日本財団 図書館


『ギャンブルに関する学際研究』
日本リゾートクラブ協会スポーツ産業寄附講座
平成6年度研究報告シリーズ
松田義幸
5.ギャンブル行動の構造
(1)ギャンブルの社会学
 すで指摘したようにギャンブルは人類の歴史と同じ歴史を持ち、あらゆる文化圏において認められる社会的現象である。ギャンブルに対する熱中の度合いは人によって異なり、気晴らしにギャンブルをする人から、ギャンブルが人生そのものという病的、ないし神経症的ギャンブラーまで様々である。
 このような普遍性をもつギャンブルは当然社会的問題を提起する。特に資本主義体制を基盤としている西欧社会においては、ギャンブルのマイナス面が強調されがちである。ピーター・フラーが指摘しているように、古くはサミュエル・ジョンソン(1709―84年)が「なんら直接的善を伴わない財産の委譲である。」としてギャンブルを批判している。この批判はギャンブルの一面をとらえているにすぎないが、ギャンブルが金を媒体としながら、経済的実質を持たないことを指摘している点で注目される。
 ギャンブルは資本主義経済にとって一大脅威である、とよく言われるが、これは皮相的な見方である。ギャンブルは一夜にして巨額の富を獲得する手段と場を提供するように思われる。たしかに、一夜にしてこのような幸運を得た人は、生涯を汗水流して働いても獲得できないような巨額の富を手に入れたことになる。しかも、この巨額の富の源泉が紙切れ一枚である。もし、このような幸運の機会が労働者の労働意欲を阻害すれば資本主義経済の基盤は大きく揺さぶられることになる。射倖心が労働者を支配すれば、これは労働組合にとっても一大脅威である。労働組合の基盤である急進的社会主義が浸食されることになる。
 イギリスの労働組合運動の先駆者であったアーサー・ヘンダーソンもギャンブルに対しては批判的で、次のように述べている―「ギャンブルは、資本主義の諸悪よりもさらに強力な敵である。」
 「イギリスの労働者」と題する研究論文を発表したファーディナンド・ツヴァイクは、労働者自身の中に「ギャンブルは急進的社会主義にかわるものだ」という意識が芽生えている事実を指摘している。彼が面接調査したある労働者はこう言ったという―「ギャンブルを非難する教会の指導者に別に反対する理由はないですよ・・・ただ、ギャンブルを非難するならこれに代わるもの―希望だね―を提供してもらいたいよ。もっと安く、でなければもっとよいものをね。しかし、これはとても無理な注文でしょう。」ツヴァイクはさらに次のように述べている。
 
 労働者の大多数は自分が幸運だとは考えていない。彼らはよくこう言う―「幸運なら、労働者になんかなってないはずだ。貧乏な家に生まれたことだけでも不運なんだ。」ギャンブル好きで、しかも自分の心理状態をよく理解している車掌は私にこう言った―「労働者は負け犬だし、自分でもそう感じていますよ。現状に満足していないから、夢の世界に逃避しようとする。宗教、社会主義、あるいはギャンブルに夢の世界を見出すわけです。社会主義は労働者にとっても、人類全体にとっても夢であるわけですが、ギャンブルは労働者個人の夢の世界なんです。わびしい現実から抜け出られるほどの金を貯金することもできないし、働いて出世する可能性もない。働いて出世できるのは一握りの優秀な連中だけですよ。炭坑や木綿工場、鋳造工場、道路工事現場から逃げだすには、大きく賭けて勝つきりないんですよ。大博打を打って勝ってはじめて本当の自由が得られるんです。」
 
 このようにギャンブルを、方向を誤った急進的社会主義ととらえる社会学的分析は、精神分析学的ギャンブル解釈と相似たところがある。個人においては、症候としてギャンブルは、外面的、内面的父親の権威に対する対応の欠陥を意味する。ギャンブラーは、この権威と対決する代わりに―すなわち、自ら父親の権威を体得する(自我と上位自我の関係において自我を確立する)かこれを放棄する(父親に対する戦いを続行する)かの決断を避ける手段として―ギャンブルにふける。
 同じ様に、階級間の闘争という意味で、労働者における「彼個人の夢の世界」としてのギャンブルは、「エリート」になるか、労働組合運動を通じて急進的社会主義を実現するかの決断を避ける手段としての役割を果たしている。つまり、政治的にも、心理的にも、ギャンブルは闘争の代替物であり、ギャンブルを行う者は絶えず葛藤を意識している。
 しかし、ギャンブルが個人における革命だとは言えない。ギャンブルは特定の階級の内部における富の再配分にすぎず、その階級が入手する富の総額には影響を与えないのである。特に下層階級の場合、富の配分は限られた資金を寄せ集め、この中から国ないし企業が一定額を差し引いた金額が勝った者に配分されるわけで、これは一種の経済的搾取である。この意味でギャンブルは資本主義体制を破壊ないし転覆するためのテコの役割を演じるどころか、むしろ資本主義体制を強化する手段となっている。西欧の工業化社会においては、ギャンブルで結局損するのは労働者階級である。
 しかし、この経済における真実は一般に明確に理解されない。なぜなら、一見ギャンブルに反対する側がギャンブルによって利益を得ている、という矛盾した事実があるからである。ギャンブルの経済的メリットに関する誤解は、支配階級にとってある経済的機能を果たしている。すなわち、ギャンブルは、資本主義体制の安全弁の役割を果たしている。たしかにギャンブルにおいてはごく少数の者に巨額の富が与えられるが、この可能性を提示することによって、大衆を引きつけ、組織化された、革命的活動から眼を離させる。労働者が、個人個人に資本主義の圧迫から解放されるチャンスがあると信じている限りそのチャンスがいかに微小であっても、労働者は階級内部の連帯感を持って政治活動に参加する気にならない。ギャンブルは労働者階級を分裂させ、革命的展望の形成を阻害し、労働の搾取を通して富めるものをさらに富ますことになる。
 ギャンブルには、資本主義にとって脅威であると同時に資本主義を強化するという二面性があるため、西欧諸国の政府のギャンブルに対する態度も曖昧になる。すなわちギャンブルという「社会問題」について道徳的、宗教的に憂慮する反面、ギャンブル公営化ないしギャンブル規制法の有名無実化などギャンブルに対して寛大な措置をとる。ギャンブル税によって財政収入をふやすことも、しばしばである。イギリス政府などはこの矛盾の典型を示すもので、ギャンブルの悪弊と見られる工業生産性の低下、産業界における秩序の乱れを調査する政府委員会が設置されている。
 以上は、ギャンブルを現実逃避の一手段と見る考え方から発展したギャンブル社会学論であるが、ギャンブルは病的常習者の行動、神経症の症候ではなく、正常な行動と見る社会学者は、積極的に「ギャンブルは資本主義体制の基盤を構成する」と主張している。その一人が、イギリスの社会学者、オットー・ニューマンで、彼は、ギャンブルは理性的行動で、ギャンブラーの多くは社会的、文化的に充分な主体性を持っていると述べている。
 
 おそらく、これは他の国の労働者階級社会においても同じであろう。・・・「イギリスの人口の約70%を占める「ギャンブラー」の個人的特徴を数えあげてみたところで問題の解明につながるとは思わない。それで私は、「ギャンブラー」を、ギャンブルを積極的な意味に理解し、ギャンブルは絶対に必要なものではないにしても、少なくとも自分の生活において価値のある有意義な活動と考え、ギャンブルがなければ日常生活における大切な要素が消滅する、と考えている人と定義したい。
 
 アメリカの社会学者にもニューマンと同じような考え方をする人が多い。たとえば、ロバートハーマンは競馬場におけるギャンブラーの行動を研究した結果、ギャンブラーの行動は概して理性的であるとの結論に達している。もっとも、ハーマンはこれらのギャンブラーの精神状態を個々に分析すれば、神経症の症候が認められるかもしれないと断っている。
 同じくアメリカの社会学者であるアービング・ゾラはある種のギャンブルは政治的現状維持に貢献するがこれは好ましいことだと主張している。ゾラは、ニューイングランド・シティのギャンブラーのたまり場でギャンブラーの行動を観察して、次のように述べている。
 
 ある種のギャンブルはレクリエーションにもならないし、経済的利得も生まれないかもしれないが、だからといって、ギャンブルが不毛で非生産的で、場合によっては人間の機能障害の原因になる活動であるとは言えない。これらの人びとにとって、ギャンブルは、自己破滅につながるような欲求不満を解消するための手段であるのかもしれない。彼らは社会に対して怒りをぶつけるかわりに、「賭博機関」に怒りをぶつける。この意味で、ギャンブルは社会体制の主要な価値体系を維持する上で役に立つと考えてよかろう。
 
 社会学という枠組の中で考える限り、これらの議論はすべて正しい。ギャンブルが、政治的革命衝動をそらすことによって政治的安全弁の役割を果たしていることは確かである。しかし、ニューマンからの議論は、人間の変化への願望を無視したものである。ギャンブルが社会的役割を果たすかという理由で、ギャンブルの精神分析学的解釈を無意味とするのは間違いである。ギャンブルと本質的に酷似しているものに宗教がある。宗教もまた支配階級の手中に入ると、強力な政治的武器となる。宗教は政治的武器として人びとの信仰を操作し、社会的変化を求める人びとの心をそらすために活用される。宗教もまた人類において普遍性を持つ神経症の一種なのである。
 ギャンブルが、どのように政治的安全弁の役割を果たしたかを見るには、産業革命以後のイギリスにおけるギャンブルの歴史をたどってみるのがよい。イギリスにおいては、17世紀の後半から18世紀初頭にかけて、国家的規模のギャンブル熱がしようけつをきわめた。これが「南海のあわ」事件で最高潮に達した。このため、1721年にギャンブル禁止法が制定されたが、それでもギャンブル熱を完全に鎮圧することはできなかった。競馬、富くじ、その他のゲームが文化的活動となされていた。特に上級階級と下層階級にギャンブル熱が定着した。中でも上流階級のギャンブル熱は異常とさえ言えるほどだった。
 上級階級と下層階級が特にギャンブルに熱中したという事実は興味深い。いずれの場合も、金銭が重要な意味を持っているからである。18世紀のイギリスでは、富くじを愛好したわけであるが、賭け元である政府は富くじを重要な財源とみなしていた。たとえば、ジョージ二世時代に行われた賞金総額700,000ポンドの富くじ(富くじの販売価格は一枚10ポンドで、ブローカーがこれをさらに1枚1ポンドあるいは2シリングの富くじにして再販した)の場合、賞金10,000ポンド(最高額)が当たる確率は34,999分の一であった。それでも富くじの人気は増すばかりであった。文字通り万が一の幸運を求める庶民のギャンブル熱は悲惨な自殺者を出すほどだった。ケニオン卿は当時の模様を次のように述べている―「ギャンブルの悪弊が最下層の人びとにまでおよんだ。これはまことに嘆かわしいことだった。当初、ギャンブルは上流階級のものであったが、上流階級が下層階級に範を垂れた結果がこの惨状であった。上流階級は法の制約を受けないから、ギャンブルに負けても悲惨な事態に遭遇することはなかったのだ。」
 19世紀に入ると、清教の倫理と資本主義の論理が手を結んだ結果、ギャンブルは社会悪として排撃されるようになった。1820年代には、カジノは閉鎖され、富くじも中止され、ギャンブルを禁止する法律も制定された。
 しかし、これらのギャンブルに禁止法は厳しく実施されることはなかった。ギャンブルが安全弁の役割を果たすことを知っているブルジョア階級は、ギャンブルに対して曖昧な態度をとることで自己の立場を強化しようとした。すなわち、ブルジョア階級は、ギャンブルを公然と非難することをせず、ギャンブルがすでに衰弱している上流階級に対して致命的な打撃を与えるのを横目で眺め、いっぽうで、違法なギャンブル熱が下層階級の被抑圧感を麻痺させるのを黙認した。この傾向は第二次世界大戦まで続いたのである。
 第二次大戦後、変化が生じた。これは、清教的価値観が力を失なったためであり、また、宗教そのものが影響力を失い、宗教の大衆指導力に支えられてきた政府がこれにかわるものとしてギャンブルの効用を認め始めたからである。
 当然の帰結としてギャンブル関係法は改正されるに至った。1950年代に入って、マクミラン首相が国営富くじの開設を認める法案を議会に提出し、議会の承認を得た。この注案が成立したことによって、ギャンブルは正式に復権したわけである。そして、イギリスの新ブルジョア階級は公然とギャンブルによる経済的搾取を再開することになった。1960年には、場外馬券売場が解説され、1963年にはカジノが再開された。1970年には、公営ギャンブル施設の売上高合計が年間20億ポンドに達した。
 このように、イギリスはブルジョア階級の台頭を契機にギャンブルの社会的慣習の一大変化を経験した。1960年代にこの変化はその極限に達した。ギャンブル税率の引き上げ、ギャンブル課徴金の導入に続いて、労働党政府のギャンブル課税委員会が競馬の大衆化を敢行し、この結果、大衆の競馬熱がさらに高まった。
 1960年代における中流階級の積極的ギャンブル支持によって、ギャンブル産業が台頭した。低コストで高利益が得られるギャンブル産業は、イギリスにおいて成長産業の筆頭に位置するまでになった。チェーン・システムをとるギャンブル企業は、普通の小売業と変わらぬ経営方針のもとに運営されている。いまやギャンブル禁止法時代に活躍した個人営業のかけ屋は大規模なギャンブル企業に圧迫されて、消滅しつつある。イギリスのギャンブル市場は最大手のギャンブル企業5社による少数独占状態に入りつつある。
(2)アメリカにおけるギャンブル社会学
 以上は、ピーター・フラーが述べたイギリスにおけるギャンブルの社会史を要約したものである。次に、イギリス文化の影響が強いアメリカ社会におけるギャンブルの位置づけを考察してみよう。
 1931年1月に、調査機関ギャラップ社がギャンブルに関する大規模な調査を行った。この調査でまず、次のような質問によって、回答者に対する「ギャンブルの定義づけ」が行われた。
 
 このカードには、人々が金を賭けるいろいろな方法が列記されています。人々は家族や友人と賭けをしたり、慈善団体や宗教団体の催し物で賭けたり、州によって認可された施設で賭けたり、認可されていない商業施設で賭けたりします。ところで、過去4週間の期間中に、あなたが賭けをしたゲームは次のうちどれでしょうか?―ビンゴ、富くじ(ロッテリー)、ブラックジャック、ポーカー、ブリッヂ、ラミー、その他のトランプ、競馬、スポーツ競技、スロット・マシン、ピン・ボール、マシン・クラップばくち、ダイス、ルーレット、その他(具体的に書いて下さい)。
 
 この導入に続いていくつかの質問が提示されたが、これらの質問の目的は、次の5項目について調査することであった。
1. ギャンブル性癖―少なくとも、1つ以上のゲームに「金を賭けた」と答えた人をギャンブラーとする。
 この結果回答者の23%が「ギャンブラー」とみなされた。
2. 経済的地位―回答者の家庭の年収総額を a)6,000ドル以下 b)6,000〜12,000ドル c)12,000ドル以上の3種に分類し、a、b、cにおけるギャンブラーの比率を求めた。この結果aで19%、bで45%、cで36%という数字が出た。
3. ライフ・サイクル―年令をライフ・サイクルの指標に選んだ。若年層(15―34才)、中年層(35―54才)、老年層(55才以上)の3つの年令層に分類した。
4. 地域社会の規模―回答者の居住する地域社会の人口は1,000人以下から100万人以上まで多種多様であった。
5. 地位の矛盾―回答者の職業と収入を比較することによって地位の矛盾を調べた。すなわち社会的地位の高い職業の人で収入が低いような場合、地位の矛盾が認められると判定した。
 
 次に、この5項目についての調査結果から、1の「ギャンブル性癖」と2〜5がどの程度の相関関係にあるかが分析された。この結果は次の表に要約されている。
 
表3-1 相関関係マトリックス
  X1 X2 X3 X4 X S
X1 ライフ・サイクル 1.000 .001 -.252 -.154 45.9 17.4
X2 地域社会の規模   1.000 .116 .149 3.7 2.7
X3 経済的地位   1.000 .153 9,575 4,516
X4 ギャンブル性癖       1.000 0.225 0.418
 
 この調査におけるサンプル総数は1,565であるので相関係数が±0.049を越えれば統計的に有意な相関関係が認められることになる。この基準に従えば、表3-1における相関係数の大多数は有意な相関関係を示すものと言える。表3-1から分かるように、「経済的地位」と「ギャンブル性癖」の相関関係が大きい(0.153)。すなわち「経済的地位」が高いほど、「ギャンブル性癖」が強くなる。「下層階級ほどギャンブル性癖が強い」とよく言われるが、この調査の結果はこれを否定する結果になっている。あるいは、こう言えるかもしれない―下層階級でギャンブル熱が高いというのは、数あて富くじ(ナンバーズ・ゲーム)などごく限られた種類のゲームについてだけであり、ギャンブル全体について言えば、下層階級に属する人びとの比率は小さい。すくなくともこの調査結果から見る限り、下層階級の「ギャンブル性癖」は弱いのである。
 「ライフ・サイクル」を「地域社会の規模」と「ギャンブル性癖」の相関関係も大きい(それぞれ―0,154.0.149)。「ライフ・サイクル」と「地域社会の規模」は人びとのギャンブル行動に重要な影響を与えているようである。すなわち、老齢化するにつれて、「ギャンブル性癖」は弱まる傾向が認められる。ギャンブルは若者のゲームであり、ギャンブラーの大多数は若者であるように思われる。また、大都市に住む人は、小都市に住む人よりも「ギャンブル性癖」が強いように思われる。事実大都市ではギャンブルが多くの市民の日常的行動の一つになりつつある。これは、大都市においてはある種のギャンブルが公営化されており(たとえば州営富くじ)、また、レジャー活動としてのギャンブルに対する社会的寛容度が大都市ほど高くなっているためである。
 
 そのほか、この分析から次のような結論が得られる。
 
 ○老齢化すると、収入が減少する(-0.252)。
 ○大規模な地域社会に住む人は収入も高い(0.116)。
 
 下記の表3-2は「職業」、「収入」と「ギャンブル性癖」の関係を示すものである。
 
表3-2 職業と収入から見たギャンブル率
  収入
職業的地位 合計
12.8(78) 31.3(134) 17.5(40) 23.2(252)
12.7(59) 28.1(167) 34.8(112) 29.3(338)
25.5(17) 30.1(73) 32.0(147) 30.5(237)
合計 14.0(154) 29.7(374) 31.1(299) 27.8(827)
 
 この表から明らかなように、職業的地位の低い人のギャンブル率はきわめて低い(合計で25.2%)、一般事務職、熟練労働者など中程度の職業的地位の人の合計が29.3%、専門的職業、管理職など職業的地位の高い人の合計が30.5%とかなり高いギャンブル率を示しているのと好対照をなしている。これらの数字から「職業的地位」が高いほど、「ギャンブル性癖」が強くなると言うことができる。また、「職業的地位」が高くても、「収入」の低い人は「職業的地位」が低く、「収入」の多い人よりも「ギャンブル性癖」が強い。これは、「地位の矛盾」と「ギャンブル性癖」の相関関係を示すと考えてよかろう。
 表3-2の数字から計算した結果、次のような事実も明らかになった。すなわち、「職業的地位」が「収入」に比べて高い人のギャンブル率は25%で、また、「収入」が「職業的地位」に比べて高い人のギャンブル率は38%である。このことは、「職業」と「収入」を比較した場合、「収入」の方が「ギャンブル性癖」に与える影響が大きいことを意味している。
 以上の分析は米国の二人の社会学者、ウェン・L・リーとマーチン・H・スミスが行ったものであるが、この二人は、分析の結論として次のように述べている。
 
 ギャンブル行動を完全に説明しきれる理論はないのかもしれない。人がなぜギャンブルをするかについては、これまでに、いろいろな説明が行われてきた。ギャンブルは楽しむため、興奮を求めるため、冒険心を満足させるため、あるいは、退屈な生活から逃避するためのものだとよく言われる。しかし、この調査結果から見る限り、ギャンブルに関する心理学的説明だけでは個人的「ギャンブル性癖」と社会的背景の関係を説明しきれないように思える。
 
 たしかに、ギャンブルの心理学は、病的ないし神経症的ギャンブラーの心理に重点がおかれ、いわば気晴らしにギャンブルを楽しむ普通のギャンブラーにあてはまらない分析結果が強調されている。
 ベブレンが指摘しているように、ギャンブルは本来有閑階級の活動なのかもしれない。経済的地位が高いほど「ギャンブル性癖」も強くなるようである。これは、ギャンブルの歴史を見ても明らかである。先進工業国の筆頭に位置するアメリカは、経済的に余裕のある大衆社会を生みだした。このアメリカでレジャー活動が大衆化し、その一環としてギャンブルが大衆化しつつあるのは、当然の帰結であろう。
 戦後一貫してアメリカ化の道を歩んできた日本において、アメリカの大衆社会に酷似した大衆社会が出現し、レジャー活動に人気が集まり、また、かつては、封建制度、軍国主義の下で罪悪視されたギャンブルが公営化などにより、日本人の社会生活における健全な要素として復権したのもまた当然の帰結と言えるだろう。
 
 次に、精神分析学的ギャンブル研究に対立する行動心理学的ギャンブル研究で有名なロバート・D・ハーマンは、アメリカの競馬場におけるギャンブラーを観察することによって、彼独特のギャンブル論を確立した。
 ハーマンは、まず、アメリカの社会におけるギャンブル熱の偏在性に注目し、なぜかくも多くの人びとがギャンブルに熱中するのか、という疑問から出発する。彼はこの疑問を解くために、フランスのロジェ・カイヨア(Roger Caillois)の著書『人間とプレーとゲームと』(Man、Play、and Games)を研究し、その結果を彼のギャンブル論の基礎とした。彼はまたヨハン・ホイジンガの著者『ホモ・ルーデンス』(Homo Lendens)からも影響を受けている。
 カイヨアは、はじめゲームをその客観的特性によって分類することが可能だと示唆した。たとえば、ゲームに用いられる小道具(カード、ダイス、言葉、身体の力等)ゲームが行われる場所(カード、テーブル、スタジアム等)、ゲームに参加する人員数などによって分類できると考えた。しかし、この推論は実証することができず結局、彼は、ゲームに参加する人の主観的経験によってゲームを分類する方法に切り換えた。彼はこう述べている。
 
 いくつか異なる可能性を検討した結果、私は、競争、運、シミュレーション、眩暈のいずれが最も重要な役割を果たすかによって、ゲームを4種類に分類してみたいと思う。すなわち競技(Agon)「偶然が支配するゲーム」(Alea)「人まね」(mimicry)「眩暈を感じるためのゲーム」(ilinx)である。フットボール、ビリヤード、チェスなどは「競技」に属する。ルーレットやロッテリーは「偶然が支配するゲーム」に属する。パイレート、ネロ、ルーレットなどは「人まね」に属する。そして、急回転したり、落下したりするゲームは「眩暈を感じるためのゲーム」に属する。
 
 ハーマンは、カイヨアのこの分類を彼独自に解決して次のように補足している。すなわち、Agonは、激しい競争意欲ないし闘争意欲をそえるゲームで、きわめて戦略的なゲームである。Aleaは、偶然、不確実性、運が支配的なゲームである。mimicryはこれ以上の補足説明を必要としない。ilinxは現代風に言えばシミュレーションで、危険な行動をシミュレートすることによって眩暈を感じるゲームである。mimicryとilinxは子供の遊びに多く見られる行動である。
 ハーマンは、カイヨアのこの分類法をさらに発展させて表3-3に示したようなゲームの分類表を完成した。
 
表3-3 ゲームの分類(ロバート・D・ハーマン)
  AGON
(競技)
ALEA
(偶然性)
MIMICRY
(シミュレーション)
ILINX
(眩暈)
無規則
精神の激動 競争 言葉遊び 幼児の行動 幼児の回転運動
大げさな笑い レスリング
運動競技一般
貨幣の表か裏かを当てるゲーム
賭けごと
ルーレット
鬼ごっこ
兵隊ごっこ
仮装、変装
乗馬
舞踊
凧上げ        
ひとりトランプ ボクシング     カーニバル
クロスワード ビリヤード     スキー
パズル フェンシング
チェッカー
フットボール
チェス
競技、スポーツ
一般
ロッテリー 演劇
見せ物
一般
登山
綱渡り
規則(ludus)
注;各欄で上にいくほど無規則の状態が濃厚で、下にいくほど規則が重視される。
 
 ハーマンはこの分類表から、次のような議論を展開する。すなわち、ギャンブルの大きな魅力とされる「楽しみ」あるいは「娯楽機能」はこれらの要素の組合せであった場合が多い。また「冒険をおかす楽しみ」は、ギャンブルの主要な要素というよりも二次的な要素である。「人まね」や「眩暈」は見せびらかしの要素が強い。また「人まね」は児童が成人するための準備行動である。「眩暈」は快感と苦痛の混じり合った緊張感の発散、スリル、自己テストの表現であると言えよう。
 ハーマンはまた次のような仮説を提示している。
 
仮説1―賞を得る確率が高いほど、賞そのものの価値が低いほど、ゲームはAgon的になり、ilinx的でなくなる。
仮説2―たいていのギャンブルでは、賞の価値が高くなるほど、勝つ確率は低くなる(しかしこれにも例外はある。たとえば、株式市場では、勝つ確率の高い株の価格は高くなる。)競馬では、たいていの人が確率の高い(従って、賞の価値の低い)馬に賭けるものである。全レースの3分の1で、本命が勝つといわれている。競馬の場合賭ける人は、賞金は少なくても、勝つ確率の高い馬に賭けているわけである。この心理を巧みに利用しているのが、ポーカーやビリヤードの達人である。彼は故意に自分に勝ち目がないように見せかけて、相手のギャンブル意欲を高め、賭け金をつり上げて、勝負に出て、大金をしとめる。
仮説3―ギャンブルをする人の自宅とギャンブルをする場所との距離感が遠いほど、Alea的ゲームに対する熱中度が高まる。
仮説4―mimicry的ゲームに対する熱中度が高まる。
仮説5―ilinx的ゲームに対する熱中度も高まる。距離感は現実の距離ではなく、「普通いるところと全く別の場所にいる」という感覚である。アメリカではネバダ州のラス・ベガスただ1カ所でカジノが公認されているが、この事事が、ラス・ベガスでカジノを楽しむ人の熱中度を高めることになっている。これに対し、競馬場はアメリカのいたるところに見受けられる。ヨーロッパでは、都市の近郊にカジノがあるが、たいていの都市では市内ではカジノを楽しむことを市民に禁止している。これらの事実は、この仮説を裏づけるものである。
 この「距離感」は、個人の日常的責任や個人に対する様々な制約を忘れさせる上できわめて重要である。「距離感」のある場所では偶然性が強くなる。また、「人まね」をしたい衝動も強くなる。全く新しい場面で別人になりたいという欲求が強まるわけである。
仮説6―ギャンブル行動の相互依存性が高いほど、Alea的ゲームに対する熱中度が高まる。
仮説7―ilinx的ゲームに対する熱中度も高まる。
 ここで言う「ギャンブルの相互依存性」とは、たとえば、元金ともうけ金を次の勝負にかけることを意味している。また、ビンゴ・ゲームのように、最後に勝者がきまるまで「自分も勝てる」という希望が持続するケースも含まれる。いずれの場合も「自分が最終的勝利者になる」という希望が持続するため、ilinx的感覚も異常に刺激される。
 
 このように、ハーマンはカイヨアのゲーム分類をさらに一歩進めて、人びとのギャンブル行動の背景にあるギャンブルの論理を解明しようとしたわけである。彼のギャンブル論は、欧米の先進工業国におけるギャンブルの社会的価値を積極的に評価した意味で注目されるものである。
 
 ハーマンと同じく、フェリシア・キャンベルも精神分析学的ギャンブル論に反論している。彼は「ギャンブル肯定的見解」と題する小論文を発表しているが、以下、その大略を紹介する。
 
 われわれは、ギャンブルを現実的にとらえ、ギャンブルが個人や社会におよぼす肯定的影響を評価してもよい時期に来ている。これまでに英文で書かれたギャンブル論の大多数は、ギャンブルが人間行動の正常な部分に属することを無視している。ギャンブラーの行動研究の多くは研究者自身がギャンブルそのものに精通したギャンブラーを殆ど知らなかったため、あるいは、研究者自身が無意識のうちにギャンブルに対して文化的、感情的偏見を持っていたため、重大な欠陥を露呈することになった。
 エドマンド・バーグラーの「ギャンブルの心理学」(1957年)はギャンブル心理学の古典として有名であるが、バーグラー自身はギャンブルに精通したとは言えず、そのため、重症のギャンブル狂を精神的マゾヒズムとみなすに至った。彼の理論はこうである―ギャンブルで勝つ確率はきわめて低いから、ギャンブルをする人は、ただ自らを罰する目的で負けるためにギャンブルをする。彼の研究対象になったのは60人の神経症患者で、その多くは自分のギャンブル行動が有害な行動であることに長い間気付かなかった。バーグラーは、ギャンブルがブルジョア階級の価値観と対立するものと考えていたから、ギャンブラーを「反逆者」と呼び、ギャンブラーの「徹底した個人主義」を非難している。バーグラーはまた秩序ある宇宙を信じていたようで、ギャンブルの非論理性を厳しく非難している。彼は「幸運なギャンブラーは実在しない」とまで極言している。
 彼の理論の多くはソーンスタイン・ベブレンの二番せんじの感がある。ベブレンはギャンブルを「社会における産業効率を阻害するもの」と呼び、「ギャンブルは工業化社会において破壊的作用をする」と主張した(ベブレン、1899年)。
 つい最近まで、ギャンブル論の多くは、この19世紀的ギャンブル観を20世紀の用語で述べてきたにすぎない。
 キャンベルは、ラス・ベガスでギャンブラーの行動を観察する研究を行ったが、その結果、概して、ギャンブルはギャンブラーにとって便益をもたらすものであり、ギャンブラーの日常行動における効率と生産性を高めるものである、との結論に達した。
 ここで、アメリカ随一の賭博場であるラス・ベガスについて簡単に説明しておこう。ラス・ベガスは、あらゆる種類のギャンブルが公認されているアメリカ最大の都市である。人口は約305,000人で、うち有職人口は133,000人である。そして有職人口の約60%にあたる80,000人は直接的、間接的にギャンブルによって生計を立てている。過去10年間に、アメリカの人口は12%増加したが、同じ期間にラス・ベガスの人口はなんと11.2%も増加したのである。多いときには、土曜、日曜の二日間に5万人もの観光客がここに押し寄せる。(数年後には世界最大と言われるM.G.Mホテルが完成する予定なので、そのときには観光客の数は一段と増えるだろう)。とにかく、この都市ではギャンブルがまさに正業なのである。しかし、ギャンブルを除外すれば、ラス・ベガスは典型的なアメリカの都市の様相を呈している。大規模な住宅地域は、比較的歴史が浅いという点を除けば、アメリカのどこにでも見られる住宅地域である。ラス・ベガスにあるネバダ大学の学生数は1,000人で、学生はホテル経営から砂漠生物学まで広範囲な専攻科目を選ぶことができる。犯罪発生率はほぼ全米平均と同じで、夜間に一人歩きしても、暴漢におそわれる心配はない。
 16世紀の大天才、ジェララモ・カルダノは、ギャンブルにはとても耐えられないような心配事を解消する力があるから、憂うつ症にはギャンブルが一番よいと述べている。彼はまたこう述べている―ギャンブルは悲しいときに有益である。法律でも病人や囚人、死刑囚はギャンブルをしてもよいことになっている。―いみじくもラス・ベガスにおけるキャンベルの観察研究結果はカルダノの意見を支持するものになった。
 病人はともかくとして、囚人の場合はギャンブルは精神衛生によいことが、ネバダでの調査研究の結果わかった。ネバダ州はごく最近まで刑務所内でのギャンブルを許可していた。かつてこの州の刑務所で服役したある男性はキャンベルに「あそこでギャンブルを許可されたので精神衛生上とても楽でした。他の連中も同じだったと思います」と言った。彼の説明によるとノミやシラミ、まずい食事に苦しめられているとき、ギャンブルを楽しめたのはまさに砂漠でオアシスにたどりついたときのような喜びだったという。ギャンブルに熱中し、自分で判断を下すとき、人間に返ったような気がしたという。刑務所は犯罪人に対する社会的制裁の場であるが、ギャンブルを犯罪人の社会復帰の手段として活用するのは効果的であるように思われる。
 カール・ヤスパースはこう言っている―「人に与えられた仕事だけをやらせられると、人間としての自分と労働者としての自分との間に亀裂が生じる」そうすると自己保存衝動が働き、人間としての活力を保つ行動に走るようになる。そして、その行動がギャンブルであることもあり得るわけである。この自己保存衝動は「内なる冒険心」とも呼ばれる。この衝動は、未知なるもの、偶然、危険を求める衝動で、ギャンブラー特有の衝動である。この衝動は金額を求めることはない。
 この自己保存衝動が人間の生存のために必要欠くべからざるものであるとすれば、人道主義的に考えても、また、経済的な理由からしても、この衝動を抑圧するよりも、これを活用することが賢明であるように思われる。
 キャンベルはラス・ベガスでギャンブラーの行動を観察したが、その観察結果の中で、特に老人と労働者階級のギャンブラーの行動についての観察結果を強調したい。
 ラス・ベガスには沢山の老人がおとずれる。彼らは、さながら「老いたる生活探究者」である。そして、老人の中でも女性が多い。これらの老人はラス・ベガスの下町のカジノを愛好している。老人たちはギャンブルに熱中する。この熱中度の中にギャンブル衝動を解くカギがあるように思われる。老人たちは現役を引退した後、もう一度の人生に挑んでいるようである。
 カンサス州出身の68才の女性は次のように身の上話をしてくれた。彼女は今一人暮らしで、わずかな年金で生活している。娘は一緒に住もうと言ってくれたが、断ったそうである。彼女はその理由をこう説明してくれた。―「私は孫の世話をするだけの生活はしたくなかったの。私は子供も育てたし、家事もしてきました。だから今度は別のことをしたかった。ここでは、自分の着たいもの着て、ゲームを楽しめるから言うことないわ。あまり損しないし、ゲームが好きなのね。お金が落ちてくると本当にいい気持ち。儲けは少ないけど今までの人生で大儲けしたことはないから、これでいいと思っているの。」
 彼女や彼女と似たような数多くの老人の人生の可能性について考えてみると、彼女たちは自分の人生について一つの選択を行ったことが明らかになる。彼女たちは独立しているし、スロット・マシーンで得る勝利はささやかなものであるが、別の道を選んだ場合に比べれば大勝利の感覚を楽しんでいる。
 彼女たちは大勝ちして得た金を次のゲームに賭けるが、それでも大勝ちしたときの喜びが減ずるわけではない。その日の成果は持ち帰った金額によって計られるのではなく、大勝ちした回数と大勝ちしたためにゲームを楽しめた時間の長さによって計られるのである。言い換えれば、冒険者にとっては、行動そのものが重要な意味を持つのである。
 ギャンブルに投入する金額は、ギャンブルをする人の財力によってマチマチである。たとえば、ラス・ベガスには1セント・マシンと呼ばれるゲーム・マシンが数多くある。このような小額を賭けてもスリルは感じないだろうと思われるが、このようなゲームを楽しんでいる人は、数千ドルを賭けている人と同じ様にゲームに熱中している。60才の女性は私にこう言った―「5セント銅貨で5回のチャンスがあるんだから。あまりお金を持ってないので、この機械なら長く楽しめていいわ。そんなに勝てないことはわかっているけど、勝てばとっても嬉しくなっちゃう。何セントしか落してこないけど、それでもついてくるという気がしてきますもの。」ドストエフスキーもアレクセイにこう言わせている―「ロスチャルドにとってはとるに足らない金額でも、わたしとっては巨額の富だ・・・」
 ビンゴもまた、固定収入しかない老人の間で人気がある。ビンゴゲームではゲームを楽しみながら友情を深めることができるからである(スロット・マシンはこうは行かない)。その上、ビンゴ・ゲームは、教会や市民団体などの募金活動によく利用されているため、一般に上品なゲームと見られている。ビンゴ・ゲームにおいても二度目の人生を楽しむという要素が認められる。ビンゴにおいても、老人たちは二度目の人生を楽しむ。スロット・マシンやビンゴやケーノをする人は皆平等である。特別な技術は要らないし、金持ちも貧乏人も全く平等に扱われる。そんなわけで、これまでの人生でチャンスらしいチャンスに合わなかった人でも、しばしの間、だれとも同じチャンスを持つことができるのである。
 ラス・ベガスのこの種のカジノに来る人は殆どが常連である。同じ人物が毎夜のごとく―人によっては毎年のように―ゲームを楽しんでいる。ここに集まる人びとにとって、ギャンブルは、賭ける金額は少なくても、彼らのライフ・スタイルの重要な一部分となっている。
 男性の老人も下町のカジノに数多く集まる。この老人たちは、ギャンブルで身をもち崩した人物とは程遠く、労働階級出身の現役引退者である。元鉄道員、元工場労働者、元軍人などが多い。
 彼らは、下町のカジノで気軽に楽しめるクラップやルーレットを好む。彼らがギャンブルをする動機は、前述の女性の老人の場合と同じように思われる。というのは前述の女性の場合に比べて、男性の場合はカジノで話しかけるのが難しく、直接動機を聞き出すことができなかった。カジノの支配人から男性の場合の動機を聞いたので断言はできない。なお、女性の中にもクラップを楽しむ人がいる。
 男性の場合は、慎重にゲームを行うため、わずかな所持金を増やすことができる場合が多い。このような場合、彼らの自尊心が高まる。カジノには顔見知りが多いので、彼らはくつろいだ表情でカジノに通ってくる。彼らはカジノで友人をつくるのである。カジノではゲームの前後に、49セントの朝食や98セントの軽食を食べながら、仲間と雑談する。このように、カジノは彼らに彼らの存在理由を提供してくれるのである。もちろん、ギャンブルが最も望ましい存在理由であるわけはないが人間の存在という見方からすれば、ギャンブルは立派な存在理由になり得る。デービスによれば、ギャンブルは人生の縮図であるという。だとすれば、ギャンブルが特に老人にとって魅力的である理由がはっきりする。つかの間ではあるが、老人は「自分が生きている」と感じ、参加意識を持つ。そこには可能性がある。勝利を得ることが可能であり、明日もまたゲームを楽しむことができる。老人を敬わず、また能力があるのに老人を生産的生活から排除してしまう社会においては、このような可能性は考えられないのである。
 キャンベルの考えでは、一般の老人が気軽にギャンブルを楽しめないという事実は残酷な事実である。老人のいる家庭ではなんらかの形のギャンブル施設を置くようにし、しばしば見られるように老人がその晩年をトランキライザーを飲みながら辛い生活を送るのではなく、老人が生活にハリを感じるようにすべきである。
 老人のほかに、ギャンベルが言うところの「夢を買う人」がいる。確率百分の1のチャンスは、「アメリカの夢」が現実となり得ない何百万ものアメリカ人にとって非常に重要なチャンスなのである。アイスバーグ・スリムの小説「ママ・ブラック・ウィドー」に出てくる人物が言ったように、黒人は「白人のためのぞうきんの先や化粧ブラシ」として一生を送る運命にあるのだとしたら、ナンバーズ(あるいはケーノ)の一枚の切符に全てを投資することが最良の投資である。この一枚の切符が最小のコストでつかの間の希望をもたらしてくれるし、大当たりをするチャンスもあるのである。このようなチャンスは現実の生活においてはどこを見回しても見当たらない。
 当時、住宅都市開発省次官であったロバート・C・ウッドが次のように指示した中級階級の下層に属している労働者についても同じことが言える。彼は「アメリカの夢」から完全に遠ざけられているわけではないが、現実にこの夢はとても実現しない。
 
 彼は会計に雇われた白人の男性であるが、年収は5,000〜10,000ドルの間である。彼は規則正しく、着実に働き、一応家族を養っている。ブルー・カラーかホワイト・カラーを着ている。しかし、彼はすでに35才、将来性は固定してしまっている。責任ばかり重く、家族は多すぎるし将来を期待しても機会をとらえられるほどの技量もない。(シュラッグ、1966年)
 カートライトも次のように述べている。
 
 自分は何のために働いてきたのかと、あたりを見回して証を探しても、目に入るものといったら、子供を育てるにはあまりにも不細工にできている家、車庫に捨てたままの電気製品、買って1、2年しかならないのにガタガタになってしまった車が2台、買ったばかりのときは綺麗でビニールのカバーをつけたい位だった家具、それに夕食用缶詰の空缶でいっぱいのゴミ箱ばかりが目立つ電気式台所だけである。
 
 連続テレビ番組に登場するアーチー・バンカーはこのような労働者の典型である。シュラッグはこう述べている。―「彼は決して間違ったことはしていない。法を守り、必ず礼拝式に出る。子供には自分より良い教育を受けさせたいと思っている。しかし、正しく生きていても得にはならないように思える。」現実に、彼はこの現状をなんともしがたい。職場では、意思決定を行うチャンスは殆どない。この欲求不満のはけ口として、彼は競馬をやるようになることもある。シュラッグも言っているように、「勝てば、ささやかながら自分の世界を支配できた、自分の無能を克服できたという実感を得ることができる。負ければ、運が悪かったと思えばすむ。」
 
 キャンベルが、ネバダ州ヘンダースンで行った面接調査の結果、このような状況に置かれた人物は、現実にこの種のはけ口としてギャンブルを行うことを確かめることができた。ヘンダースンは、ラス・ベガスから数マイル離れたどころにある工業都市である。第二次大戦中につくられたこの町の財政はストーファー、テタニウムなどの化学会社に依存しており、従って、町の上空は煤煙で充満している。化学工場で働く人たちは、煤煙の中で生活し、労働することが健康によくないことを承知しているが、どうしようもない。失業率は高く、工場は環境保護庁の規制に適合するのをなるべく遅らせようとしている。ヘンダースンの住民の大多数はギャンブルをする。ラス・ベガスのカジノセンターと同じように、ヘンダースンでも、その気になれば、非常に安い賭け金でゲームを楽しむことができる。カジノの内部は家庭的な雰囲気にみちている。
 キャンベルはヘンダースンの住民からいちいちコメントをとったが、次のコメントが典型的なものである。
 
 「私はあのいやな工場で一日中働いてるんですよ。子供は学校がきらいでね、子供もあの工場で働くことになるんでしょう。ま、どこへ行ったって同じことだから、ここに居座ってんですよ。ええ、私はギャンブルをしますよ。男ですからねえ。(ミズーリ州からネバダ州へ移ってきたという45才位の男性)」
 
 もちろん、女性も男性も同じ位ギャンブルをするが、男性の場合、ギャンブルは男らしさに通じると考えているようである。これは、前述の無能感の克服と関係があるのかもしれない。
 これとは別に、「時間を買う人」もいる。日雇いの清掃婦をしている女性は、ギャンブルをする理由を次のように語っているが、これは、カジノの支配人の言う「仕事を与えられる人種」のギャンブル動機と言える。(もっとも、これは大企業がカジノを買収する前の話で、大企業進出以後は、仕事を変える人はきらわれるようになった。)
 
 「私にとってギャンブルは何か、ですか。私は大勝ちすることはありません。でも、少しでも勝てば、翌日は電話で、“休みます”と言って、金がある間は何日でも休んでしまいます。金がある間は自分の時間を楽しめますからね。あとは何もないし、何か買うよりも時間が欲しいんですよ。どうせへたばるまで働かなくちゃならないんだから、とにかく今時間が欲しい。雇い主は私をクビにできませんよ。私はよく働くし、別の人を探すのは難しいでしょう。私がここでゲームをするのは知っている人が多いし、みんなやさしいから。ディーラーも21人知ってるから、いいゲームができます。請求書の支払いに要る金は使いません。ゲームにあまり金は使わないんですよ。」
 
 このように、報われない職業からしばしの間の自由を得ることが、ギャンブルの楽しみと混ざり合っている場合もある。
 
 「ささやかな反逆を試みる人」もいる。30才位の男性は次のように語ってくれた。
 
 「土曜日の午後にできるものといったらほかに何がありますか?私は、ギャンブルをするときはギャンブル用に割当てた金を使います。生活費を持ちだしたら女房に殺されてしまいますよ。もちろん、たまには破目をはずしますよ。男ですからね。仙人じゃないからね。全然破目をはずさない男は尊敬できないね。一日中現場監督に言われる通りに仕事をしているんですよ。意味をなす、なさないなんて問題じゃないんだ。これじゃ、たまには破目もはずしたくなりますよ。それで小切手を持ち出して、パッとやるわけです(笑い)。勝ったときは、金を家に持って帰りますよ。途中どこかにひっかからなければね(笑い)。そして女房に渡す。女房はそれで自分が欲しいと思っていたものか子供が欲しがっていたものを買ってるようですよ。女房はあまり気にかけません。こんなときは、私を甲斐性のある夫だと思うんでしょうね。」
 
 破目をはずしたいというこの男性の欲求は、現場監督と妻から離れて自由になりたいという欲求であるように思われる。ギャンブルが公認されないところに住んでいる人は、このような欲求をどう処理するのだろうか?たいていの州ではギャンブルが禁止されているから、不満なギャンブルに走ることになる。従って罪悪感がともなう。
 ハリウッドの競馬を研究したロステンは「競馬は疲れ切った心に生きる人工の危機感だった」と述べている。逃げ場のない工場労働者についても同じことが言えるだろう。危機感によって工場労働者はしばしばの間その全能力を発揮することができる。
 状況は異なるが、大学を出たばかりの若い小学校教師が初めての授業を開始した時のことを次のように述べている。
 
 「私は毎週学校で教えています。わたしは良いことをしていると思っています。腹を減らして登校する子が多いということを知ってますが、彼らは私がタッチできない問題をかかえているんです。気が重くなりますよ。それで、私は少しギャンブルをします。大した金額じゃありません。教師のサラリーはたかが知れてますからね、それでも気分はよくなります。しばらくの間、世間のことを忘れることができますから。ゲームに熱中しちゃいます。他の人も大体こんなもんじゃないですか。ギャンブルはいいですよ。」
 
 このように、ギャンブルは憂うつを吹きとばしてくれ、明日の仕事の活力となる場合もあるわけである。
 
 ある若い秘書も次のように語っている。
 
 「ギャンブルはすべきでないと思うんですが、別に人様を傷つけてるわけでもないし、ここから離れることがどんなものかおわかりになりますか?タイプを打つ必要もないし、砂漠もないし、ヘンダースンもなくなるんです。私はケーノが好きです。魅力的なゲームですよ。あれは大勝ちすれば、この上なく気分がいいし、いくら貯金しても偉くなれるわけはないのに、ケーノなら勝てばかなり儲けた気持ちになります。だから、ケーノをするのです。少しの金でかなり儲けられますから。」
 
 ミラーによれば、下層階級の人たちは、自分たちは自分たちの生活を支配しているかを制御できないし、目標を達成しようとしてもできない、と感じているという。この若い女性は、ミラーの言葉を裏書きしているようである。
 
 悲惨な経済状態はギャンブル衝動を刺激するようである。ギャンブル業界筋によると、不況になると、ギャンブル熱が高まるという。シャワエッツは次のように述べている―「不況は、ギャンブル熱をさますどころかむしろこれを煽る。ギャンブラーは少しばかりの金でくよくよするよりも、ありったけの金を大勝ちするチャンスに賭けた方がいいと考える。」
 これは一種の意思決定である。ギャンブラーは運命の命令に屈服するかわりに、これに反抗するのである。ドストエフスキーはアレクセイにこう言わせている―「不思議な欲求が私の中に生まれた。それは、いわば、運命に対する反抗であり、運命に挑戦したいという欲求だった。」
 このように、男女、既婚、未婚を問わず、ささやかな賭けをする何百万ものギャンブラーは、ギャンブルによって、工場や事務所や家庭ではしばしば否定されている意思決定プロセスに参加する機会が得られるということを承知している。ギャンブルによって、勝つ勝利の喜びを味わうことができ、また、金が儲けられるという希望も生まれてくる。自分の経済力以上に賭けることは滅多にせず彼らは、しばしの間、日常生活の単調さから脱出し、全力投球の快感を得ることができるのである。
 以上のような理由から、これらの人びとにとってレクリェーションであるギャンブルについて実験を試みてもよいと思う。実験の結果、職場での事故、常習性欠勤が減少するように思われる。ここで言う実験とは、コーヒー・ブレークと同じように、職場でギャンブル・ブレークを認める実験である。賞品は現金でなくてもよかろう。労働者にとって、休憩時間は金銭と同等の価値があるのである。
松田義幸(まつだ よしゆき)
1939年生まれ。
東京教育大学卒業。
余暇開発センター主任研究員を経て、筑波大学教授、実践女子大学教授を歴任。
 
 
 
 
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