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「それはやめたほうがいいさ」
 今日の出来事を話すと、仁美の口から出たのは吉川の期待に反して金城と同じような非難めいた言葉だった。
 中村の店の離れに住んでいる吉川は、中村の妻が作った夕食を食べた後、歩いて十分ほどのところに住む仁美を誘い出し、人気のない海岸の岩陰で抱き合った後のことだった。
 仁美は店で事務と接客を担当している、いわば吉川の同僚だった。
 仕事以外の時間も一緒に過ごすようになり、一年がたつ。
 金城と同じように高校に入学するために島を離れ、そのまま沖縄本島で就職し、結婚し、金城と違うところは離婚してバツイチになって島に戻ってきたことだった。
 沖縄ではめずらしい一人っ子で、すでに両親はなく、一人ぽつんと住んでいた年老いた祖父の面倒を見ながら細々と生活していた。
 仕事に疲れて東京からやってきた三十二歳の男と二十八歳のこれもバツイチで傷ついた心と体をもてあました女が、毎日顔を合わせていれば、情が移ってくるのは当たり前というわけで、吉川と仁美が男と女の関係になるのにそれほどの時間はかからなかった。
 南国の開放的な雰囲気は都会で感じるような異性に対する遠慮を取り払ってくれる。
 仁美の浅黒いがしっとりとした肌に触れるようになって、吉川の心の奥底に潜んでいた東京への未練が薄らいだ。それは時々むくむくと頭をもたげては吉川の心の中で暴れ回ることがあったのだった。
 何人かいた東京での女友達の記憶は彼にとって遠いものとなっていった。
「でもあれだけの珊瑚だったら、どんなダイバーだって喜ぶのにな」
「でも入るのが難しい場所でしょ」
 仁美は沖縄の人間らしい黒目の大きな目を曇らせた。
「それをもう少し調べて見たいんだ。大潮、小潮のときどんな具合か、きっとなにか方法があるはずさ」
「無理しないで。昔からあそこに入れるのは潮止まりのときに小さなサバニだけさ。事故でもあったらどうするさね」
 そう言うと仁美は一層悲しげな表情になり、吉川に抱きついた。
 それはかわいらしい仕草だったが、ひどくわざとらしい印象だった。
「内地のダイバーには見せたくはないか」
 一瞬仁美の表情が苦しげにゆがんだ。
「そうじゃないさ」
 仁美は姿勢を正すと端然と言い放った。
 しかし吉川が考えたのは別のことだった。
 金城も仁美も内地のダイバーにはあの見事な珊瑚を見せたくないのだ。きっとまだそんな秘密の場所はここにはたくさんあるに違いない。
 吉川はそう考えると急に疎外感を感じ気持ちが萎えた。
 半分は思いつきで島に来たような吉川だが、自分もこの島で店を持ちたいと考えるようになったのは、仁美の存在があったからだった。
 この島に定住して、飽きることない、この海を眺めて暮らしたい。それが自分にふさわしい生き方のように感じ始めていたのだった。
 やっぱり俺はよそ者に過ぎないのか。そう思うと吉川は胸に寒いものを覚え、落ち込んだ気分になり、仁美の肩に回していた手をそっと離した。
 
 翌日の水曜日、吉川はオフで島の学校でパソコンの授業を手伝う日だった。すでに手伝い始めて三カ月が経つ。
 小中学生合わせても二十人もいないので、すぐにみんなの顔を覚えた。子供は好奇心いっぱいなので吉川も教えるのが楽しい。
 島内を歩いていても、「吉川先生こんにちは」と子供たちが声をかけてくれるようになり、つきあいが広まった。
 こんな小さな島ではすぐにみんな家族のようになるのだが、内地から来て観光客相手の仕事をしている吉川には、なかなか島民と接する機会が少ないのだった。
 那覇から赴任してきた教師が中村の店に潜りにくるようになり、吉川とも親しくなって声をかけられた。
「たいして難しいことはやらないけれど」と古びた机の上に並べられた十台の真新しいパソコンを見せられたとき、吉川は何故か不思議な感動を覚えた。
 以前は自分とすっかり同化して体の一部のように当たり前に使いこなすだけだったパソコンが、すばらしく新鮮な道具のように感じるのだった。こんな辺境の島で見るパソコンには、都会のオフィスに当然のように並べられたパソコンにはない、すばらしい可能性が感じられた。吉川が初めてコンピューターに接したとき感じたときめきを思い出さずにはいられなかった。
「店が休みの日なら」という条件で週一回引き受けた。
 授業は午前中の小学生、午後の中学生そして三時からの社会人講座と続き、参加者のほとんどが六十歳以上の社会人講座を終える頃には結構疲れる。
 小中学生はともかく問題は社会人講座だった。受講生のほとんどは家にパソコンはなく、暇つぶしに来ているようなものなので、
「ひらがなを打つのはどうするさ」
「インターネットはどれだっけ」
 そんな初歩のレベルから毎回授業が始まるのである。いくら説明してもなかなか覚えない老人たちにいらいらし、お客さんと一緒に海に潜っている方が楽だよと思うこともしばしばあった。
 前日のダイビングがきつかったりすると、やめようかとも考えたが、続けているのは自分が役に立つのはこんなことぐらいだ、という殊勝な考えがあったのと、パソコンの前に座っているおじいやおばあの表情がそれなりに生き生きとしていたからである。
 なかなか上達しないが、つたないキーボード入力で遠くに住んでいる娘や息子にやっとの思いでメールを送っている姿は、なかなか楽しそうであった。
 やらないよりはましさという観点から見れば、おじい、おばあと世間話をしながらのパソコン教室もいいものだ。吉川は最近そう考えるようになった。
 
 授業を終えて水平線の向こうに沈む夕日を楽しみながら帰り道を歩いていると、海岸にころがっているゴロタ石に座り、夕日を見ている一人の老人の姿があった。
 その老人の後ろ姿はパソコンの講習会に参加している老人たちとはかけ離れた、近寄り難い孤独さが感じられた。
「おじい」
「ああ吉川しゃん」
 仁美の祖父の上原正三だった。振り返った顔は吉川の予想に反して意外にも明るいものだった。すでにもう八十近いはずだった。
 生まれたときから強烈な紫外線にさらされてきたような浅黒い肌は、年相応の深いしわが刻まれていたが、そのがっしりとした体には、昔は相当海でならしたであろう、海人の面影を幾分残していた。
「何しとる」
「夕日を見てたさ。他に何もすることないさね。今日は中村さんの店休みね。仁美も家の仕事している。吉川さんはどこ行っとった」
「学校さ。水曜日は学校の先生と一緒にパソコンを教える日だもの」
「ああパソコンね」
「おじいも習いにくるか。講習料はタダだぞ」
「パソコンはいいさ」
上原はにやにや笑って続けた。
「あんなもん何につかうのかさっぱりわからんさ。パソコン見るなら釣りでもするさ。テレビもあるし」
 吉川もにやりと笑うと頷いた。
「おじいは海人だものな」
 なかなかしっかりしている。パソコンには興味がないと言いながらも、ボケた様子をみじんも感じさせない上原の話ぶりに、吉川は何となくほっとしたものを感じるのだった。
「それにそろそろお迎えが来るさ」
「なにいってんだおじい。まだ八十前だろう。沖縄じゃ八十前なんてまだ若い方じゃないか」
「あんまが呼んでいるのさ。夕日の向こうで早く来いって。わしにははっきり聞こえるのさ」
 そんな話をする上原の口調はどこか嬉しそうであった。
「おじい、そんなこと言ってないでもう帰り。仁美さんがご飯作って待ってんだろ。俺ももう行くよ」
 老人のこういう話になると吉川はなんと返事をすればいいかわからなくなる。
「仁美はいい娘さ。あの子がまた嫁に行ったらわしも海の向こうのあんまのところにいくさ」
 吉川の目を伺うように見つめ、夕日が落ちかかっている水平線にちらりと目をやると、すたすたと老人とは思えない足取りで行ってしまった。
 夕日を背にした上原の背中はやはりどこか寂しそうであった。
 その晩吉川はなかなか寝つけなかった。
 おじいは俺たちのことを知っているんだろうか。いまおじいが死んだら仁美はどうするだろう。
 ふとそんなことに考えが及ぶと、以前仁美に教えられた、上原家の墓を思い出した。女性の子宮をかたどった半円のような形をして、古墳のようにも見える大きなものだった。珊瑚の石を積み上げて作ったその墓は、十畳ぐらいの広さはたっぷりありそうだった。門中墓と言われ、一族全部、嫁に行った女性以外は全部、次男も三男の家族もそこに入るのだ。
「墓の前で宴会をすることがある」と仁美から聞かされ、そのときは死者に対する意識の違いに吉川は驚いたものである。
 けれどこうして二年近く沖縄で暮らしていると、それが当然のような気がしてくるから不思議なものだった。
 海の方向を向いた、上原家の墓の前で宴会をしたら、潮風が当たってさぞ気持ちがいいだろう。







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