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 嵐は益々激しくなってきた。時折りぞっとさせるような深い谷間が目前にできる。波が滝になって甲板から流れ落ちたときに多い。
 宗谷丸は次々クリアして行く。だが、つと、船速が落ちた。そして、谷間を見た瞬間、戦標が走った。谷底は余りにも間近で深すぎた。
 右舷を、巨大なうねりが襲ったのだろう。緩々(ゆるゆる)と進む船が傾いた。容赦なしだ。船は傾斜を増してゆく。傾斜は止まらない。マストが見え迫遽(はっきょ)に陥った(おちいった)。傾斜は益々大きくなっていく。遂に横転だ! 船縁は海面まであと僅かに迫った。墨色の空が落ちて来た。
「落ちる!」
 照日が叫んだ。
 朝日は弟を引き寄せた。高熱にうなされた幼い頃は母が抱きしめた。今は兄の掌が背に廻された。照日は兄の胸に顔をこすりつけた。
 朝日の馨逸(けいいつ)が照日の痙攣をやわらげた。
「落ち着いたか?」
 朝日は訊ねる。照日は頷いた。
「ぎりぎりだった。駄目かと思った」
 朝日の万感こもごも至る仕草は兄弟ならではのものだった。船は確かに立ち直っていた。
 海は生き物だと照日は思った。海は船を嬲って(なぶって)いるのだ。船がよじ登ったのではない。波が戻したのだ。暖色を招いて躍動を始めた雲は歓を尽くして見ていたのだ。海も波も雲も人も船も、萬有(ばんゆう)。自然の猛威を負かす力は神だと改めて悟った。
 朝日も哮る(たける)海を見ていた。瞬きもしないで黙している。心の裡で葛藤してるに違いない。
 朝日には恋人がいた。女子挺身隊員だった。
 その人を想っていると照日は察した。照日が切りだす前に朝日が唐突に言った。
「照日、お前は泳ぎは達者だったな。死ぬんじゃないぞ。泳ぎ切るんだ。俺を浮袋にして」
「そんな馬鹿な! 死ぬときは一緒だよ」
「駄目なんだ。精々、泳いで百メートルか」
 秀才だった朝日の苦手は水泳だった。
「予科練の最終テストで血沈が二十もあった。だから帰されたんだ」
 朝日は肺浸潤だったと言った。
「船木キヌさんを想ってたんでなかったの?」
 学徒動員で共に死をかい潜った二人に恋が芽生えて婚約したことは、照日も知っていた。
 兄が痛ましかった。決して喋らなかったから・・・。照日は話を続けたかったが中断せざるを得なくなった。
 船の状態が不気味になったからだ。激浪を避けるように船速を緩め、後ずさりさえしたあと漂流するように船体が微震して進まなくなった。只事ではないぞと総毛立った瞬間、宗谷丸は猛然と機関音を発して突進、目前に迫った巨浪を利して急転回した。船体は軋み(きしみ)、屹立(きつりつ)した船檣(せんしょう)が軋轢(あつれき)に似た音を発した。
 正しく、電光の早業で大潮流に突入を敢行したのだ。
「うずくまれ! 頭もだ!」
 朝日は弟の頭を麻袋に押さえ付けた。その上に自身も重なった。
 宗谷丸は激浪に押されて船速が倍加した。
「これからが大変だ。船長は必死だろう」
 朝日は、魚雷艇で散った先輩を想起した。先輩なら平気だろうか。巨浪に突っ込んでの方向転換は全く生きた心地がしない。考えただけで身の毛が弥立つ(よだつ)。台風は海峡全域を狂乱怒涛の渦に巻き込んでいるようだ。
「このままで暫く辛抱しよう。波を見るのはもう沢山だ。脅される(おどされる)だけだものな」
「さっきの話を続けたい」
 照日がそう言った。
「分かった。もう一寸待て。まだ落着かん」
 甲板の兄弟は傍(はた)から見れば正に冒険野郎だ。死を免れることは奇跡に近い。だが矢張り怖いもの見たさの心理が時間の経過と共に頭をもたげさせた。と、どうだろう、波の壁と壁とに挟まれて宗谷丸は走っているのだ。
 死の恐怖より恐ろしいものは死を達観することだ。そうなると死の恐怖は完全に失せる(うせる)。
 大したもので、兄弟は、木箱に顎さえのせて激流下りを味わっていた。
 一時間は走ったろうか、急に船速が落ちた。
「照日、怪しいぞ、愈々、お陀仏か」
 その時、さっきの船員二人が甲板の海水を蹴立てて船縁づたいに船尾甲板の方へ駆けて行った。
「沈みませんか!」
 照日は立ち上がって絶叫した。
 船員は別人のように駆け去った。驟雨(しゅうう)そのものの飛沫を透かして(すかして)船尾に救命艇が見えた。
 立ち止まらなかったのは救命艇目指していたのだ。
 突如、左舷が海に浸って船首が右斜め方向に向いた。衝撃があって、今度は逆に中空に浮いた。船体が軋んだ。舵が効かないのか、宗谷丸は微震を続けながら辛うじて進んでいるようだ。船長は潮流に逆らわずに、石橋を叩いて本州側に少しでも近づこうとしているのだろうか。波頭は鋭角もあれば鈍角もある。流れは速い。轟々と哮り立って走って行く。
「沈みませんか!」
 悲痛な叫びを上げて照日は船員を呼んだ。
 船員二人は、カッパを被って見向きもしないで駆けて行った。彼らも必死なのだ。
 兄弟の頭上にも端艇の底が見えている。
「いよいよ最後か。潔く(いさぎよく)死ぬ決心をしょう」
 朝日は弟を両膝で挟みこんだ。が、俄かにガタガタ震え始めた。照日は兄を見た。目が虚ろだ。震えは激しい。初めて見せた絶望の色。兄が痛ましい。顔が滲んで(にじんで)見える。照日は兄を励ましたい思いに駈られた。躊躇い(ためらい)を捨てて逆に兄の両膝を挟み込んだ。強く固く。
[懐かしは 小樽の街や この宵も
港抱きて たそがれあらん]
 照日は心をこめて朝日の詩集を諳んじてる(そらんじてる)幾つかを詠んだ(よんだ)。恋人への愛恋の詩も声にした。嗚咽(おえつ)を堪えて(こらえて)詠んで聞かせたあと、兄の両肩を力の限り揺さぶった。虚ろな(うつろな)目が光った。
「覚えていたのか?」
「啄木のうわ手をいくと思ってた」
「嬉しいことを言ってくれる。ありがとう」
 朝日は、ポケットから取り出したレターを裂いて海に散らした。兄は復したようだ。
「小樽に届いたんだ。浅薄な(あさはかな)奴よ。伯父の機嫌をすっかり損じまった。婚約は破棄する」
「キヌちゃんが可哀想だよ。そんな無茶な」
「その話は止そう。俺の心が変わってしまった・・・」
 照日は口を閉ざした。
「生きて帰れるかどうか? 俺は肉親の方が良い。彼女は純潔なんだ。鳥取へ帰るだろう」
[西に向け 駆けゆく汽車に山陰の
風情うすらぎ 行くも悲しき]
「照日、やめてくれ。もう割りきったんだ」
 宗谷丸は愈々切迫した事態に陥った。沈没寸前の凝縮を示すように、減速を続け激浪に船体をゆだねている。
「船長は必死だろう。俺は特攻隊を志願した。船長の責務は重い。俺は無責任だった。済まなかった」
 朝日は弟に家を任せた意を詫びた。
 海面が迫っていた。しかし恐怖はなかった。
 船底から伝わる荷の転がる音が途絶えた。
 船舷の軋む音が激しくなった。激揺れが間隙(かんげき)を与えないのだ。今度こそ駄目かと観念したそのとき、宗谷丸は、突如、突進を始めた。
「起死回生か! 手を出せ! 握手だ! 生き抜こう」
 朝日の掌は逞しい。照日の掌は石より硬い。空手で鍛えたからだ。兄弟は初めて笑った。
 所が、笑いはほんの一時、すぐ地獄がきた。
 縦波だ! 船首が、立ちはだかる真っ白いドーム状の途轍もなくデカイ緞帳(どんちょう)に突っ込んで行く。横波も怖いが縦波の方が照日は恐ろしかった。







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