「吉川さん、明日の晩、一緒に漁に出てみないか」
金城からそんな申し出があったのはあの竜宮と名付けた珊瑚の群生地を潜って一カ月ばかりたった頃だった。
吉川は暇を見つけてはもう一度潜りに行くチャンスを狙っていたが、果たせなかった。
お客がとぎれたのも束の間で、あれからぽつり、ぽつりとお客の波が続いて結構忙しい日々を送っていたのだった。バディも組まず船のアンカーを降ろして潜れるような場所ではなかったので、最低もう一人船を操る人間が必要だった。
吉川一人なら時間を作れても、もう一人となると、なかなか足並みが揃わなかった。
「銛突きか」
珊瑚礁の内側で、眠りについて動きが鈍くなった魚を一匹ずつスピアガンで突いて、仕留める漁法だった。
フィッシュウオッチングや水中写真が目的で来るスポーツダイバーを相手にしている吉川には、まだそんな経験はなかった。考えてみるとこの島に二年あまりもいて銛をついたことがないなんて、そっちのことの方がおかしいことのように吉川には思えた。
「いいね」
竜宮を見つけたときに見た金城の敵意を思い出すと、一瞬の躊躇を覚えたがスピアガンで獲物を突くという誘惑には勝てなかった。
金城の瞳が一瞬暗く光ったように感じたのは気のせいだろうか。
「明日、夕食を食べて、七時に港で。銛突きは、お遊びのダイビングとは違う。真剣勝負ね。おもしろいさ」
ダイバーを乗せた船の船頭をやっている時とうってかわった、いきいきとした金城の表情は印象的だった。
吉川は興味を覚えた。金城の漁師としての腕前はどんなもんだろう。
ここのところ何度も金城と組んで海に出ているが、船頭としての腕前はなかなかのもんだと認めないわけにはいかなかった。天気や風を読んで、次に来る波を予測するのは絶妙なものがあった。
高校を卒業して以来、十年以上も海とは関わりのない生活をしてきたはずなのに、子供の頃から身につけた感覚というのはこういうものだろうか。吉川は感心しないではいられなかった。
当日、出航準備を手伝うつもりで早めに港に行くと、すでに金城が抜かりなく済ませていて、吉川が乗り込むばかりとなっていた。
「早くきたね」
「何せ初めての経験だからな」
「自分が初めて銛突きをやったのは十歳の時だった。親父と四歳年上の兄貴と三人だった。二十年以上も前のことさ」
舫をはずして出航すると金城は饒舌だった。
「よく覚えているな」
「その時には初めてミーバイを仕留めてな。その時の手にずしりきた感覚は忘れがたいものがある」
ミーバイはハタの一種でおいしい魚だった。市場に持って行くといい値段がつく。
「そういうものか」
「そういうものさ。これで自分も一人前の海人になれると誇らしげな気持ちになったものさ」
金城が選んだその日の漁場は島の東南に広がるラグーンの中だった。
漁場につくと船のデッキの上に隠すように置いた小さな懐中電灯の明かりで、タンクを背負う準備をした。
船上で明かりをつけるとそれを目当てに口先の鋭いダツが容赦なく襲ってきて、体に穴をあけられる。なるべく明かりをつけないで行動するのは、レジャーでナイトダイビングを楽しむ場合でも同じことだった。
「簡単さ」と言いながら、金城はスピアガンの取り扱いの説明を手早く済ませてしまうと、
「鮫に気をつけろ」と言い捨て先に海中へ潜っていった。初めて握った水中銃は船の上では思ったより重かった。
水中ライトとスピアガンを握って吉川はゆっくりと潜行していった。漆黒の闇に包まれた中を七、八メートルまで降りるとライトを点灯した。水中ライトのハロゲンの光の中だけに切り取られた水中は昼間の海とは別ものだった。真っ暗な映画館の中で小さなスクリーンを覗き込んでいるような気になった。
もちろん中村の店でもナイトダイビングは取り扱っていたから、吉川とて夜の海を知らないわけではなかったが、片方の手には銛を握って魚を突くのだと思うだけで、まるで別の景観をみているような気になって来るのだった。
岩の根をのぞき込むとさっそく沖縄ではイラブチャーと呼ばれるブダイが幕を張って寝ていた。体長が六十センチぐらいはありそうな大きなやつだった。
目の後ろの急所をねらって突いた。あっけなかった。
こんなに簡単なのか。ビギナーズラックだろう。吉川はもっと手応えがほしいと思った。
さらにリーフのすきまをのぞき込む。ミーバイがいた。すかさず突いた。今度は外した。
夜は動きが鈍いようだったが、やはり動いている魚はそう簡単に吉川の手には落ちてくれないようだった。
少し呼吸を弱める。吉川が空気を吐くときに作り出す気泡に魚は敏感なようだ。ゆっくりと静かに息を吐く。
岩の間の深みにまたブダイを見つけた。
すでに立派な膜を張っていたが、最初に仕留めたやつよりだいぶ小ぶりだった。別の岩陰に移ってみた。
要領がわかった時には夢中になっていた。
珊瑚の裏側や岩の割れ目を覗き込む時に沸き上がる期待感には、ファンダイブのフィッシュウオッチングで魚を探す時とはまるで違う貪欲なものがあった。
獲物を見つけると、まるで自分もそのへんに転がった岩のように息を潜め、獲物の動きを観察し、自分の呼吸を合わせる。スピアガンがうまく命中したときの震えるような快感。かなりの集中力が必要とされる仕事だ。
吉川はゆっくりと慎重にその手順を繰り返しながら、隠されていた残忍な本能のようなものが少しずつ、むき出しになってくるのを自覚しないではいられなかった。
自分自身が鋭利なスピアガンの切っ先になっていくようだと吉川は思った。仕留めたときの傷口から流れ出た血液が、あっという間に海中に広がり、にじんで消えるのを自分でも驚くような満足感を持って吉川は見た。
二匹のブダイと一匹のミーバイ。一時間の格闘で得た獲物はいかにも少ないように思えたが、吉川は満足だった。
揚々たる思いで帰ってくると、すでに金城の方は船に戻って、優雅に煙草をふかしていた。
「これだけだけど」
吉川は獲物を金城に差し出すと放心したように船のデッキに座り込んだ。一度むき出しになった本能はそうやすやすと引っ込んではくれなかった。
そんな吉川を見て金城は満足そうだった。
「吉川さん、面白かったでしょ」
「疲れた」
「そりゃそうさね。ただ見るだけのダイビングとは違う」
「もっとたくさん見つけたけれど、逃げられてしまった」
「でもミーバイが一匹あるさ」
「ちょっと休ませてくれ」
潜水漁でタンク一本しか潜らないということはない。体調にもよるが、二本、三本と潜るのが普通だった。吉川ももちろん、もう一本潜るつもりだった。
「いや今日はもう帰ろう。十分さ」
すべての精神力を一本目の潜水で使い果たしてしまったように見えたのか、金城があっさりと言った。
金城の獲物を入れたクーラーバックを覗くと魚がぎっしりだった。ミーバイ、ブダイなど全部で十匹近くはいそうだった。一番大きな八十センチはありそうなフエダイが、急所一発で絶命しているのを見て吉川は唸った。
「すごい」
「まあまあさ」
金城はそれほどたいしたことでもないというように、恥ずかしげに目を反らした。
「子供のころからよくリーフの周辺で魚突きをして遊んだもんさ。こんな小さい島じゃ他に遊びに行くところもないし。夏休みになると子供たち同士でだれが一番多く取るか、競争だったものさ」
港に向かって船を走らせながら金城は話を始めた。
「時々、高級魚を取ってくると、親父が小遣いをくれた。でも傷物じゃだめさ。売り物にならない。銛でエラより前を突いて一発で仕留めなきゃならなかった。島へ帰ってきて海人の仕事ができるか不安だったが、体が覚えていた」
「どうりで。あの大きなフエダイを一突きで仕留める技術は、昨日今日身につけられるようなものじゃないと思ったよ」
「まあ、自分が食っていくために必死な部分もあるからな。どんな仕事でもそれは同じさね」
「怖くはないか」
「そりゃあ怖いさ。一度スピアを突くと血の臭いに誘われて鮫がやってくる。今日も見なかったか。いつも思っていることだが、魚を殺して生活している以上、いつか魚に殺されてもしかたないって思うさ」
そういうと金城は笑った。
「島での暮らしは楽しいか」
「まあ、今のところ、東京のコンクリートの街に帰ろうとは思わないね」
「それはいい。都会の人間は沖縄のきれいな海に憧れて、こっちに来ても、二年ぐらいたつと、やっぱり都会が恋しくて、なんのかんのと言いながら帰っちまうもんさね」
「確かに俺も東京の暮らしにまったく未練がないといえば嘘になる」
「そうだろう。自分だってそうさ。それなりの夢があって内地に渡った。大阪、東京と移って十年、食品加工の工場で頑張った。けれど何もない島って思いながらも結局帰ってきちまった。人のことは言えんな。たとえどんなところでも育った土地ってえのはいいもんさ」
港に帰り着くと、中村さんに渡してくれと、吉川のとった魚以外にクーラーボックスから三十センチほどのミーバイを一匹取り出すと手渡した。
「また来るだろう」
「店の方が忙しくないときにでも」
本当はぜひにと言いたかったのだが、やはり昼間の仕事を考えるとそうそうはこれないと思った。
暗い夜道を魚を入れた重たい網をかかえ、歩きながら吉川は今日の出来事を反芻した。
金城の誘いに乗ってよかった。一対一で付き合って金城の本性をかいま見たような気持だった。
いつか魚に殺されても仕方がない。そんな気持ちで海に潜っている人間にしてみたら、やれフィッシュウオッチングだマリンフォトだなんて、わざわざ金を払って遊びで海に潜っている連中がバカみたいに思えるだろうな。
考えていたほど悪いやつじゃなかったと思い直しながらも、今度は逆に大きな劣等感を植え付けられたような気がした。彼みたいなのを体張って潜っていると言うのだろうか。
この一回の魚突きの体験で自分の海に対する考えがずいぶんと変わってしまったように吉川は思った。
トリトンに帰って中村の妻に、魚を渡して自分の部屋に引き取ると心地よい疲労感に包まれて、吉川はぐっすりと眠ることができた。
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