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事務局の健闘を祈る
「全施協10年のあゆみ」(昭和39年発行)から転載
 
元児島市長
中塚 元太郎
 
 
 施行者協議会の話をするには、私はどうしても競艇を初めて開催した当時のわれわれの苦心談から始めなければ、協議会がどうして生まれたか、そして、協議会事務局に託しているわれわれの願望が何であるかが判らないと思うので、私に関する、児島初開催当時の話から簡単に述べたい。
 戦後の自治体のどこでもがそうであったようにわが児島市も、戦後の諸制度の改革によって、市財政は極度の窮迫に追い込まれ、職員の給与も欠配寸前の危機にあった。
 私たちは、この財政危機をどうして打開するかと、頭の中は毎日このことでいっぱいであった。お隣りの玉野市が競輪を施行して、相当大きな成績をあげているのを見て、競輪場の一時借用方を考えたりしたこともあった。
 たまたま、昭和26年7月のある日曜日だったが下津井電鉄永山社長から大室海水浴場にお招きを受け、当時の中村助役、岡村県議等と共に御伺いしたところ「モーターボート競走法が国会を通過したというではないか、財政危機打開の財源をこれに求めてはどうか」という話があった。「建設資金が相当要るでしょう」というと、永山社長は「なあに、海岸にサンドウラを敷いてフアンを集めさえすれば、ボートは1人で走ってくれるよ」というような、いとも簡単そうな話だった。
 ともあれこちらは水を求めていた魚だから、これを契機に、当時産業課長だった現在の井口助役を中心に、積極的な研究、調査をはじめ、その年の9月に指定の申請をしたのであった。
 申請にあたって私としては、勿論、まかりまちがえば腹を切る覚悟であった。何しろ、地方の小都市にとって、しかも苦しい財政のなかから出す設備費の何千万円という金額は血のにじむ大金であったからだ。従って競走場建設の場所選定には大事に大事をとり、慎重な調査研究の結果、国立公園の特別地域である鷲羽山麓の現位置に、観光の一施設として競走場を決定したのであった。
 また、市議会の協賛を得るにも各般にわたった苦心をしたものである。殊に隣町(現在倉敷市に合併)の共催申し込みに対する案件審議の光景は今なお眼底に強く焼き付いている。かくて、その後も紆余曲折はあったが、申請書提出から約1年後の昭和27年11月22日に漸く初開催の運びにまで漕ぎつけ得たのであった。
 この間、事業に対する反対にもあい、レース場の位置に関するトラブル等もあって、私など、生命の危険を感じたことさえあった。
 こうして、あらゆる労苦と障害を乗り越えて、それこそ身を削る思いをしてまで、われわれが競艇に執着した所以は、一に、これによって市財政をプラスに持ってゆきたいと念願したからにほかならない。
 開催はしたけれど、中間支出が多過ぎて、プラスの面は余りにも僅少・・・では、われわれとして市民に対し申訳ないのである。
 だから、各施行者が“共同問題に対しては歩調を一にして善処して行こう”という考えになったことは当然で、この当然の必要性から生れたのが“施行者協議会”であると私は思う。
 この機会に、私の希望を少し述べさせて貰うならば、協議会事務局は、競艇事業の発展を願うわれわれに代って、大所高所から競艇界のあらゆる問題に気を配って、発展のための研究、調査を重ね、われわれに豊富な資料を提供して貰いたいと思うのである。
 売上向上のためには、如何あるべきか、というようなことや、また、いつも問題になる選手処遇の問題とか、いま問題の施設の改善問題にしても各類似競技の動き、あり方等を調べ、更に、その時々の経済事情をも睨みあわせて、競艇施行者として最も妥当な判断を下すことが出来る資料を提供してもらいたいと思うのである。
 それでこそ、協議会結成の趣旨も生きてくるし東京に事務局を設置した意義もあるというものである。
 事務局開設10周年記念日を迎えて、事務局の健斗を心から祈る次第である。
 
(筆者は、昭和27年児島競艇場開設当時の児島市長。昭和29年12月から31年10月までの間、また、昭和39年6月から42年5月までの間、全施協副会長を重任され競艇事業の発展に尽くされた。)
 
東京に事務局創設の思い出
「全施協10年のあゆみ」(昭和39年発行)から転載
 
初代事務局長
菊山 嘉男
 
 
 全国モーターボート競走施行者協議会の事務局が、初めて東京に設置せられ、私がその初代の事務局長に選ばれたのが昭和29年9月1日のことであった。
 当時の会長は津の市長堀川さんであり、次で若松の市長吉田さんに代り、このお二人の会長さんの下で、事務局長として運輸省、自治庁、警察庁等の中央監督官庁や、全国モーターボート競走会連合会等との間に立って、連絡協調の実務に当ったのであるが、当時は敗戦後の混乱未だ全く鎮静するに至っていない時ではあり、競艇、競輪、競馬の如き所謂ギャンブルの施行に対しては世上幾多の論議があり、又競走の施行内容そのものについても種々の問題が続出したのであったが、幸にして役員諸公の達識と、笹川連合会会長の高き才腕により、一つ一つ難局を克服して今日あるを致さしめられた功績は、特筆大書してその労をたたえなければならぬと思う。
 競艇は今さら申すまでもなく、海事思想の発揚、海洋精神の涵養に多くの貢献をなし、国民に壮快なる娯楽の妙味を味わわしめ、同時に施行者たる地方団体に適当なる財源を得せしめ、住民の負担を加重することなくして、地方財政に所謂“自由財源”を供給し得るという点で、地方団体側の関心を惹く事業の一つとなっていることは御承知の通りである。
 ただしかし、その本体はギャンブルであることは否定し難く、苟くも地方団体がギャンブルのテラ銭を稼ぐとは怪しからぬという道学者先生達の御叱りは、当時からもあり、又今後も消ゆることはないであろうと思われる。
 ギャンブルといえば聞えは悪いが、人間万事塞翁が馬、何人も僥倖を楽しむという性向は否めない。ただこの楽しみに適当なる限界を立て、節度を守らしめ、乱に陥らざらしめる用心をしておくことは勿論必要であろうが、その限界の範囲内において、衆庶をして気を抜かしめ、楽しましむるものありとせば、これ亦可ならずやといいたい。況や海洋思想の涵養、機器機関の発達、地方財政への寄与といったような幾多の利益を附随するにおいておやというのが、吾々競艇賛成者側の言い分であった。
 しかしこの競艇の本質論その功罪は、幾多の論議の存する所であって、簡単に論じ去ることは困難であると思うが、幸にして施行以来十年を閲し業績大に挙れることを聞知し得るは慶祝の至りである。何卒益々その短所は之を矯正し、その長所は大に之を発揮して設立の趣旨に副われんことを希望する次第である。
 
(筆者は、内務省出身で元山口県知事。昭和29年9月から32年4月まで全施協初代事務局長を務められた。)
 
事務局10年の思い出
「全施協10年のあゆみ」(昭和39年発行)から転載
 
全施協事務局 主事(当時)
羽金 美代子
 
 昭和29年9月1日、全施協事務局が、現在の日本都市センターの前身、市長会別館の一室に初めて店開きをしたとき、私は菊山局長の下で、局員第1号として初出勤いたしました。
 事務局は、木造のギシギシ階段を上って2階の小さな部屋、6畳ほどもありましたでしょうか汚い壁の部屋でした。この部屋に借り机を2つ置いて、菊山局長と私と2人で、なにから手をつけようかと、思案と相談で第1日目を終わってしまいました。夕刻何はともあれ――というので、2人で銀座松屋に行き、大学ノート2冊、お湯呑茶碗10個、60円のソロバンを1個、それに、いまはもう役に立たなくなっているホッチキス1個を買いました。これが事務局最初の買物でした。
 2日目からは、事務局内の整備にかかりましたが、一番困ったことは専用電話がなかったことで電話がかかってくるたびに大きな声で呼び出してもらって、階下まで走って行かねばならぬことでした。
 改築の話が出て、日本橋の兜橋ビル4階に移転したのが昭和32年4月15日。このビルにはエレベーターがなく、70数段の階段を毎日最少限1往復はしなければならなかったことは、まだ若かった私にも相当骨身にこたえる苦行でした。もちろん冷暖房の設備はありません。冬は湯たんぽを持ってきて足をのせ、夏は汚い神田川の川風を頼りにしてまる2カ年を過し、34年4月、元の古巣、とはいっても、月とスッポンほども違う近代ビルディングに生れ替った、いまの都市センターに戻って参ったのでございました。
 
(筆者は、全施協の最初の事務局員として、昭和29年9月から昭和53年12月まで勤務。)
 
創業時代の思い出
「全施協20年のあゆみ」(昭和49年11月発行)から抜粋転載
 
第3代会長 元若松市長
吉田 敬太郎
 
 
(前略)
 私は26年4月若松市長に就任し30年5月に本会の第3代目の会長として御推薦を受け、34年5月まで創業初期のまとめ役をいたしました。
 ご承知の如く競走法は26年に時限立法として制定され、27年4月大村湾頭で全国初の波しぶきがあげられ、その後27年中に8カ所、28年中に更に8カ所が認可され、29年に約5カ所そして30年に2カ所、31年に1カ所が加えられて、大体初期施行者の数が決まりました。
 そこで各施行者間の横の連絡をはかり共通の課題について共同の研究をし協力することの必要から、昭和27年の12月に津市長志田さんの提唱により全施協が発足し、同市長が初代会長におされ28年4月に同じく津市長となられた堀川さんが第2代目の会長を受けられ、同年9月1日東京平河町の全国市長会の別館内に、菊山嘉男氏を初代の事務局長に迎え全施協の本事務所が開設されたのでありますが、建物は戦後の木造バラックで周辺は雑草に包まれ、職員は女子職員1名で総員2名の発足でした。その翌年の5月私が3代目会長としてこのオンボロの事務所の階段をガタゴトとならして初登場をしました頃には、会長の机もなく人員も黒瀬総務部長と、小野主事を加えてやっと計4、5名が補強された頃でした。この少数の人員で運輸省、自治省等の監督官庁との折衝や競走会連合会との連絡や全国20数カ所の施行者との連絡協議や事務通信の取りかわし等にあたった菊山局長等の御労苦をしのび厚く感謝申し上げると共に、その後をうけて事務局の拡大強化に尽くされた高橋百千氏にもその御労苦に対し深甚の謝意を表し度く思います。
(中略)
 さて私の在任中の主要なる思い出の2、3を申しあげます。
 第1の問題は昭和30年前後のあの競輪、競艇等の射倖事業に対する世論の非難と国会の強い風当りを如何に緩和し、本事業の継続をはかるべきかでした。外には全廃、制限等の叫びがおこり、内には自粛の必要を求められた当時の危機的実情を詳細に述べる余裕はありませんが、要約しますと終戦後先に公認されていました自転車競技等の八百長的不正競走や振興会の経理の不始末等から、世論の非難が強まり、そのあおりを食ってやっと仕事を始めた揺らん期の競艇までが、危くすると臨時立法の改正を機として廃止又は大きな制限を受けかねない緊迫した情勢を示してまいりましたのです。
 そこで初期の会長として最も重要な課題は先ず主務官庁である運輸省や自治省の指導に従いつつ、連合会と協力一致して、内には全施行者の自粛自戒を充分にはかると共に、外には特に立法の府としての衆参両院の関係各位に向って、競艇が他の競輪、競馬等のそれとの特異性を説明し、地方財政の窮乏の今日、本事業法の継続延長存続されますよう懸命の陳情と工作に奔走する事にありました。
 幸に笹川連合会長も私も戦時中の国会に席をつらねた前歴者の故に国会方面に旧知友として理解と支援を与えて下さる人も多少ありましたので大いに助かりました。なかには、相当鼻いきの荒い人もありまして、頭から一切のギャンブル行為はけしからぬものだ、競輪、競艇等の賭博を国家が公認するとはもっての外だ。速かに廃止すべきものだと真向から断罪される方もありました。勿論本事業にも射倖性が相当ありますが其をつとめて稀薄化し、それを健全娯楽として国民大衆の要求に応える事も政治の大切な役目でありますから、こうした単純な割りきった書生論に何時迄も平身低頭して引き下がるわけにも行かなくなり、ついに陳情者としてはやや行過ぎを覚悟の上で、いささか弁明と反論をやりました。
 私も戦時中の国会に席をおいた一人ですし、県議にも2度出たので選挙は数回やりましたので国会の先生方におたずねしました。皆さんの選挙も明に賭博性を多分に持っているのではないでしょうかと。勿論選挙には人的努力を大いに要しますが、投票の結果はあけてみなくては誰にもわからないものでしょう。特に接戦の場合には僅か1票の差で当落の運命が決せられますが、これはギャンブルとどこがちがうのでしょうか。いや実業家の商売でも、農家の耕作物でも、景気次第天候次第で大きく左右されるでしょう。誰でもきっと儲かると思って企画し、投資し努力するが、どの仕事でもやってみなくちゃ結果はわからない。儲かると思って大損となり、赤字赤字が景気の変動や海外の変動から、一転大利を博する事もある。いや人間の一生すら生れた時からがギャンブルみたいなものでしょう。早く若死する者もあれば、達者で百才の寿命に恵まれる人もある。人間あすの命すらわからぬものだ。人命こそ一番大きなカケじゃないですかな。と私はちと啖呵を切って引き下がった事もありました。それが評判になって何かの機関紙に載せられた記憶があります。
 こんなすったもんだの波瀾動揺の中にも、幸に主務官庁の慎重懇切なご指導と、笹川連合会長の時機に適した政治折衝により、又全施行者全員の極めて謙虚な涙ぐましいまでの自粛自戒の協力一致によって、幸に32年の法改正も無事にのりきって前途に明るさを覚える事ができました。ここに当時の苦闘を追想して往事の御支援を賜った方々に感謝の念を新たにする次第です。
 第2の思い出としては、競艇事業の初期の売上げ増強をいかにはかるかという研究と苦心でした。この案件は全施協の会合が行われるたびごとに、何時も皆の話題となった施行者共通の悩みの種でした。何分にも私たち本事業に手を染めた地方公共団体は、ひたすら地方自治体の財政窮乏を、何とかして少しでも補足したいとの念願から、なけなしの財布をはたいてやりくり算段の上、施設の建設をやったものです。施行者のなかには市財政がからっぽなので、建設業者に懇談して業者の資金で造ってもらって、収益から年賦償還するといった苦肉の策を取ったところもありました。
 こうした苦心惨たんして始められた競艇事業も、さて蓋を開けてみるとなんとも予想外の低調な成績で、私のところでも当初の平均1日の舟券売上高はよくて500万〜600万円、雨天だと300万〜400万円と言うありさまで、どこの施行者も収支の前途に心を痛め、何とかして売上げの増強をはかりたいと、鳩首協議研究したものです。しかし競艇は、競馬、競輪等とちがってモーターボートの複雑なエンジンについての機械的知識や、舟についての一般的知識も乏しい時代でしたから、競艇事業の開始と併行して、フアンの育成増加を行なわなくてはならないと言う、実に火事場で梯子を探すような有様でした。
 他方では26年に競艇の法律は出来たものの、27年春からの開催後続々と開催地が増加するにつれて、選手の養成配分が充分これに応じきれず、精鋭な選手による面白い競走が行なわれない以上舟券の売れ行きも上がらないわけで、競走会連合会と全施協と選手会との協調が必要な課題となりました。
 更にこうした人気の機微に順応しなくてはならぬ水商売を担当する各地の施行者側の準備態勢はどうかと言えば、まことに心寒い次第で、昔ながらの地方公務員、つまり品のよいお役人さんたちに急に人気商売の仕事をやれと言われても不馴れの仕事は直にはやれません。少なくとも本事業の業務に一応の知識と習熟をするには多少の育成の日時が必要です。それなのに実情は必要にせまられて、皆ぶっつけ本番で競走会の支援と主務官庁の指導をたのみに、勇敢と言うか大胆に取り組んだものです。従って意外なミスも多少ありましたが、次第に業務要員の整備もできて陣容を一新する事ができて参りました。これにはまことに感慨深いものがあります。
 第3に申し述べたい事は、あの法改正前後の頃の自粛自戒のための苦しい忍従と試練の時代のことです。世論の風あたりをさけ無用な刺激を与えないようにと、運輸省の次官通牒や局長の通達が次々とあり、これに対して全施協では数回の会合をもって事業の健全化をどうはかるか、自粛の実行案を色々と協議しました。賭博性を少なくするための方策の一つとして、レースの間に水上スキーをやれとか、アマチュアのレースをやらしてみたらとか、珍案が出たりしました。しかし特に悩まされたのは競艇の開催日数が多すぎるから、削減したらどうかとの提案でした。これは角をためて牛を殺すような不可能を強いる案で、全施協の総会の決議をもって政府筋によく陳情して、案の不成立にこぎつける事ができました。開催日数の12日を1日でも少なくすればそれでなくても増収を願っている時に著しい売上高の減少を来たし、施行者の中には脱落廃止のやむなき所も出ますので大変な危機でありました。
 さて思い出話はこれ位にして最後に本事業のために今後一層の隆盛を期して現役の会長始め役職員の方々に益々御奮闘下さるように心からお願したいと思います。最近の資料を拝見してその偉大且長足の伸展ぶりに驚嘆すると共に、歴代の役職員の皆さんに深くその労苦を感謝申し上げます。しかし聞く所によれば本事業を公営から私営に移管したらとの愚論がまだ残っている由ですが、立法の趣旨から見ても、その監督統制の徹底的必要性からみても、之は公共団体の主催とする以外に絶対に安全明朗化を期しがたいものと存じます。日本経済の驚異的な成長に伴い、本事業も驚異的伸展をみたのですが、この成功に安心して将来一段の伸展策を怠ってはなりますまい。本事業の将来にも大衆娯楽の健全化を期して、色々の課題があるように思われますから、願わくは現会長を中心に全役職員及び全構成団体の心豊かな一致協力により益々この20年の成果を拡大伸展して、私たちの希望と期待にこたえて下さる様祈ってやまない次第です。
 
(筆者は、若松競艇場開設当時の若松市長で全施協第3代会長。昭和38年5市合併による北九州市発足時の市長職務執行者。)
 







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