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全施協はかくして生れた
「全施協10年のあゆみ」(昭和39年発行)から転載
 
津市助役(当時)
中西 甚七
 
 
 私が津市の助役に就任したのは昭和26年11月初旬で、このときには既にもう、津市では、明年中にモーターボート競走を実施するという予定が組まれていて、志田市長は、全国のトップを切って、第一号施行者になろうという意気込みで着々と準備を進めておられた。
 モーターボート競走の施行にあたっては、市役所としてはこれを公企業とし、独立会計予算を組んで、本予算と経理を別途にすることにした。しかし戦災で全市の70%が焼野原と化した津市の財政は、当時非常に窮迫していたので、一時といえども本会計からの資金の融通は困難な状態であった。従って、競艇場建設費1200万円の見積書を前にして、首脳陣一同手も足も出ずその金の捻出をどうするかで先ず頭を痛めたものだった。
 結局は、建設業者を拝み倒して、後払いの、しかも月賦償還という、こちらにとってはまことに虫のよい、業者にとっては採算度外の、全くの犠牲的な精神の上に建設された施設だった。
 一日一日と施設が形をなしてゆくにつれ、当時の市関係者の心境は、一日も早く開催して施設に要した借入金を早く償還したい、危機にある市財政に一日も早くプラスしたいということであった。
 このほか、いろいろと言うに言えない障害を乗り越えて、やっと開催の運びにまで漕ぎつけたときは、関係者一同、心身共にくたくたで、思わず涙がにじみ出るのをどうすることも出来なかった。
 こうして漸く開催となり、11月頃には開催地も増えて九ケ所くらいになったが、今度は施行者の存立を危くするような問題が業界の内部にあることがいろいろと判ってきた。
 例えば国庫納付金に関する問題とか、競走会との委任契約の問題とか、選手の災害に対する補償の問題とかいろいろで、しかも、これらはすべて各施行者に共通した重要問題であったところから、共通問題に対する思想統一の必要が痛感され、期せずして一度全施行者が一堂に会して、話し合おうではないかということになり、27年11月、志田市長の名をもって施行者協議会開催の発議となったのであった。
 かくて、12月16日、初めて全施行者が津市役所に顔を揃えたわけであるが、利害関係を同じくする者の集まりであるから話も早く、共同問題に対する善処策研究のため、お互いの話し合いの場を常置しようということになり、ここに会則を定め、役員を作って、「全国モーターボート競走施行者協議会」が産声をあげたのであった。
 
(筆者は、津競艇場開設当時の津市助役。志田市長退任後全施協会長職務代理を務められた。)
 
初開催の売上成績
 
 昭和27年7月4日、津競艇は全国公認第1号として処女レースのしぶきを岩田河口にあげた。大村におけるテストレースと共に競艇界にとって記念すべき日である。
 初開催第1日の売上4,055,200円はまずまずのすべり出しを示し、第2日4,256,100円、第3日に至って7,545,600円と急昇し、3日間の平均売上は5,285,600円となった。
 津市自身はもとより運輸省、連合会その他競艇に関心を有するすべての方面からその成績いかにと、疑心と不安と期待との交錯した目で注目されていたので、これで払拭されたといえる。
 当時、競艇を開設しようと計画されていたある自治体は、津市程度の安直な施設とその立地条件の下でこの成績をあげられることを見て大いに自信を得たと語った。405万円という数字は、記念すべき数字として誰にも強く記憶された。
 当時の助役中西甚七氏は、開設準備時代の建設をはじめ、モーターボートの獲得など、ほとんど競艇開設事務一切を任されていたので、最も苦労した1人である。
(初代公企業課長増田正吾氏が編纂した「津競艇沿革史」より)
 
「きょうてい」の名付親は志田市長――津競艇開設当時の思い出を語る
三重県モーターボート競走会作製の津競艇開設十周年記念特集「あれから十年」誌から抜粋転載
 
津市公企業課長(当時)
増田 正吾
 
 
 今までその道で渡世をして来た人々が騒いでいるとの聞き込みがあった。市役所が公設賭場を開いたんでは、われわれの縄張りはあがったりだ。やるならやるで、われわれに対して一応の挨拶があってしかるべきだ。というのである。「さもなくば、岩田川の川上から藁切れを流して、レースを出来ないようにする・・・」との噂まで流れた。
 私は市内の顔役十数名を一夕料亭に招いて、仁義というものをつくした。酒に強い方ではないが、張り切っていると案外酒は殺せるもので、その晩は結構座をつとめて、十数人の歴々と兄弟の盃を交わした。(中略)
 競走水域の水深は、当時は1m半の規格どころか、干潮時はボートのスクリューが底につかえる所があった。開催日を決めるのには先ず第一に潮の満干表を見なければならなかった。連合会からは、競走場の認可申請に偽りがあったと怒られる。市長からは、引き潮の流れのあるとき、浅い個所の底砂を鋤れんで掻きおこし、下流に押し流したらよいではないか、やれ!との厳命である。お蔭で、課員は潮干狩りを楽しむことが出来、私はあさり汁の御馳走にありつけた。海底鳴動してあさり数粒である。
 議会で、モーターボート競走法の説明を求められて、私は法の第一条に掲げてある海事思想の鼓吹や、造船事業の振興やらと法の精神について得意に一席ぶったあと、併せて地方財政へ寄与するとある僅かなねらいで私共は実施している、と付け足したところ、M議員すかさず立って、課長は僅かにと云ったが、われわれにはそれがすべてである。と反駁する。小さな議場に僅かな世界とすべての世界の対立を生じたが、考えてみると同じことを考えながら対立するという現象は世の中には多いことである。
 レースが終ったあと、スッカリすってしまったファンの一人が、ヤケ酒をきこしめして指揮所へ怒鳴り込んで来た。「ツマランことを始めやがって、おかげで大損だ。明日から止めてしまえ」と仰せられる。それでは来られなければよいじゃありませんか、というと「それでも合図の花火をポンポンとあげるじゃないか」と。
 競輪の「競」だから「けい艇」というべきか、などという意見もあったが、兄弟相せめぐように聞えて面白くないというので「きょうてい」としたが、この呼称は、志田市長の命名であった。(後略)
 
(筆者は、津競艇場開設当時の津市公企業課長。当時の津市助役中西甚七氏とともに全施協発足初期の運営にあたられた。)
 
津競艇初開催の広報、宣伝
 
 昭和27年7月4日の初開催にあたり、一般大衆に対して、モーターボートレースとはいかなるものであるかということを啓蒙宣伝することが先決問題であったので、これにあたった志田市長は、近鉄津駅頭に立って乗客に「チラシ」を渡すということまでした。
 
 
 また、公企業課、宣伝係は、「津競艇」と書いた「タスキ」をかけて近鉄車内に乗り込み、乗客にチラシ、マッチ等を配布して叱られ強制下車させられたこともあった。
(志ぶき昭和55年4月号「24競艇場の回顧」より)







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