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1993/04/01 産経新聞朝刊
【主張】広がる経済と政治の乖離 中国は「トウ以後」に対処できるか
 
 中国共産党の江沢民総書記には「国家主席就任おめでとう」という祝いの言葉を贈って良いものかどうか。三十一日閉幕した全国人民代表大会(全人代)は「トウ小平後」を強く意識した国家指導部を選出したが、共産中国がたどるであろう曲折に富んだ道程に思いをはせれば、その命運同様、江氏の将来もまた不透明だ。一党独裁政党の公式序列第一位にある江氏は、中央軍事委員会主席を兼ねてきたが、新たに国家主席に任命されたことで、党・政府・軍の頂点に立った。
◆現世に残す最後の路線
 だが、もし歴史が未来を示唆するならば、これは「吉」とは限らない。絶対権威を誇った故毛沢東主席の信任を盾に、同じように“三種の神器”を手にした華国鋒氏の哀れな末路が想起されるからだ。江氏も、ひとえにトウ氏という最高実力者によって押し上げられた。華氏は「毛沢東後」の反プロレタリア文化大革命の流れの中で、トウ氏によって追い落とされた。「トウ小平後」の江氏にまつわる「不吉」も、これと性格を同じくする。
 トウ小平氏が江氏を中核に後継体制をもくろんでいることは確かだ。自らの後継者と頼んだ胡耀邦、趙紫陽両氏を次々に斬って捨てたトウ氏は、いま、人のだれも避け得ない運命を前にして、江氏にすべてを託すしかない。氏のはやる心は痛いほどわかるが、政治の改革・開放を拒否したまま、きわめて属人的な権威によって実現した権力の“一極集中”は、その後ろ盾となる権威が失われた時、いかにもろいことか。
 今回、憲法の前文には「国家は社会主義市場経済を実行する」と明記された。これが氏の残す最後の路線となろう。「四つの基本原則」(社会主義の道、プロレタリア独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持しつつ、資本主義的な手法を借用して、経済の改革・開放を続けるとの二股路線である。
 しかし、トウ小平氏は、「社会主義市場経済」の果てに、どのような中国を描いているのだろうか。
 経済の改革・開放は中国を活性化させた。中国を飢えから基本的に決別させた功績は小さくない。が、活況を呈する広州から上海にかけての沿岸地方の成長は、外資、とりわけ香港、シンガポール、台湾からの民間企業に負うところが大きい。民間部門は依然中国経済のわずか一〇%程度との推計もあり、中国経済の体質変化を過大に評価するのは禁物だ。問題の核心は、中央の統制の及ばない部分の発展を、独裁党がどこまで許すかである。
 統制のなかの自由を利用して党幹部やその子弟らが特権的ビジネスにうつつを抜かしている間は、社会主義と市場経済は楽しく共存できよう。だが、自由と統制のせめぎ合いが権力の次元にまで高まった時こそが問題なのだ。この意味では“赤い資本家”栄毅仁氏の国家副主席への登用の意義も、限定して考えるべきだろう。党に対して国家が完全に隷属する現体制下では、“改革・開放見本市”のための陳列品以上の意味を持つまい。
◆揺るがぬ抑圧体制
 トウ小平氏の目指す最終目的が「近代化された社会主義の強国」(故周恩来首相の葬儀での弔辞)であることは、明白だ。海軍力、空軍力の増強を続け、東シナ海、南シナ海を「中国の海」とするかのような行動は、すでに周辺国の深刻な疑念を呼んでいる。今大会でも国防予算だけは突出的に増額された。中国ははばかることなく経済力を軍事力に転化していると言ってよい。
 そうした中国で、政治・思想面での抑圧体制が揺らいでいない現実は、改めて確認しておく必要がある。経済の改革・開放も、結局は人間の本来的な自由への欲求を高める。基本的人権意識の高まりと言ってもよい。それが一党独裁の論理と正面衝突したのが天安門事件(一九八九年)だった。ひるがえって、江沢民総書記は武力弾圧成功の受益者であり、李鵬首相は“功労者”である。翼賛議会である全人代ですら、李首相信任投票で一割を超す反対・棄権が出た。一般市民の現体制への信任は推して知るべしである。
 「社会主義市場経済」によって確かに中国の経済は沸騰を続けるだろう。だが、経済に限定した開放政策が成功すればするほど、政治的不開放との乖離(かいり)が広がる。十二億の民の自由への欲求が政治に波及した時、天安門事件の再演を回避する道は、民主革命を別にすれば、力によって予防的に封じ込め続けるか、社会主義の安楽死を図るかである。いずれの道も、トウ小平氏亡きあとの指導部には至難の業だ。トウ氏が生前いかに周到な配置を凝らしても、やがて中国が直面する矛盾は、あまりに巨大である。
 
 
 
 
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