日本財団 図書館


平成16年度 日本財団助成事業
「サン・ファン・バウティスタ」
展帆ボランティアマニュアル
 
財団法人 慶長遣欧使節船協会
 
はじめに
 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)に繋留されている木造帆船「サン・ファン・バウティスタ」は昨年、秋、進水10周年記念事業として3本マストに高々と帆を張った。そのみごとな雄姿に賞賛の声が多数寄せられ「毎年展帆を」望む意見がたくさんあった。このため(財)慶長遣欧使節船協会では、専門家を含めて検討を進めてきた。メインセールは、縦・横が20m超の巨大な一枚帆であり、クレーン車を動員してプロ集団による展帆が“常識”だったが、今後、継続して展帆するためには「ボランティア」の育成が必要との結論に達し、この程、石巻のヨット関係者やOBの皆さんの積極的な参加を得、サン・ファン友の会の中に「ボランティア部会」を設けて、多くの愛好家のボランティア参加を募ることとなった。基礎的な知識も含めて訓練を重ねていただき「夢の帆」の展帆が毎年可能になるよう準備を進めている。よろしくご参加をいただきたい。
 
平成16年8月
宮城県慶長使節船ミュージアム館長 跡部 進一
 
1 帆船の歴史
今井 常夫(海洋プロデューサー)
世界の艦船 2004. 2月号掲載
<帆船、その6000年の航海>
 船を走らせる動力としてもっとも長い歴史を持つもの、それは疑いもなく「風」である。1803年にフルトンが人類初の蒸気船をハドソン河で走らせてから、機械動力による推進システムは飛躍的な進化を続けているが、それでもわずか200年にしか過ぎない。
 人間が船を発明し、航海をはじめたのはいったいいつなのかはわかっていない。紀元前4000年もしくはそれ以前とされているエジプトの陶器に、複数のパドルと四角い「帆」を持った船が描かれており、これが現在確認されている世界最古の船の絵とされている。このときすでに、船を走らせる力として風が使われていたことになる。
 しかしこれも記録として残っている、という限りにおいてである。人類は絵を描き始めるより前から船を発明していただろう。インド洋のダウやセイロンのアウトリガー、中国のジャンクがいつ発明されたのかを知るすべはないが、ともあれ今現在にいたるまで、実に6000年以上もの間、人類は風を船の推進力として利用してきたのだ。
 
<帆の起源とその長い黎明期>
 私たちにとってもっとも身近な帆船といえば航海訓練所の練習帆船「日本丸」「海王丸」だろう。両船は4本マストバーク型とよばれ、帆船としてもっとも完成された最終的な形である。風を動力とする帆船が発達していくために、その推進システムである帆もさまざまに変化を遂げてきた。
 ヨーロッパにおいて帆は、四角形、つまり1枚の横帆から誕生したと考えられている。古代エジプトの帆船も1本のマストを持ち、横の帆桁(ヤード)に1枚の横帆を備えていた。エジプトに続いて制海権を握った世界最古の海商民族といわれるフェニキア人の船、そしてギリシアのガレー船、それにヴァイキングの船も同じように1枚横帆である。その後、西暦1400年頃のヨーロッパの“コグ”と呼ばれる帆船に至るまで、不思議なことにヨーロッパ地域の帆船は基本的に1本マストの横帆のままだったのだ。
 そして船体が単純な平底からキールを持つようになっていくにつれて、追い風のみの帆走から横風、そして多少の風上への帆走ができるようになっていき、その航海区域も河や沿岸から次第に地中海全域、西アフリカ沿岸へと拡大していった。
 西欧の目から見た帆船の歴史では、9世紀になってギリシアの絵にはじめて三角帆=ラティーン・セイルが登場する。地中海船の特徴とされるラティーン・セイルだが、この時代に地中海に出現して横帆に取って代わり、マストの数も2本から3本へと増えていった。この帆は縦帆に分類されるもので、横帆に比べて風上への切り上がり性能に優れ、少人数で操作することができるため沿岸航海に適していたからだ。
 ラティーン・セイルの発祥は不明とされているが、私はインド洋の帆船から伝わったと考えたい。東インドから太平洋で見られる、プラオと呼ばれる下部にブームを持つ三角帆をラティーンの起源とする説もある。インド洋のダウ船もやはり大二角帆であり、いまでもモンスーンの季節風を利用してアフリカ東岸から東南アジア一帯を自由に航海している。貿易活動の発達と共に紅海を経て地中海に伝わったのではないだろうか。
 ここで東アジアに目を向けてみよう。東洋を代表する帆船といえば中国のジャンクである。ジャンクもまたいつ誕生したのかは不明だが、数千年前から使われていたことは間違いないようだ。ジャンクの帆も縦帆に分類されるが、東洋にしかない材料である“竹”による桟=バテンを持っていることが大きな特徴だ。
 このバテン・セイルは風上へ切り上がれるばかりか、追い風に対しても有効に使うことができる。さらに帆をたたむときにはそのまま下に降ろすだけでアコーデオン・カーテンのように簡単に収納できるため、少人数で操作することができ、しかも帆は布でなくとも竹や草などを編み込むなど素材を選ばないという優れた特性があった。
 中国のジャンクは通常2本のマストを持っており、帆は蝶の羽のような形だが、日本では長方形のバテン・セイルとして発達した。日本近海でもおそらくこのバテン・セイルの帆船が相当早い時期から大陸との間を行き来していたはずだ。そうでなければ縄文人が大陸から来た弥生人に駆逐された、という歴史はあり得ないはずだ。
 大胆な考えかもしれないが、地球全体で人類が共有した風力テクノロジーとしての「帆」、それは広大なユーラシア大陸の西では「横帆」、中央部インド洋においては「三角帆(ラティーン・セイル)」、東端においては「バテン・セイル」として誕生した。このような違いは、その地域にある材料と気象条件によるのではないだろうか。
 素材として考えてみると、西欧では羊毛や皮が豊富であり、中央インドでは綿が、東洋では竹や麻がふんだんにあった。気候については、地中海・ヨーロッパでは大西洋のハリケーンが到来することはないが、インド洋ではサイクロンが、東アジアでは台風が季節によって必ず発生するため、帆の上げ下ろしが迅速にできなければならない。
 紀元前4,000年に誕生していた帆船は、西暦1400年頃までそれぞれの海域で独自の成長を続けていた。この長い黎明期が帆船の歴史における<第1期>としたい。
 
<航海の拡大と帆の発達>
 異なる文明が出会うときに新しいテクノロジーが誕生するが、帆船も異なった海域に乗り出すことで進化を始めた。
 西ヨーロッパ人たちが、イスラム圏を経ずにアジアの豊かな物産を入手しようという欲望に駆られたとき、沿岸を離れて陸地の見えない外洋を航海するための天文学、地理学などの科学技術が発達し、それはルネサンスとして花開いた。そしてコロンブスの「サンタ・マリア」に代表されるような横帆とラティーン・セイルを組み合わせた3本のマストをもった新しい型の帆船が15世紀に誕生したとき、大航海時代への扉が開いたのだ。
 そしてヨーロッパの帆船が喜望峰を越えてアジアの海を航海するようになり、彼らの船と東洋のジャンクが南シナ海で出会ったとき、“ミスツィス”(合いの子)と呼ばれる独特の帆装が誕生した。これは、朱印船の絵図として私たちに知られているもので、3本のマストを持ち、船首のバウスプリットに1枚の横帆を、フォアマストとメインマストには四角のバテン・セイルとその上にヤードを持った横帆が1枚ずつ、そして最後部のミズンマストにはラティーン・セイルが張られている。その時代までに世界で誕生したすべての種類の帆が備わっている、まさに“合いの子”帆船であり、東アジア全域を舞台に活躍した外洋帆船として記憶されるべきだろう。
 この時代に生きた豊臣秀吉、そして徳川家康も西洋との貿易のために外航性能の高い西洋式帆船の建造を熱望し、1598年にマニラのフィリピン総督に造船技術者の派遣を要請している。しかし朱印船による日本人の貿易航海技術を熟知していたスペイン側は、貿易航路の独占が崩れるばかりか、勇猛で知られる日本人に侵略されることを恐れ、応じなかったという。1600年に豊後に漂着したオランダの「リーフデ」に乗っていたウィリアム・アダムスこと三浦按針を家康が厚遇したのも当然であろう。家康は按針に西洋式帆船の建造を命じたが、一度は断っている。帆船はそれくらい重要な当時のハイテク技術だったのである。「サンファン・バウティスタ」もこの時代に建造された帆船である。
 その後日本は鎖国への道を選択し、東南アジア一帯にまで拡大した“日本の大航海時代”は強制的に終焉を迎えた。帆船のテクノロジーも時の政権によって制限されることになり、古代ヨーロッパと同じ1本マストに1枚の横帆になるとは、なんという後戻りだろうか!
 中国でも1405年から永楽帝の命を受けた鄭和が、第1次南海遠征で船団を従えてインドのカリカットに達した後、1430年までの7回の遠征によってアフリカ東岸にまで到達し“中国の大航海時代”を謳歌していたが、清王朝の時代になって海禁策に転じたため、沿岸航海の小型ジャンクに逆戻りしてしまった。
 最近の研究で、鄭和の船団は実は、オーストラリアから南極、そして大西洋から北極圏にも探索の航跡を拡大し、1421年、コロンブスに70年も先駆けてアメリカ大陸を発見していたともいわれている。
 一方、“ヨーロッパの大航海時代”は15世紀末から地球全土に拡大を始め、それと共に16世紀にかけて帆船も急速に進化を始めることになった。フォアマストの横帆が1枚から2枚へ、メインマストの横帆は2枚から3枚へ、船尾のラティーン・セイルも1枚からマストをさらに増やして2枚にするなど、次第に帆面積が大きく帆装も複雑になっていった。“全装帆船”といわれる時代の到来である。
 しかし15世紀から16世紀にかけての急速な変化に比べ、17世紀には大きな変化は見られない。技術革新は帆装よりも、船体に向けられていた。それは急拡大した大航海時代の航路開拓が一段落し、東インド会社も設立されるなど、航海が冒険ではなく貿易として定着しはじめたことと呼応している。
 18世紀になってヨーロッパ各国が覇権を競い合うようになると、帆装は軍艦のために再び進化を始めた。この時代に現れた帆がフォアマストとバウスプリットの間に張られた新たなる三角帆、ジブセイルである。英国海軍では1705年に公式採用されたが、このジブセイルこそ、船体が大型化しても風上に向かっての方向転換=タッキングが容易にできるという画期的な技術革新だったのだ。
 ジブの発明によって方向転換のためのラティーンセイルの役割が低下すると、ミズンマストには推進力を追加するために横帆が付けられるようになった。船尾の縦帆はジブセイルに対するバランスと、風下に向かっての方向転換=ウエアリングが主な役割となり、船体に風を受ける舷=タックの転換に便利なように四角形のスパンカーへと変化していった。さらにマストの間にも三角帆=ステイスルが張られるようになり、全装帆船は完成の域に達した。
 ネルソン提督がトラファルガーの海戦で使った英国戦艦「ビクトリー」(全長102m)、米国の軍艦「コンスティチューション」(全長93m)とは、それぞれ大きさの違いはあるものの、帆装はほとんど同じものである。「ビクトリー」はポーツマスに、「コンスティチューション」はボストンにそれぞれ“現役の軍艦”として保存されている。特に「コンスティチューション」については、1973年から76年にかけて建国200年に向けた大改修がおこなわれたが、次回2018年に向けて樫の木が植林されたのだという。なんともうらやましくもすばらしい帆船文化ではないか!
 地球全体にグローバルに航海を拡大することによって帆船が大きく進化を遂げた15世紀から18世紀にかけてこそが、帆船が飛躍を遂げた<第2期>である。
 
<帆装の完成と帆船の黄金期>
 19世紀に入って蒸気機関の発達と共に、スクリュープロペラが発明されたことによって帆装軍艦の時代は急速に終わりを迎えはじめたが、その一方で帆装商船は著しい技術革新を遂げることとなった。蒸気推進タグボートの実用化によって、外洋での速度と耐航性だけを考えて設計できるようになったからである。さらに鉄のフレームに木の外板をはることによって船体はさらに大型化が可能となった。商品経済の発達に伴って大量で高速な輸送能力が求められるようになったことも帆船の技術革新をさらに加速させた理由である。中国の茶、オーストラリアの羊毛を運ぶための快速船、クリッパー時代の到来である。
 この新しい帆装を持った最初の船は1845年にニューヨークで建造された3本マストの「レインボー3」(喫水線長47m)で、各マストに6枚の横帆を持っていた。最後尾のミズンマストには5枚の横帆に加えて四角の縦帆があり、バウスプリットには2枚のジブセイルと1枚のフオアステイスルが張られており、現在の“フルリグド・シップ”と呼ばれる帆装型式そのものである。
 「レインボー」は1950年に英国向けの茶を積んで、香港から喜望峰経由でロンドンまでを97日で航海し、その圧倒的な帆走性能を見せつけた。
 クリッパー時代の最大の帆船は1853年にボストンで進水した4本マストの「グレート・リパブリック」(全長99m、幅16.2m)で、最後尾のジガーマストには縦帆のスパンカーとその上にガフ・トップスルのみを持つ、現在の「日本丸」と同じバーク型である。横帆にはさらに帆面積を広げるため左右に拡張するスタンスルを持ち、ジブセイルは3枚に増えている。
 唯一現存するクリッパーとしてロンドンに保存されている「カティ・サーク」はスエズ運河が開通した1869年に建造され、全長85.3m、幅11mのシャープな船体を3,037m2の帆面積によって17ノット以上の速力で走らせていた。
 この時代に完成の域に達し帆船はウィンドジャマーと呼ばれ、その機能美に“人類が創造した最も美しい建造物”と讃えられた。現役の輸送・交通手段として完成されたこの<第3期>が帆船の黄金時代である。
 
<風を謳歌する現代の帆船>
 1902年にドイツで建造された5本マストのフルリグドシップ型「プロイセン」は全長124mで、チリからヨーロッパへ硝酸塩を運んでいたが、58名ものクルーを必要とし、このサイズが帆装商船として大きさの限界となっていた。また全長117m、7本ものマストを持つ巨大なガフリグ・スクーナー「トーマス・W・ローソン」建造されているが、わずか16名の乗員で運航できるという経済性を除いては帆のテクノロジーとして進化した部分はなく、蒸気船に対抗しようとする最後の悪あがきに近い。
 しかし沿岸航海では帆船が活躍しており、内燃機関の開発によって近海輸送用に300〜1,000総トンの様々な型式の帆船が建造された。
 日本でも明治から第2次大戦前まで500総トン前後の洋式帆船が盛んに建造されており、江戸時代から残っていた和船の船体に2本マストのガフリグ洋式縦帆を付けた、朱印船とは別な“合いの子”船も見られた。
 筆者の曽祖父は明治から昭和初期まで瀬戸内海で海運業を営んでおり、当時の帆船の写真が残っているが、3本マストの洋式船体に長方形のバテン・セイル、船首のバウスプリットにジブセイルが付いている。当初洋式スクーナーとして建造されたが、少人数で扱えて風上への切り上がりが良いバテン・セイルに交換したもので、まさに“逆合いの子”船である。
 またこれまでの帆船にない現象として1900年代から海軍や商船員の訓練用に大型帆船が建造されるようになった。1960年代からは一般の青少年を対象としたセイルトレーニングへと拡大し、戦闘や輸送のためではなく、若者の育成という新しい役割が帆船に加わったのである。
 船としての帆装システムは<第3期〉で完成されたが、帆走のためのテクノロジーは20世紀になってもなお進化を続けている。
 帆ではなく、回転するローターが風を受ける際に発生する揚力を推進力とする斬新な発想によるローター船が1922年から26年にかけてドイツで発明された。実用化には至らなかったものの、1925年にダンツイヒからスコットランドまでの実験航海に成功、翌年には大西洋横断を達成している。
 日本ではオイルショック時代の1980年、長方形の翼のような帆をコンピュータによって自動操作する帆装商船「愛徳丸」(1,600重量トン)が建造されている。ただし帆走を主とするのではなく、あくまで主機関の燃料消費を下げるためのもので、20%前後の燃費向上を記録した。しかしローターにしろ固定翼式にしろ、リジッドな装置は荒天時においては危険な邪魔物となってしまうため、今後も帆走の主役となることはないだろう。
 同じような発想は客船にも復活し、地中海クラブの豪華客船「Club Med 2」(全長187m)では船体に巨大な7枚のファーリング(巻き取り式)・バーミューダセイルによって、セイリングの雰囲気を演出すると共に、燃費の向上を図っている。
 これに対し、かつての「プロイセン」をハイテクで復活させたような5本マスト・フルリグドシップ型の豪華客船「ロイヤル・クリッパー」(全長134m、幅16m、帆面積5,000m2)や全長115.5mの4本マストのステイスル・バーケンティン「スター・クリッパー」という“正統的な帆船型”も誕生した。いずれも自動遠隔操作のできるファーリング式の帆によって、豪華客船でありながら、帆船本来の持つセイリングの魅力を満喫できるという新しい方向性を示している。
 一方、究極の帆装能力はヨットレースの世界で驚異的な進化を続けている。有名なアメリカズカップは12メーター級という建造ルールの中で競うものだが、すべての制約をなくして帆走による極限のスピードをノンストップ世界一周で競うという、その名も“ザ・レース”がある。その第1回において、全長35.5m、マスト高41.5mという巨大なカタマラン(双胴ヨット)「Club Med」が総帆走距離27,407マイルを62日6時間56分、平均時速18.3ノットという恐るべき記録を樹立している。この艇は大西洋横断のトライアル中に24時間の帆走距離625.7マイル、平均26.07ノットの世界記録を樹立、最高速度は40ノットを上回っていたというからものすごい。
 風力のみによる最高速度へのチャレンジは今も続いており、World Speed Sailing Record Councilによって様々な方式による公式記録がウエッブサイト(http://www.sailspeedrecords.com/)で公開されている。ちなみに、世界最速記録は、飛行機の翼を立てたような2枚のウィングセイルに、水中翼をもつ片舷だけで滑走するカタマラン(双胴船)によって1993年に樹立された46.25ノット(!)という、信じられないようなスピードである。
 風は地球上の永遠不滅のエネルギーであり、人類は風と共に生きてきた。船を動かすエネルギーからチャレンジスピリットヘ、そして心の癒しへと、風がもたらしてくれる恩恵をあらゆる方法で謳歌しているいまわれわれの時代を<第4期>として、共に帆船の世界を満喫したい。







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