2 老中・阿部正弘の登場
天保の改革に失敗した水野忠邦と入れ代わるように、阿部正弘は天保十四年(一八四三)老中に就任した。その後、水野政権期の老中が次々辞職したため、二年後には最先任者として老中首座の地位についた。
阿部正弘が老中在任中の政局は、ペリー艦隊来航まで表面的には安定していた。しかし、オランダ国王の開国勧告、イギリス・フランス船の琉球来航、アメリカ・ビッドル艦隊の浦賀来航と、外国船の来航が相次ぎ、対外的危機感は高まっていった。
阿部正弘は海防強化をめざして、異国船打払令復活や大船建造の解禁を試みるが、幕府内での反対が強く実現できなかった。
阿部正弘のこのような海防政策に影響を与えていたのが、前水戸藩主・徳川斉昭であった。また、島津斉彬など雄藩の指導者とも阿部正弘は連携を強めていった。
嘉永五年(一八五二)、阿部正弘はオランダからの情報でアメリカ艦隊の日本来航計画を知るが、幕府内の反応は鈍く対応策を打ち出すことはできなかった。阿部正弘は雄藩藩主と情報を共有して連携することで、事態に対応しようとした。
12. 八字一行書 阿部正弘書
13. 御役所及び使節応接絵図
14. 「潮音」阿部正弘書
15. 徳川斉昭宛阿部正弘書状写(「新伊勢物語」)
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