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(二)
 
 甲板に二人の少年が居た。
 木箱の隙間に身を潜めた、竹山朝日、十八歳。竹山照日、十六歳。共に中学生だった。兄弟は台風圏に突入する海況を知らなかった。寧ろスリルが味わえることを楽しみにしていたのだ―。二人っ限の甲板で兄弟は一段落すると、顔だけ覘かせて波に見入っていた。荒波と飛沫だけの海原だった。宗谷丸は速度を上げて進んで行く。吹き付ける波しぶきは木箱が防いでくれる。
 宗谷丸は風波を衝いて(ついて)外海に出た。
 風波は忽ち熾烈な怒涛になった。兄弟は首を縮め息をつめ、顔を見合わせた。
 乱舞する飛沫から垣間見えた大波は、聳え(そびえ)立つ岩山と見紛う(みまがう)ばかりだ。
 宗谷丸は速度を上げて進んで行く。覆い被さる雲と繋がった波頭が、透明のジンク色に鈍く光っている。
 宗谷丸のマストを凌ぐ高さはあるだろう。
 静けさが一時あって、瞬き(まばたき)もせぬ間に重砲そのものの轟音をたてて天辺から崩れ落ちてきた。
 兄弟は、怖いもの見たさも吹っ飛んで縮み上がった。照日は朝日にしがみついていた。
 束の間窪んだ海原に様相した大波はゆったりと盛り上がり一気に船縁を越え甲板を洪水にした。
 しがみつき震える弟に、朝日が教えた。
「復元力があるから大丈夫だ!」
 予科練を志願して、大竹海兵団で特訓を受けた朝日は度胸があった。大声でローリングの話を聞かせた。
 二人は、また弧を描いて立ち上がった波に目を向けた。と、またまた、轟音と共に大波は崩れ落ち、左舷は宙に浮いて、兄弟も船体もろとも天空高く上りつめた。
「引っ繰り返る!」
 照日が叫んだ。
 船体は一時、空で静止した。マストを切り裂く風の叫嘯(きょうしょう)が連綿と続いた。宗谷丸はでかいうねりの山を船腹に諸(もろ)に受け横転寸前だった。離岸後一時間も経っていなかった。
「なんて事を!」
 さすがの朝日も色を失った。
「引き返すよネ、きっと」
 照日は震え声で呟き乍ら渾身(こんしん)の力で木箱を足で突っ張った。転覆を救うのに微力でも有効かと、いとけない仕草だが踏ん張ったのだ。
 宗谷丸は暴れ立ち屹立さえ見せた大波のなかを、船体を傾斜させたまま二百メートル余の弧を描いて天晴れな転針回頭を完遂させた。
 船体が、縦揺れに転じた事で納得できた。
「凄かった! 肝を冷やしたよ」
 朝日の言葉にも反応できない照日は恐怖に震えている。
「船長が憎い」
 照日は呻いた。
 数時間前。乗船の可否を巡って、喧々囂々(けんけんごうごう)の紛争のさなか船長が船から降りて来た。
 乗船改札口前だった。
 堂々たる風貌の船長の一声で乗船が始まった。
 遠巻きに見ていた兄弟は船長に近寄った。目が合った。船長の泰然とした態度が軍人だった父を偲ばせた。
 船長は兄弟に微笑をくれた。
 だが、この気違い沙汰の嵐が読めなかったのか! 照日は船長を恨んだ。
 ふと見ると、船舷が海面と擦れ擦れなのだ。
 朝日も、照日も、仰天どころでなかった。
 曾ての連絡船は、百貨店の屋上からの俯瞰(ふかん)だった。だのに、宗谷丸は何としたことか。
 甲板に海水が迫り上がってくるのだ。
 朝日は呆然。照日は卒倒しそうになった。
 あきらかに乾舷が低いのだ。
 横揺れは左程でもない。だが、強風と相乗して襲い掛った怒涛が船腹で飛沫を噴き上げ、まだ収まってもいないのに続けざまにぶち当たった。怒涛が辺り一面を飛沫で覆ってしまう。
 このスリルこそ、航海の醍醐味なのだろうが、兄弟には刺激が強すぎたようだ。
「生きた心地がしなかった」
「だけど圧巻だった」
 照日は怯え、朝日は落ち着きを取り戻した。
 飛沫は、まるで稲妻もどきだったから目を開けていられなかったのだ。飛沫は折よく吹き抜けた強風が一掃してくれた。
 痛烈な体験が二人に幾何(いくばく)かの勇気を齎した。
 しかし、それも束の間、其処彼処で荒れ狂う怒涛の起伏はまちまちだし、雲と波だけの狭隘(きょうあい)な世界に誘われ、翻弄されるのだから折角の悲壮な決意も挫けてしまう。海の水平もなければ空も無い。只中を走っている宗谷丸の甲板にいる事実だけは否めない現実なのだ。
「悪夢のようだ」
 朝日の呻く声が強風に吹き飛ばされた。
 照日は船が揺れるたび足を踏ん張り、腕にも力をこめて木箱との隙間をぐいぐい突っ張る。
「縦波なんだ」
 朝日は麻袋(またい)を戻して弟の顔を両掌で挟んだ。
「船長は百戦錬磨の猛者なんだ。任せよう」
 朝日は弟を気遣って、空元気を装っている。
 飛沫の中を風につんのめり乍ら駆けてゆく船員が足を止めた。合羽をはためかせて叫んだ。
「船室に入りなさい! 波が危険だ!」
 切れ切れに、声が、兄弟に届いた。
 船員が目ざとく二人を見つけたのだ。
 兄弟はかぶりを振って叫び返した。
「荷が重くて歩けなかったんです!」
「おいらが運んであげようか!」
 船員は二人だった。強風に、はためくゴム合羽が船員を甲板になぎ倒そうとする。
「待ってろ! いま行くぞ!」
「いいんです! ここで良いんです!」
 二人は、木箱から顔だけだして叫んだ。
「すったら事言ってると波に攫われるぞ!」
 船縁まで二メートル一寸だが切れ切れにしか聞こえない。耳を聾する風浪が吹き飛ばしてしまうのだ。船縁を掴んだ手を離した船員は甲板を躄(いざる)格好で木箱に辿りついた。
「すったら所にいちゃ死んじまうぞ! さあ、船室へ行くべ、荷物はおいらが運んでやっからさ!」
「狙われてたんです。汽車の中から荒くれの物騒な男に!」
「へっちゃらだ、おいらがやっつけてやっから安心しな!」
 屈強そうな若者だが、ゴム合羽で、目だけで押し問答してる最中にも強風と飛沫が船員を吹っ飛ばそうとする。
「目っ茶苦茶だぜ! すったら所にいちゃ!」
 間近でゴム覆面を下げると朝日に似た年格好だが船乗りらしい精悍さでてきぱき告げた。
「早くしな、船長命令なんだ! おいらは緊急召集されてんだ」
 道理で船員は慌ただしげに息を弾ませている。
「船は引っ繰り返りませんか?」
「ばっかこけ、内地さ行くんだべ!」
 照日は萎れる(しおれる)ように屈み(かがみ)込んだ。
 一人は蹌踉ける(よろける)足取りで、ドアまで行って開けようと取っ手にしがみつき引っ張るが、びくともしない。風圧で船員は足を滑らせて引っ繰り返った。折よくこちらに一時吹いた風と共に船員は木箱まで吹っ飛んで来た。
「ぼくたちはほんとに此処でいいんです」
 朝日は立ち上がって丁寧に言った。照日は上着を引っ張って朝日を屈ませた。
 船員はもう構っていられなくなった。
 烈風に薙ぎ倒されるのを堪えて、よろけながら、船縁にたどり着くと大声を振り絞った。
「波に攫われるなよ! 嵐はこれからなんだ気を付けろよ! おっかねえからな!」
「また、来てやっからな!」
 足を滑らせた船員も叫んだ。
 合羽をはためかせ飛ばされそうになり乍ら、船縁を伝って船員は船首甲板の方へ消えて行った。
 朝日は、軍人だった父に似て凛々しい青年に見える。しかし、心なしか声のトーンが落ちている。歯の根が合わないのを知られたくないのだ。
「二人の体を紐で結んでおこう」
 朝日の案で、兄弟は、互いのバンドを麻紐で結んだ。大事な食糧はがっちり膝で挟んだ。二人は顔を見合わせた。気分が楽になった。
「もう安心だ。頑張ろう!」
 朝日の声のトーンが上がった。
「この木箱が二人を必ず守ってくれる」
 朝日は弟を庇って(かばって)遣る(やる)ことに心を砕いた。
 照日は引き攣るように全身を震わせている。
 兄弟は船員が去ると、また木箱から顔だけ覘かせて、益々、荒れ狂う海原に見入った。
 宗谷丸は激浪の海原をひた走って行く。
 最早や、帰航も叶わないと諦めた兄弟は、拳を固めて、奔放に暴れる怒涛を見ているより心の遣りばも、目の遣りばも無かった。
 風は西向きのようだが、時折り、あらぬ方で、波濤がぶつかり合って途轍(とてつ)も無くでかく盛り上がった飛沫を見せる。凄まじい光景だ。
 宗谷丸は我関せずと猛り狂う海原を敢然と進んで行く。怒涛は絶え間なく船腹を襲った。
 兄弟は千変万化する波を見ているだけだが中には獰猛な波が二人を攫おうと、木箱まで押し寄せてくる。絶海の孤島でラオコーンの大蛇と闘う感だ。
「この城壁が無かったら、いちころだ」
 朝日は凛乎(りんこ)とした姿勢は崩さないが震えた。
「頼もしい船長だね・・・」
 木箱と言いかけた照日は船長と言い換えた。
 恐怖に震えながらも気遣う弟に、朝日は思わず額手(がくしゅ)した。
『さっきまで恨んでいたはずの船長に詫びたくなったのだろう』と、朝日は考えた。







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