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町村合併 始まりのはじまり
小松 光一
 
 「平成の大合併」、といわれた市町村合併も終わりつつある。さて、合併したところもそうでないところも、私たち住民にはどんな変化がおきるのだろう。「政治とは何か」「自治とは何か」、基本に返って、行く末を考えたい。
 
賛成・反対でなくどっちがマシか
政は正、不正を正す
 白川静氏の『常用字解』によれば、政とは、セイであり、まつりごとであり、もともとは正である。正とは城郭で囲まれている邑(マチ)を攻めて征服するという意味だという。もちろん攻めるためには大義がいる。その大義によって攻めるわけだから、征は正である。正す、つまり不正を正すのである。それゆえ政治には大義がつきまとうのである。政治は征服であるから当然権力が伴う。力づくである。ここから政治とは力がつきまとう。ひるがえって政とは、征服した被支配者に対して税をとりたてるの意味があるという。そしてさらに鞭を打つの意を含む、という。つまり鞭を持って税金をとりたてるのである。もともとは貢ぎものや税金をとることが政治なのであると白川静先生はいう。
共、ともの持つ
 次に常用字解の「共」をひいてみる。キョウ、とも、つつしむ、そなえる、ともに、とある。もともとは両手にそれぞれ物をもって捧げている形から生まれた文字であるという。共はおそらく儀礼のときにつかう祭器をうやうやしく捧げ持って、神を拝むことを示す字であろうと白川先生はいわれる。うやうやしく両手でともに持つ、という共同性から、共同の共という字は生まれたのである。政とはまるで違う。
 つまり、共とは、共同体のための共同実務としての政治であるのに対し、政は強権をもって税金をとりあげ支配する政治なのであり、いまや日本は、ますます増大する福祉国家システムにより、この二つがごちゃごちゃになっている。
 このごちゃごちゃをつくったのは、実は明治政府である。明治、人々にとって突如ふってわいて出た政府、この政府が富国強兵のため金がいる。金は当然人々からとる税金である。税金をとるために大義がいる。その大義が「権利」であった。かくして江戸の終わり、福沢諭吉が翻訳した「権義」あるいは「権理通義」、ライト(Right)ということばに明治政府や加藤弘之は「権利」という訳語をあてたのだった。
ルソーの「社会契約論」
 政治とは、住民が行うものであり、そのもとは住民共同の実務に他ならない。その共同の実務を占有し、分業形態に吸収したのが政治家という職業である。本来は、政府や行政は小さなものとすべきであり、水ぶくれのようにふくれきった福祉国家ではないはずである。水ぶくれの福祉国家とは政治の堕落であり、住民が本来行うべき政治生活からの無関心に他ならない。国家はもともとその成立からいって人々にとってよそよそしいものであったし、そしてさらに、住民の行政実務が奪われ、僭主(せんしゅ)されればされるほど、その無関心は深まる。
 自由権というのは、私たちが自由に政治に参加する「権理」である。「あっ、あんたたちは何もしないでいいんです。全部私たちがやります」という、すぐやる課、等々。こうした状況に対して、おかしいといったのがルソーであった。このおかしいという疑問がやがてフランス革命になったといわれている。
 
 
共は市民社会、政は国家
 さて、ルソーである。『社会契約論』で彼はあの有名なことばからはじめる。「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている」(注1)と。こうして鎖につながれている人間が、いかに自由をとりもどせるシステムを生み出すか、がルソーの『社会契約論』のテーマとなる。そのために「各構成員の身体と財産を、共同の力をあげて守り保護するような結合の一形式を発見すること、そして、それによって各人が、すべての人々と結びつきながらも、しかも自分自身にしか服従せず以前と同じように自由であること」(社会契約論)というのである。つまりルソーがめざした社会契約という政治形態はあきらかに「共としての政治」だった。近代哲学によれば、共とは市民社会であり、政とは国家に他ならなく、ヘーゲルもマルクスも、この市民と国家の分離をどうするのかと考えぬいたのだ。
 ルソーは、この自由を保障する政治のために、「政府が小さいこと」と「定期集会」に着目する。つまり、自由な政治のためには、政府が小さく、住民は自由に定期集会に参加することが必要だというのである。「大きな政府と国民の無関心」というのが日本であるとすれば、いったい日本は政治的な先進国といえるのだろうか。
 ルソーは次のようにいう。「うまく運営されている都市国家では、各人は投票にかけつけるが、悪い政府の下では、投票に出かけるために一足でも動かすことは誰も好まない、なぜなら、そこで行われることに、誰も関心をもたないし、そこでは一般意思が支配されないことが予見されるし、また最後に家の仕事に忙殺されるからである」(注2)。この文章は、実は、集会を投票にいいかえている。ルソーの時代は、集会は即投票であった。直接民主制だったのだ。
 こうして、ルソーは、政治家や軍隊に実権を譲り渡すことをきびしく批判する。「主権は分割してはならないし、譲ってもいけない」と。これは、文字どおり自治の姿である。住民が自分できちんと政治を行う。それは、もはや代議制のもとでも共同実務を自分でやる、これこそが自治である。この自治の姿こそ、共としての政治の姿ではないだろうか。
今問う「政治とは、自治とは」
これがT市の合併劇
 平成の大合併だという。騒動である。しかしどう考えても大義がないから攻めの姿勢がでてこない。ただ上からやれといってしめあげるだけ、都市型の自治体は当然のってこない。しだいに状況は茶番になってきている。
 千葉県T市のことである。当然政府の方はアメを用意した。合併特例債というものである。つまり、借金をしてもよろしいというお墨つきを国が合併する市町村に出すというわけである。もちろん、特例債であるから、借金である。国のほうは、紙をちょっと印刷すればすむだけのことである。だが、借金は後世に残る。この合併債に市当局というよりも多くの議員が飛びついた。
 当然、この金を利権にしようと考えたものもいたにちがいない。さっそく、合併特例債の使いみちに対し、公園をつくろうという、まあ、安易な意見が上った。すでにT市では、“セントラルパーク構想”というどでかい構想があるにもかかわらずである。しかも280億円の公園構想の大事業である。当然、住民は変だ?と感じた。合併特例債に便乗して何かやるに違いない。もともと公園なんかいらないし、もうこれ以上の借金はたくさんだというわけだったろう。ついに、合併問題に対し住民投票で決めようと提案が出され、1市4町1村の合併についてのT市の態度に対し、住民の意志をはっきりさせようということになっていった。
合併政治、合併債
 住民投票は、合併に反対約1万7千票、賛成約8千700票と、大差で反対の意向を示した。もちろん、T市という地名がなくなってしまうということで反対の人も多かったという。いずれにしても、このような合併劇はまさに劇場政治のように崩れはて、当初は市長も辞表を出すような事態ともなっていった。
 T市が抜けたあと、いくつかの町村で合併しようという動きがあり、「太平洋市」というとてつもない名前が浮上し、さらに心ある人の失笑をかっている。
 これらはみな、間接民主制という代議制が生み出したものであり、住民ぬきで議論し、勝手な構想をでっちあげ、おまけに便乗しお手盛りも図るという図式である。住民はまさにルソーのいうように、議員を選んだまま無関心を決めこもうとしていた矢先、この合併案の問題点を知らされたのであった。
 多かれ少なかれ、程度の差こそあれ、こんな状況が合併をめぐる政治であろう。とりあえずこの図式を合併政治といおう。
 むしろ、こうした合併政治に対し、合併しないことで、難局をきりひらこうという市町村に大義と自治の政治があるといえないか。これらの市町村は懸命になって対策をつくり、なるべく国に依存せず、自分たちの共同の実務をうまく組み合わせ、それこそ、住民参加の行政を生み出しつつある。これこそ本当の行政改革である。
ある、女性の手紙
 先日、T市で「田んぼの学校」という活動をしている31歳になったある女性から手紙をいただいた。
 「今度の合併問題で、私たちの知らないところでとんでもないことが起きていたりするのですね。私たちもこの合併に賛成にしろ反対にしろ、ともかく声を出していかなきゃいけないと思い、「CAT(Communication & Action TOGANE)」というグループをつくりました。CATというのはボランティアのグループです。そして、次のようなことを訴えたのです。
 今回の住民投票は『どちらが良いか』を選ぶ投票ではありません。『どちらの道も苦しいけれど、どちらの方が少しでもマシか』を選ぶ投票です。
 誰でも生活水準を下げるのはイヤだし難しいでしょう?
 それなら真剣に考えてみて下さい。
 合併してもしなくても、市民の負担は必ず増えるはずです。
 どちらの道を選んだ方がより負担が少なくてすむのか、自分の頭でじっくり考えて投票してください。
 そして、『賛成』『反対』のどちらに票を投じたとしても、その後の展開にしっかり注目してください。私たちのお金を無駄遣いされるようなことがないように。住民投票はめんどうな義務ではありません。私たち市民のためにあるのです!
 合併問題もひと段落がつきました。しかし、これは『はじまりのはじまり』なんだと思うのです。さて、そろそろ春がやってきます。私たちの『田んぼの学校』もまた今年もはじまります」と―。
 そう。とても確実に春はやってきているのだ。道元はいう、「山中とは世界裏の花界なり」と。(法政大学講師)
 
 
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