『ギャンブルに関する学際研究』 日本リゾートクラブ協会スポーツ産業寄附講座 平成6年度研究報告シリーズ
松田義幸
6.ギャンブルの経済的側面
日本やアメリカでは公営ギャンブルがさかんで、これが国や地方自治体の財源の一部をなしている。ギャンブルは証券取引と類似性があるとよく言われる。また、ギャンブルにおける確率の研究が経済学、統計学の発達に貢献してきたという事実もある。
このように、ギャンブルは経済とも深いかかわり合いがある。そこで、ここでは、ギャンブルの経済学について紹介したい。アメリカのジョージ・イグナチェンとロバート・スミスが「ギャンブルの経済学」(The Economics of Gambling)と題する論文を発表しているので、以下この論文の内容を紹介する。
(1)ギャンブルと経済学の結びつきの歴史
ギャンブルと経済学の結びつきを高めて本格的に解明しようとしたのは、フランスの数学者、ダニエル・ベルヌーイである。彼はギャンブルにヒントを得て富の限界効用説(MUw)を展開した。ベルヌーイによれば、いくつかの異なる結果の予想に関連する効用(U)の統計はギャンブルの期待値(EV)の効用を単純に測定することよりも、ギャンブルの価値の測定に適しているという。彼はU(EV)よりもΣ(U)を支持したのである。すなわち
Σ(U)=Σ〔U1(X1)・P1+U2(X2)・P2+・・・+Un(Xn)・Pn〕
ただし、U1(X1)は結果X1の効用、P1はX1が生じる確率である。ベルヌーイはU(EV)=U(X1・P1+X2・P2+・・・XnPn)
(X1は結果X1の貨幣価値、P1はX1が生じる確率)を否定したわけである。彼のこの理論はその後広く支持され、近代投資論の基礎になった。
ベルヌーイの、この考え方は、以下の様な結論に達した。
1)富の量の等しい人物の間の賭けは不合理である。
2)富の量の異なる人物の間の賭けは合理的である。
3)多様化によってリスクを拡散することは常に合理的である。
アダム・スミスは、人は不公正な富くじ(すなわち、EV<0)に参加するが、これは高収入を得るのはごく少数で、平均収入は低い職業に就くようなものだと指摘した。彼はその理由を次のように述べている。
たいていの人が自分自身の能力について抱いているうぬぼれについては、古くから哲学者や進学者がこれを批判してきた。人は自分だけは幸福だと馬鹿げた幻想を抱いているが、このことに注目した人は少ない。しかし、この馬鹿げた考え方は普遍性がある。人はだれでも得をする確率を過大評価し、損をする確率を過小評価する。
アダム・スミスはベルヌーイの理論に賛成しながらも、ある取引きに参加する二つのグループは異なった期待を持っているという事実を指摘した。しかし残念ながら、この重要な事実はこれまであまり注目されなかった。
アルフレッド・マーシャルはベルヌーイの限界効用理論を支持した。マーシャルは、公正かつ公平な(すなわち、EV=0)一回きりの賭けは経済的損失(効用における)を意味すると主張した。EV=0のとき、公正かつ公平な賭けが成立するというのは、コインの表裏をあてる賭けの例によって説明することができる。この場合、表が出る確率は0.5で、同じく裏が出る確率も0.5である。表に賭けた人が1ドルを手に入れ、裏に賭けた人が1ドルを失うとすれば、期待値(EV)=PH×$H+PT×$T=0.5×(+1)+0.5×(−1)=0となる。マーシャルは、限界効用説によれば当然の帰結は損失になるので、ギャンブルそのものにはなんら効用がないと主張した。
フリードマンとサベージは、限界効用説を肯定した上で、経済的に不合理に見える行動パターンを合理的にするために効用関数を考え出した。これ以後、ギャンブル行動を正当化する状況を具体的に提示する試み、合理的な投資家によって行われるリスクと期待値の調整について議論がさかんに行われた。
サミユエルソンは、これらの議論をまとめて、ギャンブル行動には価値判断と消費行動が含まれると指摘した。サミユエルソンによれば、たいていの人はギャンブルをして最終的には損をするが、これは、彼らが不公正な(すなわちEV<0)賭けに参加しているからだと主張した。
(2)ギャンブルにおける消費の側面
ギャンブルと投資は類似していると言われるが、この議論で間違っているのは、ギャンブルも投資ももっぱら富の獲得に関係しているという点である。経済学者の多くは、完全な知識、合理的な行動、富を獲得する唯一の方法は経済的財ないしサービスを生産することだという信念を前提条件とする市場モデルから出発したため、財やサービスの生産を志向しない金銭の交換を説明することがなかなかできなかった。そのため投資という考え方には、金を儲けるための様々な行動が含まれるようになってしまった。しかし、投資行動は生産的ではないが、実際に生産活動に従事する人びとの生産効率を高めるという理由に正当化された。
ところがギャンブルは明らかに生産性向上に貢献しないため、経済学者はギャンブルを合理的なものとみなすことができず、逆にこれを非生産的で不道徳なものとして批判した。サミユエルソンは「道徳、倫理、宗教」に照らしてギャンブルは悪だと述べている。彼はさらにこう述べている―「ギャンブルに対する反証となる決定的経済的事例がある・・・ギャンブルは不毛な金銭、財の交換である・・・ギャンブルは時間と資源を消費する。レクリェーションの範囲から逸脱したギャンブルは国の歳入を減らすだけである。」
このように、ギャンブルとの経済的分析においては、価値判断が重要な役割を演じたわけである。言い換えれば、ギャンブルに関する重要な事実が見過ごされたのである。過去数千年間にわたり、ギャンブルは人類にとって重要なレジャーないしレクリェーション活動であった。今日ギャンブルが世界各地で行われていることはもちろん、人類の歴史を通じてギャンブルが常に人類に愛好されてきた証拠は枚挙にいとまない。ギャンブル行動は特定の環境において見られるとしても、その特定の環境が世界のいたるところに存在することを考えると、この特定の環境が異常であるとは言えないのではないだろうか。カプランによれば、「ギャンブルは今日、世界のいたるところで見られる現象であり、また、古代においてもギャンブルが行われたという証拠は古代の洞窟の中に発見される。」数々の法的規制にもかかわらず、ギャンブルは常に人気を保ってきたのである。そして、ギャンブルは常に下等な活動とみなされ、他のレクリェーション活動―ダンス、球技など―と同様、ただただ禁止されてきた。クラウスによれば、「時にはプロテスタンティズム(新教)の影響が強いところでは、大衆の娯楽、スポーツ、芸術など悦楽を得るための余暇の活用は規制されることが多かった」のである。また、ギャンブルは常にスポーツ、イベントと補完関係を保ってきた。19世紀のアメリカでは、徒歩競技でさえギャンブル活動とみなされた。
このようなギャンブル観が支配的であったため、ギャンブルは常に違法行為とみなされ、そのために、かえって違法ギャンブル市場が異常な発達をすることになった。ある推計によると、競馬の賭け金の約6分の1が競馬場で賭けられる金額で、あとの約6分の5は私設賭け元のところで賭けられているという。1967年にライフ誌は次のように報じている―「毎年マフィアは違法ギャンブルで200億ドルの金を動かしている。そのうち、利益は70億ドルと言われている。」この種の数字について諸説があって、正確なところはわからないが、実際にアメリカで動いている金はこれよりはるかに多いと思われる。
いっぽう、政府はギャンブル、飲酒などの違法行為を大目に見る傾向にある。この種の違法行為は人におよぼす害が少ないからである。ギャンブル熱がいたるところに見られ、かつギャンブルを違法とみなす傾向がいたるところに見られるのであるが、実際にこれを法律で厳しく取り締まるという現象だけはいたるところに見られるわけではない。ということは、ギャンブルを合法化するか否かは、一般大衆がギャンブル税による便益を享受できるか、それとも、官吏が賄賂という形でギャンブルから得られる便益を一人占めにしてしまうかにかかっていると言える。
ギャンブルは普遍的な人間の行動であり、経済学者がこれを理論的に合理的なものにする必要はないのである。経済学者にとって必要なのは、ギャンブルを理解することである。人がギャンブルをするのは、金が欲しいためばかりでなく、その他いろいろな理由があるのである。この「その他のいろいろな理由」には「効用」を増大させようとする試みも含まれているのである。ということは、リスクを避けるという想定は全人にあるいは平均的人間に適用すれば間違いであり、限界効用説も余計な理論ということになる。ギャンブルは、それから得られる効用がそのコストないし価格(ギャンブルの価格)より大きければ合理的だと言うことができるのである。「ギャンブルから得られる効用」が消費者に効用をもたらすものが何であれ、その価値をきめるものである。「ギャンブルの価格」には、予想される損失額、交通費、時間的コストなどが含まれる。
ギャンブルは時間を消費するが、効用をもたらし、さらに利益をもたらす可能性のある活動なのである。ギャンブルが投資に似ていると言われるのは「利益をもたらす可能性がある」という点のみが強調されるためである。ギャンブルには消費と投資という両面があるのである。さらに、「ギャンブルから得られる効用」は「ギャンブルの価格」が減少すると、逆に増大するという傾向をますために問題が複雑になってしまう。ギャンブラーが勝てば勝つほど「ギャンブルの価格」は減少し、「ギャンブルから得られる効用」は増大するのである。
経済学の常識では、人は生産的に(すなわち、金を稼ぎながら)時間を過ごすか、消費に時間を過ごすかのいずれかで、同時に両方を行うことはできないことになっている。仕事は苦痛をともなうもの(非効用をもたらすもの)と考えられ、いっぽうレジャーは楽しむものと考えられている。仕事をする人は収入を得るための仕事と収入の双方から効用を享受するという意味で例外的である。だとすれば、なぜギャンブラーは必ず損をすると信じている経済学者が、それ故にギャンブルは効用をもたらすものと考えないのか、理解に苦しむ。
(3)投資活動としてのギャンブル
A. ギャンブルの定義
一般に、経済学者はギャンブルを金銭の移動をともなう非生産的なゲームと定義している。通常、ギャンブルには、賭ける人が自発的に、純粋な取引きのために、あるいは、ある事件の結果に関する意見の違いが原因で、取引きに参加するという意味で、企図されたリスクが含まれる。ギャンブルをする人の動機には金銭的利得も含まれるが、たいていのギャンブルは消費の目的で行われる。さらに、リスクをおかす行動で、しかも金銭の移動をともなわない行動の多くも、報道機関では、ギャンブルと呼ばれる。このため、問題が厄介になってしまう。
B. リスクと不確実性
ウェブスター英語辞典によると、「リスク」とは、(a)損失の可能性(b)損失の確率となっている。また、フランク・ナイトは「リスク」を「一群の場合における結果の配分が分かっている状況」と定義し、また、「不確実性」を「状況そのものが単一であるため一群の場合を設定することが不可能な状態」と定義した。
ここで問題なのは、ギャンブル(あるいは投資)が「リスク」あるいは「不確実性」をその特徴とするかどうかということである。経済学者の多くは「リスク」を重視し、だれもが期待値(EV)と一連の不確実な未来のできごとの変分を承知しているという単純な説明を行ってきた。賭けに参加する全員がこのような均等な期待をし、その期待が正しいことがわかると考えられてきた。
C. 確率と期待値
経済学者の多くは、「リスク」と「不確実性」の定義については異論がないのであるが、「確率」と「期待値」(EV)の定義については合意に達していない。「確率」と「不確実性」については、次のような全く対立する定義がある。
1. 客観論―「確率」とは、長期的に見た場合のあるべきことが発生する相対的頻度である。これは期待値(EV)の数学的概念で、できごとの数が無限に近づく場合の頻度分布の中央値を意味する。
2. 主観論―「確率」とは、あるできごとが発生するという主観的信念の度合い、すなわち、特異なできごとについての主観的推定である。
客観論では、あるできごとの期待値(EV)を求めることは不可能である。また、主観論では、一連のできごとが発生しなければ、中央値も変分もわからない。つまり、客観論は、反覆行為が数多く行われる場合(たとえば、コインの表裏を当てる行為)においては、常に正しく、主観論は単一のできごと(たとえば、ボクシングの試合)については正しい。不幸なことに、経済学者の多くは、すべてのギャンブルは同一で、客観論も主観論もすべての状況について正しいと想定してきた。しかし、前述の「一回きりの公正な賭け」の例(限界効用説を証明するために用いられた例)には、期待値(EV)についてのこの二つの定義の矛盾が含まれている。なぜなら単一のできごとに対しての中央値はあり得ないのだし、また、一回の賭けの貨幣価値が0になることもあり得ない(賭ける人は勝つか敗けるかのいずれかである)からである。しかし、過去200年にわたり、経済学者はこの類推の範囲をあまりに拡大しすぎて、一回の賭けについて正しいことは数多くの賭けについても正しいと想定してきた。しかし現実には一回のコイン表裏あてでは、表か裏かのいずれかであるが、これを1,000回行うと、表が470〜530回出る計算になる。一回のコイン表裏あてを行う場合の合理性と1,000回行う場合の合理性は全く異質なのである。
D. 投資としてのギャンブル
一般に、投資家は期待する報酬ないし期待値(EV)については高い値を欲し、リスクないし報酬の可変性(R)については低い値を欲する。経済学者は、投資家は低いR、低いEV、高いR、高いEVの組合せについては無差別であると想定して、RとEVの1回のトレード・オフを示す無差別曲線を考え出した。この曲線は、投資家は一定のリスクに対しては高い報酬を望み、一定の報酬については低いリスクを望むことを示すものである。
しかし、他の条件が同じならば、投資家は高い報酬を望むということは明白であるが、特にリスクが定義されるとき、なぜ投資家は低いリスクを得るために高い報酬を放棄するのかは明白ではない。小規模で不確実な投資(賭け)を数多く行う人は「多数の法則」によって期待値が得やすくなる。つまり、高い報酬を期待できる(EV>0)リスクの高い投資を数多く行うことのできる金持ちは、運が悪いため破産する確率の高い貧乏人よりも期待値(EV)を得る確率が高い、ということになる。
クロワーとデューは、リスクは過去の経験から確実に推定することはできないが、直感と純粋な当て推量は様々な報酬の相対的な確実性を検定する、と述べているが、これよりもむしろ、未来のできごとを推定ないし予想を確実に行うことはできない、と言った方が正確である。将来におけるできごとの展開のみが、報酬に関する様々な推定の相対的な正確さを決定するのである。従って、「リスク」の本当の意味は「変分の推定あるいは特定の未来のできごとの発生の確率の推定」ということになる。
ときによってEVとRの推定が本当に必要な場合もあるが、またときによって、最も可能性のある範囲の推定が最も重要な場合もある。しかし、たいていの場合、最も重要なのはEVの推定だけである。試み(ギャンブル、投資など)の回数が増え、それぞれの試みの規模(収入、富と関連する)が小さくなるほど、EVの重要性が増し、Rの重要性は減少する。
「リスク」と「不確実性」について論じた人の多くは、よりリスクの高い資産はより大きな報酬(EV、利息)を得なければならないし、また、より高い報酬率はより高いリスクによって補われなければならないと想定しているが、この「報酬率」が記述されたものか現実のものか、また「補う」という言葉の意味は何かを明確にすることが必要である。すなわち、収入を生む資産は記述された報酬率とリスク―すなわち、実際の報酬率が記述された報酬率より低くなる確率―に応じて格づけすることができる。
実際のリスクと記述されたリスクを列記することは容易である(報酬率とリスク率の組合せは無限である)が、これらの報酬のそれぞれについての確率を推定することは非常に難しい。ここが問題の核心である。投資家は、いくつかの異なる報酬率を正確に推定できないとき不安を感じる。この推定を正確に行えば―すなわち,彼の推定が常に確証されれば、不確実性やリスクの問題は発生しないだろう。リスクは既知の報酬ではなく、考えられる報酬に関連する不確実性の程度にかかわる問題である。いくつかの異なる結果に関する確率は入手できるデータと方法に基づく主観的推定である。この意味で、そのような投資はギャンブルとみなしてもよい。
E. ギャンブル市場
アメリカには大まかに分けて4種類のギャンブル市場が存在する。すなわち、(1)州営の競馬、ドッグレース(パリ、ミューチェル方式)、(2)技術的な私設ゲーム、たとえば、ゴルフ、ポーカーなど(賭け率は参加者が合意に基づいて、各人の技量を主観的に判断してきめる)、(3)スポーツに関する賭け、たとえば、フットボール、野球、バスケットボールの試合の結果に関する賭け(賭け率はプロの賭け元が設定する)、(4)運が支配的なゲーム。たとえば、ルーレットやロッテリー(全参加者の実際の期待値を知ることができる。)である。
普通、ギャンブルや投資について論じる人は4番目の市場を重視しがちであるが、1〜3番の方が参加者の数、賭けられる金額から言えばはるかに重要である。4番目の市場も重要なギャンブル市場ではあるが、さほど興味深い市場ではない。この市場においては、ゲームの効用が期待される損失より大きい。従って、4番目の市場は無視してよい。
1. パリ、ミューチェル方式のゲームに賭ける人は予想の段階で他の人びとに勝たねばならない。従って、(1)パリ、ミューチェル方式で計算された賭け率、(2)実際の賭け率(主観的期待値)を決定しなければならない。
2. 技術的なゲームは多くの説明を必要としない。金銭の移動があるにしても、この種のゲームの最大の要素は友情とレジャーである。
3. スポーツに関する賭けはネバダ州以外では禁止されているが、実際には、人口10,000人以上のたいていの都市では、この種の賭けが行われていると考えてよかろう。そして人口が多く、スポーツがさかんな都市ほどこの種の賭けはさかんである。
以上から、次のような想定が可能になる―(a)カンザス・シティよりもニューヨーク市の方がギャンブルはさかんである。(b)インディアナ州サウス・ベンドではプロ・フットボールよりもカレッヂフットボールに関するギャンブルがさかんである。(c)テレビで放送されないゲームよりテレビで放送されるゲームに賭けられる金額の方が多い。確たる証拠はないのであるが、この違法なスポーツ・ギャンブルがアメリカにおけるギャンブルの主流をなしているように思われる。この種のギャンブルで働く金額は年間2,000億ドルに達するものと思われる。
スポーツ・ギャンブルを単に短期的で、リスクが大きく、それ故、報酬も大きくなる可能性のある投資と考えることはできないが、伝統的な投資市場とスポーツ・ギャンブル市場の間にはいくつかの類似点が認められる。投資市場には投資機会について相談に乗ってくれる投資カウンセラーがいるが、スポーツ・ギャンブル市場には全米で約200のスポーツ情報サービス機関があるといわれる(ウォール・ストリート・ジャーナル紙)。この数字は1971年の数字であるから、その後この数字は相当増えているものと思われる。
投資(証券)市場の運営とその効率は、市場の奥行と幅と弾力性によって評価されると言われる。「奥行」とは現在および将来における取引量を言い、「間口」は市場における買い手と売り手の数を言う。「弾力性」は市場価格の変動に対する反応に弾力性があるということである。スポーツ市場を分析する上で困難なことの一つに、個々の市場の数が多く、しかも、それぞれ「奥行」「間口」「弾力性」が異なるという事実がある。従って、ギャンブル、ビジネスには非常に大規模なものから非常に小規模なものまで含まれているわけである。
「奥行」と「間口」がかなり大きい市場の特徴の一つは、指し値と呼び値の差が小さいということである。一般に、ギャンブル市場ではこの指し値と呼び値の差がギャンブラーが賭け元に与える賭け率であると考えられている。たとえば、フットボールやバスケットボールに賭ける場合、特定のゲームにおける賭け率は11/10である。これは、賭ける側が10ドル儲けるために11ドルを賭けるという意味である。
「奥行」の深い市場で多額を賭ける人は、いわゆる買い占めによって、賭け率を10.5/10あるいは10/10にすることができる。逆に「奥行」の浅い市場で賭ける人は賭け率を12/10位にしなければならない。
F. 賭け業の経済学
賭け元の目的は「ダッチ・ブック」―どちら側が勝っても賭け元が同じ金額を儲けることができる状況―を達成することだと言われている。言い換えれば、賭け元は、賭ける人の手数から見れば高すぎ、後の手数から見れば安すぎる価格を設定しようとするわけである。次に、この操作の例を紹介しよう。
A. 単価が20セントの野球ギャンブルで賭け率が11/10だとする。賭ける人は100ドルを獲得するために110ドルを賭けなければならない。両チームにそれぞれ110ドルが賭けられれば、賭け元は試合の結果に関係なく10ドルを儲けることができる。
B. 同じく単価が20セントで賭け率が15/10だとする。賭ける人は優勢なチーム(F)に賭けた場合、100ドルを獲得するために150ドルを賭けなければならないし、劣勢なチーム(U)に賭けた場合は130ドルを獲得するために100ドルを賭けるだけでよい。もし、Fに150ドルが賭けられ、Uに100ドルが賭けられれば、賭け元は、Uが勝てば20ドル儲かり、Fが勝てば儲けは0になる。これでは「ダッチ・ブック」にならない。賭け元としては、Uに約108.70ドルを賭けてもらい、結果に関係なく8.70ドルの粗利を稼がねばならない。賭け率が18/10でFに180ドルが賭けられた場合は、賭け元はUに約107.69ドルを賭けてもらい、7.70ドルの粗利を確保しなければならないわけである。
C. 単価が10セントで、両チームにそれぞれ105ドルが賭けられた場合、賭け元は5ドルの粗利を確保できる。
D. 単価が10セント、賭け率が15/10で、Fに150ドルが賭けられた場合は、賭け元はUに約104.17ドル賭けてもらい、4.17ドルの粗利を確保しなければならない。賭け率が18/10でFに180ドルが賭けられれば、賭け元はUに103.70ドル賭けてもらい、4.70ドルの粗利を確保しなければならない。
以上の例から、次のようなことが考えられる。
1. 賭け率が高いほど、賭け元のマージン(賭けられた金額のパーセント)は小さくなる。アメリカの野球ギャンブルは通常、単価が10セントさある。賭け率が10.5/10ならば、賭けられた金額210ドルに対して5ドル(2.38%)のマージンが得られる。賭け率が15/10ならば、賭けられた金額254.17ドルに対して4.17ドル(1.64%)のマージン、賭け率が18/10ならば、283.70ドルに対して3.70ドル(1.30%)のマージンとなる。
2. 賭け率15/10が普通で、賭け元が10億ドル稼いだとすると、なんと610億ドルが賭けられたことになる。
3. マージンが少なく、運営コストが高い場合、「ダッチ・ブック」を達成できるのは大規模な賭け元だけである。賭けられた金額が100万ドルであれば、マージンはわずか16,400ドルである。マージンと粗利であるから、これらの数字から運営コスト―家賃、電話代、人件費、材料費、保険料等を―差引いたものが純益になるわけである。これに加えて、集金コスト(未回収のリスクも含まれる)があるが、これは推定することが非常に難しい。そのほか、敗けた側から集金する前に勝った側に対する支払いを行うための運転資金も必要である。
E. バスケットボールやフットボールでは、賭け率は11/10にきまっている。FがUを6.5点差で破ると予想されている場合(F−6.5、U+6.5)、Fが6.5点以上の差で勝てば、Fに賭けた側が勝ち、Uに賭けた側は敗ける。Fが6.5点未満の差で勝てば、Fが敗け、U側が勝つ。Fチームにそれぞれ110ドルが賭けられれば、賭け元は10ドル(220ドルの4.55%)を獲得できる。
F. 点差が7点とすると、両チームにそれぞれ110ドル賭けられれば、Fが丁度7点差で勝たない限り、賭け元は10ドルを獲得できる。そして賭けは流れる。この場合、賭け元の粗利は10ドル×Fが丁度7点差で勝てない確率となる。確率が0.95だとすると、賭け元が期待できる粗利は9.50ドル(10.00ドル×0.95+0.05)あるいは220ドルの4.32%となる。
この「ダッチ・ブック」を上回る利益率を確保しようとすれば、負ける側により多くの金額が賭けられるように仕組むことになる。このような操作によって顧客をだましている賭け元も多い。
投資市場と同様に、ギャンブル市場においても、「弾力性」の度合いは「奥行」と「間口」の度合いと関連している。「奥行」と「間口」が相当に大きい市場においては、0.5ポイントだけ考えることで、賭け元が賭けて欲しい側に金を集めることができる。これに対して、「奥行」と「間口」が小さい市場においては、これを行おうとすると、賭け元のリスクが大きくなる。たとえば、6点差のFを8点差のFとしたとする。F−6に110ドルが賭けられ、U+8に110ドルが賭けられ、Fが6点差あるいは8点差で勝った場合、賭け元は100ドルの損をし、Fが7点差で勝てば、賭け元は200ドルを損することになる。
商品取引市場+証券取引市場の効率を向上させる上で重要な役割を演じるさや取売買がギャンブル市場でも重要な役割を果たす。ギャンブル市場で「スカルプ・ポイント」と呼ばれるのがこのさや取売買に相当する。これは、賭ける人が二つの賭け元の賭け率の差を利用して特定のゲームにおける両チームに賭けることを言う。これはギャンブル市場の効率を高める(「弾力性」を増大させ、価格変動を軽減する)が、賭け元はこれを嫌がる傾向である。
このように違法ギャンブル市場は、市場の構造、奥行、間口、弾力性、賭ける人の態度がいろいろ異なる。このような状況において、ギャンブル禁止法を強行したり、公営ギャンブルを導入すると、各種ギャンブル市場がまたそれぞれ異なった影響を受けることになる。
現在、アメリカの連邦政府は10%のギャンブル税を課しているが、これは財源を確保する措置としては高すぎる。ギャンブル税が完全に払われるとすれば、政府の収入はフットボールやバスケットボールのギャンブルの賭け元のマージンの倍以上になる。賭け率の高い(18/10)野球ギャンブルでは、Fに賭ける人は100ドルを獲得するために198ドルを賭けなければならないし、Uに賭ける人は176.30ドルを獲得するために114.77ドルを賭けなければならない。この場合、賭け元は結果に関係なく3.70ドルの粗利を稼ぐことができる。しかし政府はなんと28.37ドルも稼いでしまうのである。これを見ても、明らかに、賭け元にとっても賭ける人にとっても違法ギャンブリングの方が好ましい(前者にとっては利益率が高いし、後者にとっては安上がりである)。このように、ギャンブル税はギャンブル市場に微妙な影響をおよぼす。ギャンブル税と平行してギャンブル・コストを低減する措置がとられなければ賭け元も賭ける人も地下に潜行してしまう。
ギャンブルに関する道徳上の問題や法律上の問題に関連して非常に実施しにくいギャンブル税を課すべきかどうかという疑問が生じる。ギャンブルはこれを犯罪行為にすべきほどに憎むべき悪なのだろうか?それとも、われわれは、ギャンブルは政府が公共の利益のために規制するだけでよい正常な活動であると考えるべきなのだろうか?もし後者を選ぶとすれば、ギャンブル税はかなり低くすべきである。税を低くした方が結局、ギャンブル市場の規模を維持することができこれによって政府は安定した収入を得ることができるのである。いずれにしても、ギャンブルから得られる収入は、政府にとっては全くの臨時収入なのである。ギャンブラーは正規の収入について所得税を払っているが、ギャンブルによる損失額を控除してもらえるわけではなく、賭け元も収益について所得税を払っているのである。政府は現行よりも低いギャンブル税を実施して、この点について実験すべきである。
ネバダ州以外の州がギャンブルを合法化しようとする場合、ネバダ州の賭け率に従うのがよい。さもないと、賭け率に大きな差が生じて大変なことになる。たとえばフットボールでノートルダムとテキサスの試合がある場合、テキサス州ではテキサスに賭ける人が異常に多くなるだろうし、ノートルダムの本拠地であるインディアナ州とイリノイ州ではノートルダムに賭ける人が異常に多くなる。この試合の結果はそれぞれの州のギャンブル委員会の財政に重大な影響をおよぼすはずである。いっぽう、複数の州にまたがる賭け率が存在すれば、ギャンブラーは、さや販売(スカルピング)を行うことができ、これによって市場の弾力性が保たれる。
ギャンブルの素人である政府職員はギャンブルは妙味があると単純に考えているようであるが、以上述べたように、ギャンブル産業は競争が激しく、リスクが大きい。独占企業が存在しない場合は各企業の利益率はかなり低いものになる。特にスポーツ・ギャンブルの運営は難しく、よほど巧妙に運営しないと利益をあげることはできない。
次にセオドア・ツカハラとハロルド・ブラムの論文「不確実性の状態における経済的合理性、心理学、意思決定」中に述べられている「経済的合理性」とギャンブルの関係を考察することにしよう。
通常、個人がとる行動は、入手できる最良の証拠に照らして、その行動が期待した結果を生みだす可能性が強いときに、合理的であるとみなされる。ここで問題になるのは、その行動の前に意識的な熟慮ないし熟考が行われることが行動の合理性の前提条件になるかどうかということである。
たとえば、人が交差点を渡りだす前に道の左右をよく見れば、その人の行動は合理的とみなされるのか?その人が交差点を渡る行動について理由をたずねられたときに、適切な理由を述べられればこの行動は合理的であると考えることもできる。このように、ある行動が合理的であるためには、その行動が熟考をともなうことが必要であるが、そればかりでなく、その行動が意図的で、しかも自発的な行動であることが必要である。
ということは、目的と手段の関係について再考しなければならない。通常、行動目的の合理性が前提としてあり、行動はその目的を達成するために選ばれる手段を基準として評価される。目的の合理性が前提となるという仮説は、個人の選好順位が前提となるという経済的仮説と類似しているところが興味深い、社会科学においては、合理性は次のように定義される。
行動は目的を遂行する限りにおいて合理的であり、状況の条件の範囲内で、しかも経済的な科学によって理解され、検証できる理由により目的に最も適していると考えられる手段によって、可能になれる。(パーソンズ、1949年)
これを簡単に言えば、合理的な行動は目標志向的でなければならない、ということである。
パーソンズは「経済人」という概念に対するマーシャルの態度を分析することによって、経済学における合理性の歴史的基盤を提示した。
この生物は一般に次の二つのきわだった資質を有している。すなわち、エゴイズムと合理性である。彼はいっぽうでは、彼自身の私欲の追求に専念すると考えられてきたが、またいっぽうでは、その私欲の達成を合理的に行うと考えられてきた。この二つの資質は互いに関連性のあるものと考えられてきた。この二つの資質を完全に分離することができるかどうかも疑問であるが、人間は自分の欲求を満足させるために合理的に行動するものであると考えれば、これらの欲求がすべて利己的であるのか、それとも、利他的欲求をも包含するものなのかという疑問はこれらの欲求に起因する行動を理解することが難しくなる。しかし、この二つの要素が歴史的に見て関連性があるということについては疑問の余地がない。
この文章から明らかなように、マーシャルの言う「経済人」は前述の合理性の定義に照らして、きわめて合理的である。これは目的ではなく手段の合理性の問題である。なぜならば、パーソンズも指摘しているように、目的―それが利己的であれ、利他的であれ―の合理性を論議するのは見当違いである。
もう一つの重要な問題は、「経済人」は単なるプラトン式理想なのか、それとも生身の現実なのかという疑問である。パーソンズはこの点についてマーシャルの理論を次のように解釈している。
彼(マーシャル)は「経済人」についての抽象的、方法論的仮説を否定している。彼は、彼の言う「経済人」は日常生活において現実に行動している現実の人間であることを強調している。(経済学は人間を通常の生活における人間ととらえる)
また、彼が現実の人間を全くのエゴイストとみなしていないことも明らかである。
経済学者の中には、伝統的「経済人」はマーシャルの「経済人」のような人間性を有していないと考える人もいる。たとえば、サイモンは、伝統的な「経済人」観を支持している。
伝統的経済論は、「経済的」であることによって合理的である「経済人」を仮定している。この「経済人」は、絶対的に完全ではないにしても、少なくとも明白かつ量的に余裕のある環境の適切な側面についての知識を有するものと考えられている。この「経済人」はまた、よく整理された、安定した一連の選考と、行動の選定に必要な計算技術を有しているものと考えられている。
カトーナはサイモンの「経済人」観をさらに一歩進めて「経済人」を方法論上の存在とみなしている。
これらの命題の中で基本的なのは、これまで「経済人」ないし合理的人間の特徴を説明する上で役に立った、次の三つの命題である。
(1)完全な情報と先見の原則
(2)完全な移動性の原則
(3)純粋な競争の原則
エドワーズも伝統的「経済人」観を支持している。エドワーズによれば「経済人」は、(1)完全な情報を得ており、(2)きわめて鋭敏であり、(3)合理的である。彼はこう述べている。
心理学者が上記の資質を有する「経済人」はきわめて非現実的であると指摘することは容易である。事実、心理学者たちはこの種の仮説の結果としての理論を排撃する傾向がある。しかし、これは公正でない。理論の効用は仮説を批判することではなく、その一般原理をテストすることである。
これまでに、「経済人」の合理性に関する仮説を変更しようという動きが一部の行動派自然科学者の間に見られた。前述のカトーナも最近になって合理性の仮説を廃棄すべきだと考えるようになった。
これから提示する消費者行動理論においては、消費者の行動は完全に合理的な意思決定に基づいているという仮説が放棄されている。可能ないくつかの行動を慎重に比較考慮した結果到達した本当の意思決定というものは、一般的というよりもむしろ例外的である。これは、習慣的行動がよく行われ、また旧来の社会通念が行動に影響を与えていることから明らかである。
カトーナは、伝統的「経済人」における合理性という考え方で否定するいっぽう、次の四つの原則に基づいた選択の行動理論を展開するにいたる。
1. 人間の反応は環境における変化(刺激)と「人格」の函数である。動機、態度、期待が刺激と反応の間に介在する変数で、これらは過去の経験を通して得られる。これらの変数が環境における変化と変化に対する反応という知覚作用に影響を与える。
2. 個人(および家族)はより大きな集団の一部として機能する。個人や家族が自分たちが帰属すると感じ、自分たちと同一視、運命を共にする集団がそれであるが、これには、個人的親密度に基づく集団(友人、隣人、同僚)、自分が勤務する企業、同業の人たち、地域社会国家が含まれる。
3. 欲求は静的である。
4. 成功も失敗もないという場合がよくある。個人的な金銭的刺激あるいは経済全体の動向に関する情報がない場合、習慣的行動が支配的になる。
カトーナは、個人の意思決定に影響をおよぼす要因に関する心理学実験の最近の結果を自分の理論に採り入れようとしているようである。しかし、ここで言えることは、これらの実験の結果はまだ断定的とは言えず、合理的行動に関する決定的な結論を提示するものではない。カトーナは、「合理的」という言葉が行動そのものではなく、行動理論を適切に説明する言葉であるという事実を無視しようとしている。
カトーナはまた、消費者の選択に関する伝統的理論の行動理論的基盤をよく認識していない。彼は、消費者の選択を単にその標準的側面からのみ考察し、その背後にあるものを無視している。伝統的理論における「経済人」は習慣的に行動する生物である。しかし、彼の行動は合理的である。彼にとって習慣的選択は間違いなく最も効率のよい戦略である。従って、彼は意思決定、計算、熟考に要する情報を確保するために特別のコストを必要としない。それでも、彼は自分の満足を最大限にすることができる。彼の行動はたしかに経済的であり、目標志向的である。従って合理的である。
また、カトーナは意思決定と選択を区別していない。在来の消費者経済モデルは厳密に言えば選択モデルである。なぜなら、このモデルは「経済人」は意思決定の問題を解決してきた。すなわち、目的を達成するために適切な戦略を選択するという問題を解決してきたと仮定しているからである。
サイモンやカトーナの言う「経済人」はリスクと不確実性の状態が存在する環境に生きている。従って、サイモンやカトーナが、現実の人間の行動は伝統的「経済人」の行動と想定されるものとは全く異なる、と主張することはきわめて容易である。
不確実性の状態における合理的選択に関する記述としては、アローのそれが最も明確である。
不確実性の状態における合理的選択のモデルは次のように要約することができる。可能な行動がいくつかあるとする。どれが最も適切かはわからない。その一つを選ぶわけであるが、その結果は当然予測できない。問題は、状況の制約条件を満足させる行動のみからどれを選ぶかである。結果は完全に行動によって決定される。
この問題における不確実性は、可能な結果に関する客観的公算についての知識が欠如しているということである。従って、個人がいかにしてある行動を選択するか、すなわち、可能な結果から最大の満足を得る意思決定戦略を説明する行動理論に合理性を適用することはできるのである。
ツカハラ、ブラムの考えでは、個人が不確実性の状態をリスクに変えるために行うプロセスは、やがて知識となるべき充分な量の情報を獲得することである。この程度の知識は、意思決定を行う各個人にとって独特のものであり、各個人が主観的なリスクの状態で行動するには充分である。危険度はリスクに対する各個人の態度によって異なる。たとえば、同じ個人の場合でも、知識の量が多ければリスクを避けるようになり、逆に知識の量が少なければリスクを好むようになる。従って、不確実性の状態にある環境を主観的リスクに変えることができる知識が最小限の知識ということになる。不確実性の状態を客観的リスクに変えるにもより多くの知識が必要であると仮定してよかろう。
このように、選択に関する行動理論においては、不確実性の状態における「経済人」は不確実性の状態をリスクに変えるための大量の情報を必要とするものなのである。
経済的合理性のギャンブルへの応用
古くから、多くの学者、研究者がギャンブルに関する研究を行ってきた。しかし、「群盲象を評す」のたとえで、ギャンブル研究もそれぞれの学者、研究者の専門的見地から行われてきたため、いまだに総合的なギャンブル論は確立されていない。たとえば、心理学者は、人格変数と相関関係を持つギャンブル行動の決定因を発見しようとするし、数学者はブラックジャックで勝つための最適戦略を探索しようとする。ここでツカハラとブラムの経済学と心理学を統合したギャンブル活動の選択を説明するモデルを紹介したい。
モデル(観光客がギャンブル活動を選択する場合について)
個人が立場を最大限にしようとする。
(1)UZ=U
資力の制約によって
(2)AZ≤r
非禁止的活動レベル
(3)Z≥0
ここで
U=1×nベクトル(効用測定)
Z=n×1ベクトル(活動)
A=m×n(技術係数のマトリックス)
r=m×1ベクトル(資力インプット)
0=n×1ゼロ・ベクトル
ここで言う「資力インプット」とは、個人が意思決定時に有する収入、時間、知識、スタミナのことである。「技術係数のマトリックス」は、意志決定時の資力と活動選択の間に一定したインプットとアウトプット関係があると仮定した考え方に基づくもので、たとえば、ブラックジャックをするために必要な金額、時間、知識、スタミナを表す。
この数字プログラミング・モデルを解けば、活動における資力の効率のよい活用が可能になるだろう。また、資力の「影の価格」も算出されるだろう。このモデルでは「影の価格」は金、知識、スタミナの限界効用に等しい。たとえば、パラメリック・プログラミング・テクニックを用いれば、効用係数の変更に反映される嗜好の変化、使用可能な金額の増減、時間の「影の価格」のAマトリックスの変更という形であらわれる技術的変化の影響を測定することが可能になろう。
また、このモデルによって、ギャンブル活動と非ギャンブル活動の選択を説明することもできるだろう。次のような問題があるとしよう。
B1Z1+B2Z2+B3Z3+P1Z4+P2Z5+P3Z6≤yo
T1Z1+T2Z2+T3Z3+T4Z4+T5Z5+T6Z6≤to
K1Z1+K2Z2+K3Z3+K4Z4+K5Z5+K6Z6≤ko
S1Z1+S2Z2+S3Z3+S4Z4+S5Z5+S6Z6≤so
U1Z1+U2Z2+U3Z3+U4Z4+U5Z5+U6Z6=U(max)
ここで
B1、B2、B3=ギャンブル活動Z1、Z2、Z3の価格
P1、P2、P3=非ギャンブル活動Z4、Z5、Z6の価格
Ti=活動Ziの1単位に必要な時間
Ki=活動Ziの1単位に必要な知識
Si=活動Ziの1単位に必要なスタミナ
Ui=活動Zi得られた効用
yo=使用可能な収入
to=時間の合計
ko=知識の合計
so=スタミナの合計
この問題の解決は、ギャンブル活動の選択と非ギャンブル活動の選択の相対的効用に左右されるであろう。不充分ながらこの問題に対する解答が存在することは、ギャンブル行動に関する今後の研究に光明を与えるものである。
たとえば、Z1がブラックジャックで、Z2がスロット・マシンだと仮定しよう。この場合、Z1の係数のベクトルはZ2の係数のベクトルよりも大きいと考えるのが妥当であろう。最適解答がZ2で、収入、時間、スタミナに特別の条件はないとすると、知識が制約条件になる。この解答は、ギャンブルをしようとする人がギャンブルに不慣れな人であり、ギャンブル場に着く前に、ブラックジャックをするのに必要な知識を身につける資力がなかったことを意味する。
次の例からわかるように、このモデルには、柔軟性がある。ギャンブルに熱心な人は常に技術を絶好調に保とうとしている。最良の条件でギャンブルをしたいからである。それで、彼は、ギャンブル場に滞在する間充分休養をとって、疲労による誤ちを最小限におさえようとする。この活動選択はギャンブル活動におけるSがマイナスになることを意味し、また資力の増大を意味する。また、彼はゲームが自分に不利に展開する可能性があることを知っているから、予備の資金を用意しなければならない。非ギャンブル活動におけるPはマイナスとなり、クレジット等によって収入を増大させなければならない。増大できないのは知識だけということになる。彼がゲームを自分に有利に展開させる戦略を持っていると信じていれば、ギャンブル活動におけるbがマイナスになり、最適解が得られる。この場合、収入は制約条件にならないであろう。
t度ギャンブル場を訪れる人の場合は、前の経験が知識を増大させる。前の経験によって、個々の意志決定行動に関する情報を提供してくれる。疲労のため、ブラックジャックのゲーム中に判断の誤りが生じれば、ギャンブラーは休息をとるだろう。
このように、このモデルにおける合理的選択は、資力に関する制約条件の枠の中で効用を最大限にするようなギャンブル活動、非ギャンブル活動を選択する行動は反映されている。たいていの人の場合、知識が制約条件になる。従って、ラス・ベガスを訪問する人にとっては、マイナスのペイオフ期待値のギャンブル活動―たとえば、スロット・マシン―を選択するのが妥当である。ギャンブル経験が不充分な場合は、運が支配するゲームの方がやりやすい。
スロット・マシンでギャンブルを楽しむ人の行動が非合理的だと考えるのは、個人の資力配分に関する諸問題を無視することである。
松田義幸(まつだ よしゆき)
1939年生まれ。
東京教育大学卒業。
余暇開発センター主任研究員を経て、筑波大学教授、実践女子大学教授を歴任。
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