国中小企業の先進性」
一橋大学大学院商学研究科教授
関満博
こんなに進んでいる中国の精密金属加工業
 金型、精密板金等の精密金属加工業は、一国の近代工業化の基礎を形成するものであり、人々の長い忍耐と努力の積み重ねを背景に、ある段階から急速に発展する場合が少なくない。日本のこの一〇〇年の歩みはまさにその典型であり、その後は、東アジアの近隣諸国地域でも、韓国、台湾が日本を追跡し、この数十年で相当のレベルに達してきた。
 近代機械工業化は精密金属加工技術から始まり、治工具、そして、半導体製造装置等の自動機、専用工作機械等へと進んでいく。特に、電気・電子産業、自動車産業にとって精密金属加工技術は死活的な意味を帯びることはいうまでもない。明らかに、この数十年の日本のエレクトロニクス産業、自動車産業等の発展は、底辺における精密金属加工技術の高度化が支えたものであった。
 この点、躍進著しい中国の金属加工技術はどのようになっているのか。その実情はほとんど報告されていない。筆者は最近、中国東北部の大連で民営の中小金属加工業の実態にふれる機会を得た。
 大連といえば、一九九〇年代中ごろまでは、日本企業の進出拠点とされていたのだが、中国の発展の軸が華南から長江下流域へと移り、最近、話題にのぼることが少なくなった。
 だが、その大連で、中小の民営機械金属加工業が興味深い発展を見せ始めていたのであった。
 とりあえず、地元の旧い友人たちに頼み、ローカルの民営企業数社の訪問を実施した。
 また、特に基盤技術である機械金属系の中小企業を焦点にした。日本の金型、鈑金企業の経営者数人を連れての訪問であった。
いうまでもなく、金型、鈑金などは機会技術の中軸を占める「基盤技術」として、その重要性は際立って高い。だが、近年、日本では次第に怪しくなり、逆に、中国でその必要性が強く求められている部門である。このあたりの精密加工技術がその国の技術レベル全体を大きく規定する。
 鈑金屋といわれて訪れた光洋科技の一階の工場には、日本のアマダの鈑金加工機械が一通り並んでいた。なかなかのものであった。
 さらに、鈑金の世界ではナンバーワンとされるドイツのトルンプのプレスブレーキと、三次元の精密熔接機が入っていた。
 私はこの溶接機は日本では見たことがない。最近、ようやく東京の中小企業が導入したとして話題になっている。私と同行した日本の鈑金屋も「初めて見た」と唸っていた。
 日本には優れた工作機械、金属加工機械のメーカーが多いことから、日本企業は日本製の機械に執着する傾向がある。「メンテナンスが楽である」などと言い訳するが、視野が国内にとどまりがちになりかねない。
 これに対し、中国企業の場合は、世界の機械を比較し、最も優れたものを導入する。
 国産品愛用もよいが、このあたりも、もう一度振り返ってみる必要があるのではないか。国産品だけにこだわりすぎると、発想が小さくなってしまう懸念もある。
 さらに、この光洋科技、鈑金加工だけでなく新たな興味深い熔接機などの自社製品も持っていた。
 従業員約一〇〇人規模で、博士が三人いるという。
 社長は五一年生まれの五三歳。国有企業で自動機設計の技術者として働いていたが、一〇年前に独立。大連に進出している日系企業と付き合い、ここまできた。
 特に、産学連携に意欲的であり、オーバードクターに学位取得の機会を提供する「博士後科学研究センター」(一〇〇人規模)を持ち、さらに一万五〇〇〇人規模の「技術交易センター」も保有していた。学位取得研究をサポートし、実用化できるものは積極的に取り上げていた。同行した日本の中小企業の経営者たちは狐につままれた顔をしていた。日本の洒落た中堅のハイテク企業でも、なかなかここまではいかない。
六〇歳をすぎて独立した金型技術者
 そして、次に訪れた(らん)芸精密模塑制造も興味深いものであった。経営者の呉建川氏(三八年生まれ六六歳)の歩みは、中国の金型産業の歴史と現状、そして将来の可能性を指し示しているように思えた。
 中国の混乱の時期に幼少時代を過ごした呉氏は、ようやく六五年に大学を卒業、金型技術者として大連の国有企業に配属された(最近まで、中国の大卒は国の都合により、就職先を指定されていた。)
 改革、開放直後の八五年に日本に視察に行く機会を得、東芝の工場で四〇〇〇万円もする金型製作用の機械を見て衝撃を受ける。
 「これからの金型は、こうした機械で作るのか。中国は数十年遅れている」と感じたという。
 「あのショックは今でも忘れられない」と語っていた。
 九八年、六〇歳定年で退職し、「この仕事で何かやりたい」との思いを重ね、九九年八月に独立創業する。当初はプレス金型からスタートし、プラスチック成形金型、射出成形工場を展開してきた。
 工作機械も徐々に揃え、基本的な設備もほぼ整っていた。工場はすべて貸工場、資金は機械設備の充実に投入してきた。
 現場を案内してもらうと、ソディックのワイヤーカット放電加工機二台、放電加工機一台、マザックのマシニングセンター(MC)二台、三井精機工業の治具研二台、岡本工作機械製作所のCNC平面研削盤一台、ミツトヨの三次元測定器、投影機、万能工具顕微鏡などが目を引いた。
 私と同行していた日本の中小企業の経営者たちは、「六一歳で創業し、四、五年でここまできたとは凄い」と感嘆していた。
 日本の経営者たちは、日本国内の金型工場を視察しているのとほとんど変わらない印象を受けたようであった。
 また、大連という土地柄から取引先に日系企業が多く、キヤノン、三洋電機、アルパイン、日本電産などの大連進出企業に加え、北京の松下電器などにまで入っている。
 従業員は一三〇人、設計陣には瀋陽工業大学、大連軽工業学院の金型専攻の卒業生を中心に全国から大卒を八人ほど集めていた。
二一世紀は「民営企業の時代」
 別れ際に、彼は「国有企業にいたときには何も考えなかった。今は自分で考えている」「中国も工業発展するためには、金型からやらなければダメだ。今は、日本とそれほど差はない」と遠い目で語っていたのであった。若いころに日本の現場で受けた衝撃を糧に、必死に取り組む良質な老金型技術者が、大連の片隅に花を咲かせていたことに深い感銘を受けた。
 神通模具(金型)の玄関でクルマから降りると、即、金型職場に連れていかれた。三菱電機のワイヤーカット放電加工機が三台、牧野フライス製作所のNCフライスが一台、ハウザーの治具研が一台並んでいた。なにか、遠い昔に見たような気がした。確認すると、昨年までは国有企業であったのだが、今年になって分割民営化したのだと言う。以前の名前を確認すると「大連低圧開関(スイッチ)廠」、私が八九年に訪れた工場であった。
 先の機械は八七年に、大連全体の期待を背負って「金型モデル工場」として設置されたものであった。八九年当時は、大連機械金属工業の希望の星として紹介されたものであった。だが、その後は思うような発展をたどることができず、今年、民営化された。低圧スイッチ工場から金型と機会加工部門だけを引き継いだ金型専門家の徐文科氏(六〇年生まれ)は、「現在の従業員は四三人、民営化に伴い、従業員の五〇%を削減した。残った従業員は株を所有したし、希望を持っている」「これから設備を入れ替える。工場も外資企業が集積する大連経済技術開発区に移転する」と語っていた。
 国有企業改革に悩むとされる中国東北部の地でも−大連ではやや遅れてきたものの−希望を抱いた人々が、新たな可能性に向けて大きく踏み出しているのであった。
 中国の八〇年代は「郷鎮企業の時代」、九〇年代は「外資企業の時代」、そして二一世紀の初頭は、確実に「民営企業の時代」になる。その場合、昨今は北京などのソフト系の「ハイテク企業」、あるいは浙江省の農村から立ち上がったとされる「私営企業」が注目されることが多い。もちろん、そうした存在が現在の中国の「民営化」「中小企業」を象徴しているが、もう一つの注目すべきものとして、見落としていたのが、重厚長大型の国有企業の不振に悩まされてきた中国東北部の大連における金型などの「基盤技術系中小企業」の登場である。
 同行した日本の基盤技術系の中小企業の経営者たちは、異口同音に「トルンプの三次元の精密熔接機など、見たこともない。中小企業に博士が三人か」「六〇歳をすぎて創業し、短期間にあれだけできたとは凄い」「あの民営化したばかりの金型屋、あれは一気にくるぞ」と緊張した面持ちで語り合っていたのであった。
 以上見てきたように、中国の金属加工業に関しては、ここにきて劇的に変わりつつある。
 それは、改革、開放の四半世紀を経験し、中国の人々の生活水準が上がり、目線が高くなってきたことによる。努力すれば報われる社会になってきたのである。
 このような中国の現実を日本の中小企業はどのように見ていくのか。この数年が一つの勝負どころになることは間違いなさそうである。
関満博(せき みつひろ)
1948年生まれ。
成城大学大学院修了。
専修大学助教授を経て現在、一橋大学大学院商学研究科教授。
 
 
 
 
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